そして、二人は始まった。

 ビルの三階にあるカフェバー。つい先日来たばっかりだが、そのときは彼女の意図が読めずにどぎまぎしていて、内装にはあまり目を通していなかった。

 入り口からして、他に入っている居酒屋とは違って洒落ている。


「いらっしゃいませ」


 間接照明の穏やかな店内に映える、明るいグレーのスーツに身を包んだボーイ。彼は、先日も受付をしていた。

 そして、また気を利かせて、僕たちを窓際のテーブル席へと案内する。観葉植物の鮮やかな蔦が絡みついた衝立で囲われていて、輪をかけて雰囲気が出ている。


「あ、ありがとうございます」


 なんか、この前よりも素敵ですね、と微笑む彼女。なんだそれ、プロポーズを女の勘で読み取ったみたいになってるぞ。

 二人して同時に腰かけて、同時に咳払いをする。なんで、お互い緊張をしているんだか。


「この前は、ハイネケンを頼みましたよね。何から頼みます?」

「じゃあ、ギネススタウト」

「黒って渋いですねえ。私は、IPAにしようかな」


 IPA、インディアン・ペール・エールの頭文字を取ったもので、ホップの強い苦みがアクセントのビールだ。ブリュードッグのハードコアIPAをチョイスした。苦みがきつく、度数も高い。彼女の好みも充分に渋いと思う。

 しばらくすると、直輸入の良く冷えた瓶がテーブルに運ばれて、ウエイトレスが目の前で開栓。そして、グラスに注ぐ。泡の層が綺麗にできるのを見ると、注ぎ方が上手いなあ、と感嘆する。


「ここ、頼んだら空き瓶を持って帰れるのよ」

「へえ、木戸さん、よく来るんですか」


 彼女のことを、普通に“木戸さん”って読んでしまっている自分に驚く。


「私、バーで演奏するときは、ボトルネックもやってるんですけれど、そのとき、ここの空き瓶使ってます」


 彼女に関するマニアックすぎる知識が増えた。


「バーとかでも公演やっているんですか」

「公演って……、あれですよ。京橋のバーとかで演奏のバイトしているだけです。だから、ブログにも上げていないんで」

「上げてくださいよ、僕……、木戸さんのギターも好きなんです」

「ええ……、バイトのときは、カナリアって名前さえ使ってないですし。演奏だけですよ、ほんと」


 それでも全然かまわない。執拗に迫る度に彼女は照れくさそうに笑った。


「じゃあ、連絡先、交換しちゃいます?」


 さらっと彼女の口から出た提案で、肩がびくりと跳ね上がる。


「どうしたんですか?」


 彼女は僕の動揺っぷりに驚いたようだった。どうしたんですか、だって? 大ごとに決まっているだろ。


「いやだって、カナリアさんの連絡先なんて、夢みたいで」

「あはは、私は、アイドルかなにかですか?」


 いや、アイドルです。まごうことなき、僕のアイドルです。


「だって、連絡先よりも先に、お泊りしちゃってるんですよ」


 悪戯っぽく笑いながら指摘する。もういろいろ、順番が逆だ、と。たしかにそうだけれども――と考えるけれど、断る理由なんてひとつも見つからない。

 電話帳に、木戸加奈江の連絡先が追加された。


「仕事以外で、こんなの久しぶりで。私も新鮮です」


 あまり、プライベートでの付き合いとかは充実していない人なのか。と思ったところで、僕は彼女に関するプライベートな情報を思いだした。


「あの……、そう言えば大丈夫なんですか」

「何がですか」


 素知らぬ振りをして、口の周りについたビールの泡をナフキンで拭き取る。


「いや……、命を狙われているかもしれないとか、言っていたじゃないですか」

「……なかったことにしようとしていたのに」


 いや、そんなことできるはずがないだろ。


「今は、ほとんど部屋に帰っていません。なんか、安心できなくて……」

「安心できないって何が……」

「盗聴器、見つけたんです。部屋のコンセントに埋め込まれていました」


 え、と声が漏れる。まだ、どこかで、被害妄想なんじゃないか、と思っていた自分に、鋭いパンチが入った。


「盗聴器って、ストーカー被害とか?」

「それ以外のケースの方が多いから、何とも言えないです。それを私が目的で付けたのかどうかも判別がつかない。いつから付いていたのかも分からないですし」


 そこくらいは、命を狙われているかもしれない、と僕に迫って来たくらいの強引さを発揮してもいいんじゃないかと思う。


「そんな状態で、いつも歌っていて大丈夫なんですか。いつも天王寺で歌っていて……。怪しい男にライブ中もつけられているかもしれないとか、言ってたじゃないですか」

「そうなんですけど、私は、歌を歌うことしか、生き方を知らない。楽器が弾けて、歌が歌えるから、私が苦しいっていう叫びが、歌になって、みんなが聞いてくれる。私は、そうやって生きて来たんです。だから、歌うことを辞めたら、私はただの駄々っ子なんです」


 僕だって、彼女の歌が聞けなくなるのは嫌だ。彼女にはずっと、歌っていて欲しい。そう思うあまりに、僕の口から、とんでもない言葉が転がり出て来た。


「木戸さん……。僕と一緒に住みませんか?」

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