もう行ってしまえ

 仕事がまるで手につかない。モニターの中で製図は、ぼやけて見えるし、思考もまとまらない。機械設計だから精密さが要求されるってのに、視覚が馬鹿になってしまっている。

 社内の自販機で買った鉄臭い味のするブラックコーヒーで喉を洗うけれど、一向に冴えない。また一口。うぇえ、とむせ返る。これでは、かえって逆効果だ。


「おいおい、大丈夫か。今日は定時で上がった方がええんとちゃうか?」


 笠原が心配そうに話しかける。ムカッと来た。だって、こいつにそそのかされて、僕は美郷と今更やり直せるだなんて思ってしまったんだ。――逆上しかけたところで、何とか踏みとどまれた。笠原からすれば、理不尽も甚だしいじゃないか。いいや、逆上はしていたか。

 僕は、握りしめた拳をそっと恥じた。


 コードはなんだっけ? ブラインドタッチもできない。ああ、今日はダメダメだ。


 笠原に言われた通り、定時で上がった。

 社食では、「今日は荒れてるな」なんて言われたけれど、美郷に二度もふられた話はしないでおいた。どうせ、あいつのことだ。飲んで忘れようなんて話になるのは目に見えていて、それを断るのも億劫だし、だいいち、そんな気分じゃない。


 つり革をぐいぐい引っ張ってまで肩を落として腰を曲げている。かろうじての自制心で、顔を上げたところに、車窓に映る打ちのめされた自分の顔。

 美郷と最初から出会ってなければ、こんな無様な顔はしていないだろうな。そんな失恋ソングの定番フレーズみたいな文句をひとり噛みしめる。

 悲しい歌ばかり、頭の中で流れてしまうから、何かで上塗りしたかった。


 定時で上がると、歌姫の登場時刻までに空き時間がある。

 この前みたいに、話しかけられたりしたらボロが出かねない。途中から入って、途中で抜けよう。

 彼女のお決まりのライブ会場から、少し歩いて喫茶店に入る。そしてまたコーヒーを頼んでしまった。学習しろ、自分。


 完全に食傷になってしまったコーヒーには一切口をつけず、カウンターに突っ伏して時間を過ごしていた。バーだったら、マスターに声をかけられるだろう。

 腕時計を見やる。七時を過ぎている。もう、頃合いか。

 心の中でごめん、と謝りながら、氷が融けて半透明にまで薄まったコーヒーを捨てた。しばらくこの店には来れないな。

 気の早い、もわもわした熱帯夜に舌打ちをしながら店を出る。すると、彼女のギターの音が聞こえて来た。

 その瞬間、頭の片隅にずっと浮かんでいた美郷の顔に、白いインクがぶちまけられた。


“コンクリートの雑木林で しおれた花が頭を垂れてる

 彼をただ、信じていたのよ

 愛子まなごさえも手放してしまうほど”


 聞いたことのない旋律だ。新曲か。


“許さずに呪って 耳元で泣いて

 あなたの産声を聞かせて”


 ちっ、ちっ、と入るカッティングの音が、感情の高ぶりを表している。今回の新曲も、すごく、いい。声も真に迫っていて、涙で枯れている様にさえ聞こえる。


「ありがとうございます。し、新曲の、“愛なき愛子”でした」


 矛盾した表現が、味わい深いタイトルだ。それを口にする声は、上ずっていた。鼻をすする音を、マイクが何度か拾い上げる。そして、わざとらしい咳払い。


「ご、ごめんなさい。やっぱりまだ、この曲を歌うには早かったみたいです。すみません、今日はここでライブを……、終わります」


 言葉のすき間に彼女の嗚咽が挟まる。

 聴衆はいっせいに肩を落とした。しゅん、と顔面に暗幕を下ろす歌姫には、誰も声をかけようとしない。歌姫は、たとえ路上で歌っていても画面の向こう側のような存在で、話しかける人は稀だ。でも――


「ご、ごめんなさい。途中でライブ中断してしまって……」


 多分、話しかけられる人は、もっと稀だ。


「……どうしたんですか、いったい」


 いつもどおり五百円玉で、ギターケースの底を弾いてから、立ち上がる。彼女が泣いていた理由を尋ねるなんて、滑稽な話。さっきまで泣きそうだったのは、こっちなのにな。一瞬で立場が逆転だ。


「それは……、言えません……」


 また、彼女の秘密主義が発動した。けれど、本腰入れて相談されるような、懐の深い男でも、僕はないだろう。そうだったら、無様にふられてなんかいない。結局、僕は、自分に都合のいい存在を求めていただけなんだ。

 そう考えると、ますます自分が不甲斐ない。


「あんまり誰かを巻き込みたくなくて……」


 そう言うくせに、最初は僕を巻き込んで来たじゃないか。腹立たしい。


「じゃあ、いっつもどうして僕に声をかけるんですかっ」


 僕の叫びは最後上ずった。ここで逆上したら、自分の懐が浅いのに、居直っていることになるのに。なんて、声に出した後で後悔しても遅い。


「……、都合のいいこと言ってごめんなさい。辛い、とかそういう感情だけ聞き流してくれる存在が欲しくて……」


 一瞬、世界じゅうの音がクラクションだけになった。あまりにも都合のいい内容が、彼女の口から飛び出て来たから。

 でも気が付くと、僕は笑っていた。


「なんですか、それ……。僕だって、そんなもの欲しいですよ」


 ああ、そうだよな。そんなもの、誰だって欲しいよな。

 それで、踏み込んで欲しくないものってのはあって、それを示していれば、自分の予防線になって相手のことをいたわっているような錯覚に陥る。

 目の前で頬に川を流す歌姫は、僕に似ていた。


「でも……いいですよ。今日、金曜日ですし」

「え、何が、ですか?」

「あなたの話、聞いてあげるって言ってるんです」


 彼女は、少し戸惑いを見せてから、ありがとうと微笑んだ。

 混乱するのは当たり前だろう。思考がせわしなく、右往左往を繰り返していて、主張が安定していない僕。どっちつかずの末、また、やじろべえが倒れてしまった。

 ええい、もう行ってしまえ、と僕は、彼女の手を引いた。

 数秒遅れて、彼女が握り返してきた。僕は、なぜか、滾った。


 僕は美郷にしてあげられなかったことを、彼女にしてあげたかったのか。それが、贖罪にでもなると思ったのか。一瞬ぎる、自嘲に塗れた自己分析を振り払い、先日彼女に連れられたバーに入った。

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