ああ、最悪だ。

 ざあざあと雨のノイズ。雲が、今まで溜め込んでいたものをいっせいに吐き出したかのような大雨だ。おまけに風も強いから、傘が何度か裏返りそうになった。

 自宅マンションの前にたどり着いた頃には、ズボンの裾から靴下まで、ぐっちょりと濡れていた。こういうとき、普段着で来ていい職場でよかったと思う。


 郵便受けの中のチラシをゴミ箱へ投げ捨て、エントランスを抜ける。タイルの上でじゅっぽじゅっぽと靴が鳴る。

 ああ、靴下がぬれていて、気持ち悪い。


 エレベータの中、ひとりきりなのをいいことに、カナリアの歌を口ずさむ。今日も夕飯も食べないで最後まで聞いたから、お腹がペコペコだ。

 鈍い胃痛を感じながら、ああ、腹へったとひとりごちると、エレベータの扉が開いた。

すると、僕の部屋のドアに、上背のあるすらりとした女がもたれかかっていた。美郷だ。


「遅かったのね。返事してくれなかったのは初めてじゃない?」


 大して気にも止めていないような。けど、妙な口ぶりだ。


「来ているなら、連絡くらい……」

「コータも返信しなかった」


 それを引き合いに出してくるのか。付き合っているときはそうでもなかったのに、別れてから、美郷とのやり取りは、穏やかなものじゃなくなった。


「まあ、とりあえず入ってよ」


 風邪でも引かれたら困る。

 ありがと、と素っ気ない礼を言って、美郷は部屋に上がった。

 どういうわけで美郷は、訪ねてきたんだろう。返信がないからって、わざわざ待ち伏せなんてしないだろう。合鍵なんて自分から返してきたくせに。


「もしかしてさ、誰か最近来た?」


 尋常じゃない勘の鋭さを、美郷は発揮する。


「なんで、そう思うんだよ」

「お砂糖が減っている。コータは、料理で砂糖使わないし、コーヒーはブラックでしか飲まない」


 そんなのでわかるかよ、と反論したけれど、声が上ずってしまった。それを捉えて美郷は、なぜだか静かに笑った。

 それから、冷蔵庫を物色して料理を作り始めた。ろくに会話もしないまま、夕飯を作って一緒に食べる。前にハンバーグを作ってもらったときと同じ流れだ。

 いつかと同じように僕が、会話から逃げるようにテレビを見ている間に料理が出来上がった。ソースの香りで分かった。焼きそばだ。


「コータ、できたよ。食べて」


 食卓について、湯気のたつ焼きそばを口に運ぶ。ソースの香りが鼻に抜ける。油とオイスターソースの風味も感じる。やっぱり美郷の手料理は美味しい。

 そう思ったとき、笠原の言った余計な一言が頭によぎる。


『より戻されへんの?』

 

 僕の心の中で、やじろべえが倒れた。


「なあ、美郷……」

「なに?」

「もう一度、やり直したりできないのか」


 美郷は水を一口飲んで、ため息をついてから、無理ね、と言い放った。

 肩ががっくりと下がった。


「コータのことは好きだけど、一緒にいると苦しいの。コータはさ、私のこと、穏やかな人と思って、それが居心地いいんだろうけど、私はそんなんじゃないの。もっとお話もデートも……したりさ、抱き合ったりさ。恋人同士なんだからさ」

「そんなの、言ってくれないと分からないよ」


「うん、だろうね。私、可愛くないの。そういうこと言うの、すっごく下手なの。コータはさ、私なんかよりも自分から求めてくれる女の子の方が合っていると思うの」


 なんだよ、それ。僕には、美郷よりもいい女性ひとなんて。


「だから良かった、新しい彼女ひとできたみたいだから。これで、終わりね」


 これで終わり、とっくに別れているはずなのに、その言葉が深く胸に刺さる。ああ、やっぱり自分は未練たらたらだ。

 別れ際、雨はやんでいた。いっそのこと、美郷を引き留めるくらいの大雨が降っていれば良かったのに。


「ああ、最悪だ」


 ひとり、取り残された部屋、ソファーに腰掛け、吐き捨てる。そのまま視界が閉じて、僕は、深い眠りの中へと堕ちていった。

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