変わっていく距離

 翌日、きりきりと締め付けるような頭痛で目が覚めた。案の定の二日酔いだ。寝過ごさなかったのは唯一の救いか。

 眠い目を擦り、トースターでパンを焼く。ふと、彼女が作ってくれたフレンチトーストの味がよみがえった。特別に美味しいわけではなかった。どちらかというと、お腹が膨れればそれでいいといった具合のものだった。でも妙に記憶に残っている。昨日の彼女の会話や仕草のひとつひとつが、鮮明に描けるほどに。

 胃から上がってくる酒の臭いを、麦茶で流していたところ、トースターの音がなった。


 この日の作業は、試作検討から始まった。鉄鋼会社から取り寄せたパイプをベンダーで曲げていく。とんでもない音が鳴るので、耳栓をしていないと難聴になってしまう。それでも漏れてくる音は凄まじい。

 チームで連携し、加工、塗装を行っていく。

 けたたましいベンダーの音を何度も聞いて、すっかり酔いも覚めた。


 昼食、社員食堂のテレビでバラエティ番組が流れていた。男の人が、一般人の女性の相談を受けていて、間に女性アナウンサーの進行や相槌が挟まっている。一昔前によくあった占いや、スピリチュアルの類いの対談番組を思い出す。


「今どき古いわ。ここんところ、心霊番組も見る人がいないから、やらなくなっとんのに」


 笠原の言う通り、一昔前は占い師や霊媒師と肩書きの人が出てくる、オカルトじみた番組が多かった。でも時代が進んで、特集で紹介されていた心霊写真のほとんどはカメラのトラブルによるものと判明した。カメラの技術が進んで其のトラブル自体も起きなくなって、それと息を合わせるように非科学的な話題は、放送されなくなったように感じる。

 でも、今テレビに出ている男性は、何度か見たことがあるように感じる。テロップには、スピリチュアルカウンセラーという肩書きと、天命院という団体名称。男性は終始穏やかな笑みを浮かべているが、僕は、こういう類のものには胡散臭さしか感じない質だ。


「知っとるか。この大山隆則おおやま たかのりって男、最近ようメディアに出とんねん。著書もものすごい数出してんねよ」


 思わず、へえ、と声が出る。言われてみれば、男の顔はどこか見覚えがあった。何回かテレビで見ていたかもしれない。タレントや出演者の名前なんて、意識して見ていないから気づかなかったのか。

 そんな世間話の内容は、午後の作業中でも妙に頭に残っていた。


     ***


 久しぶりに定時に上がることができた。

 今日は彼女のライブを最初から聴くことができるかもしれない。そう思うと、電車の中で感じた息苦しさも、いつもよりは楽に感じた。


 それでもホームや交差点に漂う、あの独特な匂いだけはどうにもならないようだった。

 思わず口が歪む。きっと、今の自分は、渋い顔をしているだろう。西陽が空を茜色に染めている近鉄阿倍野橋駅と天王寺駅の間の交差点、まだ、彼女は現れない。


 早く来すぎたかな。

 手持無沙汰な指が、スマートフォンの上で泳いで、ゲームのキャラクターを動かす。ワンパターンのフリックとタッチで済んでしまう、頭を使わないゲームだ。ちょうど、六時開始のクエストがあったから、それを処理することにした。


「三島さん、今日は早いんですね」


 平静を装ったけれど、心臓が止まるかと思ったぐらいびっくりした。何しろ、画面に集中しきっていたときに、俯いた僕の視界に潜り込むようにして、彼女が現れたのだから。


「ああ、すみません。びっくりしました?」


 そして僕の動揺は、彼女にはバレバレだったらしい。


「今日は、久しぶりに仕事が早く終わったんです」

「それは良かったですね。いつ頃から立ってたんですか」

「かれこれ三十分くらいですかね」

「ああ、ちょうど、なんばで収録を終えたあたりですね。お待たせしちゃってすみません」


 すみません、だなんて、彼女だって仕事をしていたのだから、謝らなくたっていいのに。彼女はギターケースを取り出し、慣れた手つきで持ち運びのアンプシステムにつないだ。


「早く来てくれたから、お礼に一曲、なんて洒落たことしてみたいですけれど、ここで歌ったら三島さんだけのものじゃなくなっちゃいますね」


 軽く弦を弾きながら、笑いかける彼女。一度、彼女と夜を過ごしてから、距離感がおかしくなった気がする。昨日も終電まで一緒に飲んでしまったし、最後の方なんて記憶があやふやだぞ。なにか、マズいことは言っていないかとか、いろいろ心配になってきた。

 けれど、彼女がどこか上機嫌な様子なのを見ると、そこに関してはあまり心配する必要はなさそうだ。


 スタンドマイクと譜面台が立てられ、やがて、ちらほらと人も集まってきた。今日のライブ客は、いつもよりも多いかもしれない。

 簡単な挨拶の後、クラシックギターの柔らかい音がビルの狭間に響き始めた。


“今日はあなたと私が 初めて出会った日なの 

 苦手なお料理だって うきうきたのしくなっちゃう”


 朗らかな歌詞は、やはりボサノヴァ調のメロディで流れてくる。「あなたと私のアニバーサリー」、子供でも歌えるようにと、珍しいコンセプトで作られた歌だったかな。シンプルな曲構成で歌いやすくて、好きな曲だ。何より彼女の歌う様子も、楽しそうだった。


“お砂糖 牛乳 卵 フルーツたくさん入れましょう

 忘れたなんて言わせない あなたと私のアニバーサリー”


 途中でハンドクラッピングも入り、みんなで手拍子を入れて、大いに盛り上がった。それから、これまた彼女の代表曲、「君はイデア」が演奏された。


“ああ、君はイデア 僕の言葉に それを超える意味を与えた”


 歌い手の言葉は、聴く人の存在を得てこそ、意味を持つ。そんな、オーディエンスに向けてのメッセージが込められたライブナンバーだ。彼女が手売りしていたライブアルバムにも収録されていた曲で、「You are my religion」と一緒に毎日のように聴いている曲だ。


 それから、BBキングの「スタンド・バイ・ミー」のカバーを含めて、計十曲のセットリスト。この日のライブも大満足だった。それこそ、ちょっと感極まって目が潤んだほどだ。

 

 ライブが終わったあと、撤収作業を進めているところに、ギターケースに投げ銭をいつものように。ぱちり、と硬貨がギターケースの底を打つと、また彼女の声が降ってくる。


「昨日も今日も、ありがとうございます。私、昨日、三島さんとお話ができたから、今日のライブ上手くいった気がするんです」


 思わず。お、おおう、なんて変な声が出てしまった。妙な感覚だ。だって彼女は、僕にとって歌姫で。話しかけられるだなんてあり得ない。感謝の言葉だって、それはオーディエンスとして受け止めるもので。それがまるで、親友や恋人へ向けられたもののように感じ取れて、胸がむず痒くなってくる。


 彼女は、僕の中で、カナリアという現実味のない歌姫から、木戸加奈江という一人の女性へと変わっていくようだった。

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