ああ、もう酔いすぎた。
近鉄阿倍野橋駅の向かいのビル、三階にあるカフェバーに入った。店内には、小粋なジャズが流れているが、それがほとんど聞こえないくらいに賑わっている。若い女性客が多い。仕事帰りの女子会といったところか。
「二名で」
当たり前のように彼女が先導して、受付をする。いいや、特におかしなことは何にもないのだけれど、胸がちくちくする。
案内された席は、僕たちをカップルと思って気を使ったのか、窓際のテーブル席だった。天王寺のど真ん中の三階だから、微妙な眺望だ。
「ハイネケンを二つ」
彼女は席につくなり、僕の分までビールを頼んだ。
「ちょっと」
「私のおごりです。気にしないでください。それとも、コローナ・エクストラの方がよかったですか?」
そういう問題じゃない。むしろ、彼女のおごりというのが、引っかかる。彼女といると、かき乱されてばかりだ。
「いや、おごりって……」
「私が巻き込んでいるんですから、遠慮しないでください」
彼女と美郷は正反対だな、と思う。美郷は、僕にあまり干渉をして来ない人だった。大学のときは、周りから「熟年夫婦みたい」って言われてたっけな。穏やかな関係で心地よかった。対して、彼女といると騒がしくて落ち着かない。
「どうして、バーに誘ったりしたんですか?」
とにもかくにも、動機を聞いてみなければ。だけど、なんだこれ。まるでただの鈍ちんだ。
「安心したかったんです。三島さんといると、落ち着くようになっちゃいまして」
だから昨日は、ぐっすりと寝ていたのか。こっちは、落ち着いた試しなんてないのに。
「最近、ひとりだとあまり眠れなくなってしまって。昨日は久しぶりにぐっすりと眠れたんです。……どうにも、つけられているみたいで、怖くて」
「つけられているって……?」
昨日も彼女は言った、命を狙われているかもしれない、と。からかっているだけかもしれないという疑念は、まだ晴れないけれど。それでも聞かずにはいられなかった。
「あの人、私のライブにずっと来ているんです」
「あの人って?」
「今日、話しかけられていたじゃないですか。あの背の高い男の人」
その瞬間、あの男から感じた異様な気配が蘇ってきた。話しかけられなかったから気づかなかっただけで、同じ場所に居合わせていたことも何回かあったのか。
「ストーカーみたいなことされたんですか?」
「いいえ、三島さんみたいに熱心なファンなだけかも」
命を狙われているかもしれない、と言うのも、あの男にずっとつけられているからか。たしかに、あの異様な気配には、不審さを通り越して恐怖さえ感じた。
だからといって、僕が彼女を守るだとか、そういうことよりも、彼女は「気のせいだよ」と言ってほしかったんだと思う。
「そうですよ。きっと考えすぎですよ」
僕の言葉を受けると、彼女の表情は憑き物が下りたように明るくなった。けれど、僕はそうはなれなかった。気のせいとやり過ごしたところで、状況は何も変わらない。それを分かっていて、彼女も笑ったんだと思うと、僕は笑えなかった。
いや、それこそ、考え過ぎか。だいたい彼女は、僕にとっての何だって言うんだ。
彼女の表情が色を取り戻していくのに対し、僕は暗く沈んでいくようだった。頭の中のもやもやを誤魔化そうと、景気よくハイネケンのビールを飲み干した。
酔いが一気に回った。
結局、終電ぎりぎりまで飲んでしまった。視界がくらくらして、呂律も怪しい。意識はまだはっきりしているのが唯一の救いか、明日は二日酔いになるかもしれない。
「大丈夫ですか、飲みすぎですよ」
阿倍野橋駅の改札。ふらついている僕に、心配そうな上目遣い。一瞬甘えようかとも思ったが、これ以上、互いに情が移るのは良くない、と思いとどまった。
「大丈夫です。一人で帰れますから」
「……、本当ですね」
念を押すように尋ねて来た。彼女は結構、義理堅いところがあるから、心を許してしまいそうになる。
改札の向こう、何度か振り返りながら、彼女は消えて行った。
別れると、ホッとしたような、寂しいような。いいや、何を考えているんだ。彼女は所詮、他人だ。ああ、もう酔い過ぎた。
そう言い聞かせるのに夢中で、僕は、あのメールのことをすっかり忘れてしまっていた。
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