宙ぶらりんの心

 とても平常ではない心持ちで、オフィスに戻った。

 もう一度デスクトップを立ち上げ、製図ソフトのウィンドウを睨むが、思ったよりも早く目の奥がちくちくと痛む。

 ああ、もう、作業になんてなるものか。


 デスクを立ちあがり、他の設計担当者に声をかけた。

 配管の曲げの工程を減らすとなれば、装置全体の設計の見直しから始めた方が早い。それに、これ以上画面に集中できない。


「装置の大きさの許容は、得意先から指定があっただろう。それを超えない範囲で、できるだけ小さくという話だからな」

「配管以外のスペースの削減は難しいですよね」

「そうだな、装置の構造上絶対に必要な箇所や、実際に得意先の製造品が入る場所はどうしても削減できない」


 設計チームの主任は、それから急遽、会議を設けた。

 配管、チャンバーや、実際に取引先の製品が流れる流路。すべてに最低限必要なスペースと、今の設計でデッドスペースがないか。曲げの工程数と曲げR、フランジの数など、念入りに打ち合わせが行われた。

 人が集まると、行程がどんどん進む。それこそ、モニターの前で頭を捻っていた時間が馬鹿らしく思えるくらい。

 もっと早くに相談しろと言われるかと思ったが、むしろ進捗に良い影響を与えたと評価された。背中にのしかかっていた荷が一気に下りたようだった。


 けれど、それはあくまで仕事の話だ。


 陽が落ちて、蒼い景色が車窓から覗く。半透明の自分が、虚ろな表情で映っている。スマートフォンでもう一度、美郷からのメールを開いて、反芻するように読み返す。


『明後日、またそっちに行ってもいいかな?』


 笠原にあんなことを言われなければ、冷静に対処できるかもしれないけれど、素っ気ないその文面に、心がかき乱される。もう、構ってくれるなとか、そう言えないのはまだ未練があるからだろう。

 ああ、そうだよ。まだ、好きなんだよ。


 親指が動かない。そのうちに画面はブラックアウト。浮かび上がる無様な表情に、我ながら呆れる。仕事から解放されたのに、かえって荒んだ脳内に車掌の野太い声が流れ込む。

 そして、あの独特の異臭。僕は、気が付けば、ホームに降りていた。

 改札を出れば、また、あの歌姫に会える。


 カナリアは変わらず、近鉄阿倍野橋駅近くの歩道橋の影で歌っていた。

 クラシックギターの柔らかな音色が、車の音に負けじと響く。僕を迎えたのは、ザ・タイマーズの“デイ・ドリーム・ビリーバー”だ。


 彼女は僕と目が合うと、動揺したのか、少し音を外した。といっても素人の耳には気にならない程度だし、他のストリートバンドでも、もっとひどく外している人なんて、いっぱいいる。

 学生時代にギターをやっていたから、音にはうるさい。彼女が弾いているようなクラシックギターは、あまり触ったことがないけれど。


「カナリアさんのライブには、よく来るんですか?」


 不意に話しかけられて、ぎょっとした。

 声の主は、体格のいい男性で、人相は目深に被った帽子で見えない。僕の方が背が低いのに、人相が確認できないって、それじゃあ、彼女の姿はほとんど見えていないんじゃないか、と思う。


「……は、はい」


 失礼ながら、不審な印象を覚えずにはいられない。

 

「彼女、上手いですよね。歌唱も演奏もめったに外さないですからね」

「そうですね」

「さっきは、珍しく外しましたが」


 この人は、僕が言わないでいたことを言った。耳が肥えているのか。いいや、そもそもこの人は、どうして言わなくてもいいことを言ったのか。


「そうですか」


 なんだろう。どことなく、不快だ。


「動揺するようなことでもあったんですかね?」


 彼女の動揺を読み取ったというのか。でもそれで、なんで僕に、それを言う必要がある? と、疑問は尽きないが、まさか、それを問いただせない。


「さあ……、調子が悪かっただけでしょう」


 濁した途端に、テンガロンハットのつばの影から、視線が刺さった。男の目元なんて見えていないのに。


「そうですね」


 去り際、男のにたりと笑った口元。ぞわぞわと背中を虫が這った。

 それからも彼女のセットリストは数曲続いた。男が去ってから、どこか演奏の仕方が変わった気がする。なんというか、妙な力が入っていたのが抜けたような。


「今日も、ありがとうございます」


 いつものようにギターケースに投げ銭をすると、声がかかった。昨日よりも、声が親しみを帯びているのが、なんというか、心臓に悪い。


「ちょっと、終電までお時間、いいですか」


 そんな誘いを持ちかけられると、なおさらだ。

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