僕と彼女は他人
眠れるわけがなかった。
洗面台で、顔を洗い、何とかして眠気を覚ます。目元にうっすらと、くまができていた。何度も顔を擦り、鏡と見合わせるけれど、当然、消えるわけがない。
「おはよう……ございます」
「おはようございます……」
彼女が、生あくびをしながら洗面所にやって来る。
「よく眠れましたか……」
なにが、よく眠れましたか、だ。人の気も知れないで。
こいつは、眠れなくて難儀する僕を差し置いて、すうすうと気持ちよさそうに寝てやがった。
ボヘミアン調のスカートには、雑魚寝で変なしわがついてしまっている。もし、これからずっと、ここに居座るとして、どうするつもりだったのか。着替えもそうだし、仮にも男と女だぞ。いいや。結局、出ていくんだし。もう、そんな余計な心配をする必要もないか。
「いいや……」
「くま、できてますよ」
言われなくても、分かってる。
「ちょっと、待ってください」
彼女は、ハンドバッグから化粧道具を取り出した。金属製のチューブから肌色のクリームを絞り、メイクスポンジに乗せる。
「なんですか、それ?」
「BBクリームです。ベースメイクに、スキンケアも一度にできるやつです。これをコンシーラーみたいにして、上からくまを隠します」
女性が使う化粧品は、よく分からない。けれど、くまを隠してくれる、と。
「少し、屈んでください。あ、いや、膝を折ってください」
身長差を補うため、膝立ちになって、彼女に顔面を差し出す。髭も剃って、顔も洗ったけれど、こっ恥ずかしい格好だ。
「目をつぶってください。じっとしていてくださいね」
目元に、こそばゆい感触がした。
「……多分、大丈夫です。肌の色からも浮いていないと思います」
鏡を見ると、くまが消えていて、かつ、自然な仕上がり。思わず、おお、と声が漏れる。
「ありがとうございます」
「いえ、……私のせいで、眠れなかったんですよね?」
まあ、その通りと言えば、その通りなのだが。彼女に誠実な態度を取られると、少し調子が狂う。
「……これでお別れなんですし。最後の朝ごはん、作りますね」
台所に立つ彼女。後ろで髪を軽く結ぶ。溶き卵に牛乳を混ぜ、砂糖を入れる。それをじっくりとパンに滲みこませて、バターをひいた熱したフライパンで焼き上げる。やがて、香ばしくて甘い香りが。
「フレンチトーストなんて、お洒落だな」
「簡単に作れるんですけれどね」
ふわっとした仕上がりのそれを頬張りながら、朝のニュースを聞き流す。十二星座占いと、本日の幸運のおまじないのコーナー。平日は、ちょうど家を出かけようとする時間に合わせて、このコーナーがいつも流れる。
「あの……、占い信じる女って、馬鹿みたいですよね?」
ぼそり、と彼女が言い放った。
「え……」
その声は、悲しい色に塗れていた。
「し、信じるって、占いは別に悪いことじゃないと思いますし」
「……そうですか。三島さんは優しいんですね」
それから、部屋を出るまで、会話を交わすことはなかった。
彼女は、近くの喫茶店でゆっくりしてから、昼に梅田のスタジオに向かう、と。
「まだ、これからも天王寺で歌っていると思います。……聞いていただけたら嬉しいです」
マンションの前での別れ際、彼女はそう言った。彼女の歌声は、ずっと聞いていたい。それが聞けなくなるということは、あまり考えたくない。仕事の疲れを優しく溶かしてくれる、僕の歌姫なんだ。
そう、あくまで、彼女は歌姫であって、プライベートでは他人だ。他人であるべきなんだ。
離れていく彼女との距離を、背中で感じる。どこかでそれに不安を感じてしまう。命を狙われている――かもしれない。もしそれが、本当だったら?
それに……
『あの……、占い信じる女って、馬鹿みたいですよね?』
あのときの彼女の表情が、やけに脳裏に焼き付いている。
もしかして、彼女が言いたくない、とひた隠すことと何か関係があるのだろうか。
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