5

 会議室から駆けてきた練馬が息を切らして説明したところによると、太田小福を責め立てていたのは島井静香というババアらしい。部長が取り調べを担当した五十代の女だ。

 豆子が止めに入ると怒った島井は更にヒートアップした。太田小福以外の自首者にも喧嘩を売ってまわり、会議室は騒乱の渦に呑まれた。

 そしてそれを収めようとした豆子は十七人のうちの誰かに押されて体勢を崩し──

「倒れた拍子に、あ、頭をぶつけて、血が、血が出て」

「なんでそれを最初に言わねえんだ!」

 駆けていき、豆子の姿を探す。名前を呼ぶが、騒がしくて俺自身の耳にもろくに届かない。

 会議室では十七人の自首者たちが怒鳴り、罵り、否定しあっている。私が殺した。お前は殺してない。私が殺した。お前は殺してない。

 私こそが。お前なんかじゃ。

「さながらカエルの群れだね」

 耳元で、艶っぽく嘲りを含んだ男の声がする。太田宗二でも西岡太郎でも、練馬でもない。もちろん俺でもないが、今はそんなことどうだっていい。

 豆子は壁際で、頭を押さえながら体を起こしていた。練馬の言ったとおり、側頭部から出血しているようだった。富士川苗が心配そうに手を伸ばすが、払いのけ、一人で立ち上がった。うなるように歯を剥き出して、拳を振り上げる。

「いい加減にしなさいよ!」

 ドゴッ!と物が砕ける鈍い音が響く。

「なんなのアンタたち!馬鹿じゃないの!人がっ、人が死んでるのよ!それをこんな風にオモチャにして!恥ずかしいと思わないの!?」

 振り下ろされた豆子の拳の下で会議室の机が割れ、バランスを崩し、ゆっくりと倒れた。

「思わないなら思いなさいよ!考えなさいよ!ほんと馬鹿なんじゃないの!ふざけないでよ!」

 会議室は水を打ったように静まって、全員が豆子を見ている。豆子は肩を震わせて、喉が奥から裂けんばかりの声で、アンタたちが、アンタたちが、と言う。

「アンタたちが死ねばよかったんだ!」

 何かが断絶したような静寂。

 俺は豆子に駆けよって、肩に手を置いた。見開かれたままの目が俺を見るが、俺は何も言わない。ただ目をつむって、小さく首を振る。

 一分ほど経ってようやく、西岡太郎が煮えたつような声を出した。

「公僕の、くせに……」

 さっきまでなら絶対に聞こえなかったような、小さく情けない声。その声にしかし、ババアどもがひとり、またひとりと同調する。

 もご、もご。もご、もご。

 小さい口を小さく開いて、コーボクだのコウムインだのとぼやく姿に、俺はもはや言葉が出ない。

「流石は俺のファンだ、醜いことこの上ない」

 カエルどもの隙間から嘲笑が聞こえる。姿はない。だが、可笑しくて堪らないというふうに、歯の隙間から、それが漏れ出ていることは判る。

 俺は頭のなかで毒づく。

「こんなに愛されて幸せだな色男。みんなお前にイカレちまってるってんだからよ」

「無知だなお巡りさん。俺は愛されてるんじゃない、愛させたんだ」

 だからこんないびつなことになる、と、囁きが耳に触れる。

「自然に生まれてくるような愛もキッチリもらったうえで、もっと、もっとと請求した。しぼり、つくらせ、寄せあつめ、吐き出させた。そしてそれを競わせたんだ。誰が本当に俺を愛してるのかな、ってけしかけてね。

 大抵のアイドルなら多かれ少なかれやってることだとは思うけど、俺のは特にエグかったわけだ」

 見えない顔、無い姿が、いま俺の目の前に在る。俺を見ている。目と目が、合う。

「愛の偽造、愛の競売──どちらも恥ずべき大罪だ。だから神様は怒って、こいつらをカエルにしちゃったのさ」

 甘やかな息遣い。くすぐる花の香り。そのすべてが気障りだ。

 舌打ちをする。それは虚しく宙に響き、煙のように消えた。

「なんなんだよ、そのカエルがどうこう言うのは」

「やっぱ知らないか。『ア・フロッグ・ノウズ・ザ・シー・オブ・ラブ』、俺の代表曲だよ。愛の罪を犯した王子がカエルにされるんだけど、姫の涙で元に戻るってストーリーの、バラードなんだ」

 こいつらの涙程度じゃ俺はただ濡れちゃうだけだけどね、などとほざく口があった辺りを振り払う。うるせえんだよ。

 テメーなんか、どうせどっかのつまんねえ女たぶらかして、恨み買って刺されて死んだんだろうが。



 結局誰もまともに相手などせず、ババアたちの輪唱はそのままいつまでも続くかのように思われた。だが不意にあがった叫びが、それを掻き消し、蹴散らした。

「んんんうううううううう~!」

 富士川苗だった。

 見ると、目から大粒の涙をボロボロこぼしながら、自分の舌を噛みちぎろうとしていた。口の端からは既に血が一筋したたっている。

「練馬! 救急車!」

 俺が詰め寄ると、富士川は身を隠すようにしゃがみこむ。こちらもしゃがみ、左右に振られる頭を押さえこんで、歯と歯の間に指を入れる。

「何してんだ! 口開けろ!」

「ぢぬうううううう~!」

「開けろ!」

 歯にはものすごい力が掛かっていて、俺の指からも血が滲み出す。

「馬っ鹿野郎、本当に死んじまうぞ……」

 力はゆるむ気配をまったく見せない。指の骨が痛みを訴える。

 ババアどもがまたガヤガヤと何かを言っている。うるさい。うるさい。俺は声をさらに荒げる。

「おい! わかんねえのか! 死ぬんだぞ! こんな下らねえことで死ぬつもりか!? こんなことに何の意味がある!」

「ぢぬうううううう~!」

「口! 開けろ!」

「そんなふうに怒鳴るんじゃない!」

 火──まぶしく、にぶい火が、脳天に走る。空から降ってきたかのような、固く、強い一撃。

 クラッと半目で振り返ると、老婆が拳骨を作ってピンと立っている。

 それが太田小福だと理解するより先に老婆は正座で座りこみ、クッと背を伸ばして、富士川の頭に手をやった。それから、骨ばった指で、そっと撫でる。

「私はね、あなたが本当に死にたいなら止めません。好きにしたらいい、もったいなくても、あなたの命だもの」

 優しい、人間の声色。

 みな喧騒を忘れたようになって、太田の言葉に息を呑む。太田は俯いて、誰とも目を合わせようとはしない。

「でもあなた、自分が本当に死にたいのかどうか、全然わかっていないんでしょう?」

 富士川の目は相変わらず涙をこぼし続ける。その涙が時たま俺の指に滴り落ち、俺はその熱さに驚く。

 太田は、おそらくはこの警察署に来てから初めての笑みを浮かべて、それならね、と言う。

「とりあえず、今日はやめときなさい」

 指にかかっていた力が、すぅ、と消える。

 富士川は口のなかに溜まった血を吐きだし、まだまだ泣いている。しゃくりあげ、うう、うう、と嗚咽を漏らす。

「いたい」

「バカだね、ほら、これで押さえて、そう、そのまま、救急車がもう来るからね。それまでそうやって持ってなさい」

 富士川の頭を撫で続けたまま、太田は目の端で俺を見て、刑事さん、綺麗な水とバケツをお願いします、と言う。

 俺は自販機まで走っていって水を五・六本買い、バケツを探しながら、ぼんやり、頭のなかでツッコミを入れる。

 俺はただの警察官で刑事じゃないし……アンタもやっぱり、容疑者なんかじゃないよ。

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