エピローグ

「ごはっ!」

 一気に覚醒し、もがくように手足で宙を掻く。

 ぶはぁっ、と一気に息を吸う。

 冷たい。空気が喉を裂くようだ。肺に染み渡っていくのが分かる。

 まるで産まれて初めて呼吸をしたかのよう。空気を貪るように飲み込むが、溺れているかのようにうまくいかない。

 眩しい。何も見えない。

 そして耳を叩くような音。

 騒音ではない。まるで初めて耳が聞こえるようになったかのような音の波。

 そして肌をピリピリと打つ感覚。

 もがく手足に何かが纏わり付いている。それから逃れようと必死に手足を動かすが、上も下も分からない。

 だが、一向に落ちる気配も沈む様子もない事から少しずつ落ち着きを取り戻す。

 激しい呼吸を落ち着かせるように深呼吸した。

 新たな命を授かったにしては、自分の口は泣き声を発していない。

 次第に感覚を取り戻す。

 どうやら躍斗は横になっているらしいと分かった。

 薄っすらと目を開けると天井らしい景色が見えた。

 かなりぼやけているが、これは……自分の部屋だ。

 手を動かし、触れた物を掴む。

 手足に纏わり付いていたのは、いつも使っているシーツだったようだ。

 顔を横に向けると何か人のようなものが見えた。

「……おはよう。何の夢見てたの?」

 耳から脳に突き刺さりそうな高い、綺麗な声。

 目を凝らすと、人影は座って漫画を読んでいる小さな女の子だった。

「キュオ?」

「大丈夫? お兄ちゃん」

 呻きながら体を起こそうとするがうまく力が入らない。まるで産まれたての小鹿だ。

 指先が痺れている。

 麻痺とは違う。これは、そう。神経が働いているのが分かるような感覚。

 言うなれば、生きている痛み。

 何もかもが初めてのように感覚として新しい。衣服が体に触れるのですら痛い。

 ゆっくりと起き上がり、ベッドに腰掛ける。


「夢?」

 全部夢だったのだろうか。キュオは始めから妹で、全部幻想だったのか? と躍斗は訝しむ。

 それにしてはリアルな記憶だ。

 それよりは世界が何もかも無かった事にして、元の世界に戻したと言う方がしっくりくる。

「なあ、キュオは『狭間』から来たんだよな?」

「何言ってんの?」

 どういう意味だ? やはり全ては夢だったのか? と眉を寄せる。

 それともやりすぎて、世界は躍斗から何もかも奪ってしまったのだろうか。

 キュオは片眉を上げて、心底呆れたような顔をして続ける。

「そんなの当たりまえでしょ? あたしは残してきた体も取り戻して元の大きさに戻るんだよ。躍斗もその方がいいでしょ?」

 と小さくなった胸を叩く。

 妹が板に付いているから今更期待もしてないが、と机のデジタル時計に付いているカレンダーを見る。


“……昨日の日付だ”


 今日は昨日なのか!?

 いや、今日は今日なんだが、と気持ちを落ち着けた。要は一日巻き戻っている。

 タイプスリップしたとかではない。

 躍斗は確かに宇宙の全体を感じ取り、世界を超越した。

 手を開いてじっと見る。

 この体は今までのものと違う。見た目も中身も同じだが、感覚がそう言っている。

 躍斗は間違いなく今まで居た『世界の外側』にいるのだ。

 一見同じに見えて、ここは別の世界。


 そう言えば、物質は分子でできていて、分子は原子でできている。原子は電子と原子核から成っているんだ。

 原子核の周りを回る電子はさながら宇宙のようだと言った人がいると、何かで読んだ事がある。


 自分は今まで、その宇宙の中の一つにいたのだろうか、と考える。

 そして今いる宇宙は、更に昨日の躍斗の細胞の一つなのかもしれない。


 世界の全てを掌握し、壊し、平定して、新たに想像する。

 そんな神の如き力を手にし、世界そのものを無に帰したと思ったが……。

 躍斗は『この体』の……何兆とある細胞の中にある宇宙を、一つ壊しただけに過ぎなかったのだろうか。


 そして一日の間に何億という細胞が死んでいる。

 それは至って普通の事なのだ。

 案外それも全て明日の躍斗が、またはその中に住む他の人間が魔王になって世界を壊した結果なのかもしれない。


 宇宙の広さを知り、世界の深さを知って、全てを知ったつもりになっていたが、それはここでは細胞一個分の情報にも満たなかった。

 躍斗は未だ数ある細胞の中にいるのだし、躍斗の中にも何兆……いやもっと多くの宇宙が存在している。

 キュオの中にも、机にも、鉛筆にも、それこそ空気の中にも、宇宙は存在するのだろう。

 そしてそれらが全て明日への可能性を秘めている。

 それこそ何兆、何京、無限大の可能性を。


 とてもじゃないが、全部掌握できそうにない。

 全ての宇宙の大きさを想像してしばし途方に暮れた。



 ようやく歩けるようになった所で表へ出る。

 光が眩しい。日差しが暖かく、風が冷たい。街は騒がしいが、今は喧騒が心地よい。車が地面を揺らしているのも足の裏を通して分かるようだ。

 全ての感覚が総動員したような不思議な感覚の中、街の空気を吸いながら歩いた。

 何の変わりもない、いつもの世界。

 人が行きかい、草木が揺れる。空気が風となって街を撫でる。

 この世界は生きている。

 躍斗は少し立ち止まって、街全体を感じ取るように深呼吸した。


 世界も陰陽によって成り立っている。

 陽が現世、陰が狭間。

 世界は常に不安定。人間同士と同じ、ぶつかり合い歪みの中で存在している。

 真に安定した物と言うのは、平坦か、きれいな球体をしているのではないか? だが、そこには何も産まれない。

 躍斗は今まで人間が一番「歪んでいる」と思っていた。

 人間こそが、もっともいびつで不自然で、不安定な存在。人間を全て排すれば、世界は安定するのかもしれないと考えた事もある。

 だが、それはほんの一面。

 真に安定を望むのなら、全ての歪みをなくすのなら、世界を真っ平らにしなくてはならないだろう。

 いや、平らな大地も天と地の二つの存在ができてしまう。

 真に安定した世界とは、本当に何も無い世界。

 完全な虚無。

 その何も無い世界に、一人ポツンと立つ魔王は、最後に残された歪みを、自分自身を消すのだろう。


 全てを司り、全てを手中に収める事は、自殺してただ一人この世を去る事と何も変わらなかった。


 人を殺すのに特殊な能力は必要ない。

 その気になれば、子供でも爆弾の作り方を調べてテロを起こす事は可能なのだ。

 だがそれを警察が許さない。社会の安定が壊されてしまうから。

 常軌を逸した力も同じだ。排除しなくては世界が壊されてしまう。


 力を手にする事は何ら特別な事ではない。

 実は多くの人間がその資質を持っているのだろう。

 だがそれは現実思考の親であったり、教師であったり、周囲のいじめっ子だったり、それらに外れまいとする固定観念に淘汰されていくのだ。

 稀に淘汰されずに生き残った者が世界を変える。時にそれは崩壊を引き起こしたりする。

 だが躍斗は運良く『前任の魔王』によって生きながらえた。

 それが何を意味するのかは分からないが、世界の理を知る者としての責務はあるのだろう。

 魔王であるためには、私情に流されず傍観できる事。

 目の前で人が理不尽に死ぬ事があっても、自然の摂理と受け入れられる事。

 無慈悲で冷酷である事。

 それが神であり魔王、『世界の観測者ワールドオブザーバー』としての条件なのだろう。


 それができるであろうと見込まれたから、躍斗は今存在している。

 多分。

 イタイ思い込みでいい、と躍斗は納得する事にした。

 思い込む事は自由だ。


 躍斗は自分のルールに従って歩んで行く事を決意する。

『世界を壊してはならない』

『真理を司る力を持っていても私事の為に行使してはならない』

『どれだけ理不尽な事が目の前で起きていても、世界にとって脅威でないのなら力を使ってはならない』

『それでいて人間であり続ける事』


 そんな事を考えていると、背後から車のエンジン音が近づいてきた。

 音からしてスポーツカー、結構な速度を出しているようだ。

 それにタイヤがスリップする音が重なる。

 時間がゆっくりと進み始めるが、車は躍斗には向かって来ずに目の前を通り過ぎて行く。

 躍斗を狙って起きた事故ではない。本当にただの偶然のようだ。

 ゆっくりと目の前をスライドして行く車の先には、黄色い帽子を被った園児らしき女の子が歩いていた。

 女の子の体は高く宙を舞い、歩道に乗り上げた車は塀に当たって止まる。

 跳ね飛ばされた女の子は人形のように地面に落ち、遅れて落ちてきた黄色い帽子がぱさっとその上に被さった。

 通行人が悲鳴を上げ、運転手がわなわなと出てきて膝を付く。

 人が集まり始め、救急車だ何だと騒ぎが大きくなる中、躍斗は振り返りもせず澄まし顔でその場を通り過ぎた。


 数瞬の後、人だかりの悲鳴が大きくなる。

 跳ねられた女の子が、何事もなかったようにきょとんと起き上がったのだ。

 大丈夫なの? 何ともないの? でも病院に! とより大きくなる騒ぎの中、躍斗は流れる人と逆方向に歩く。


「事故に遭ったのに奇跡的に無傷、なんてよくある事だろ。いちいち騒ぐなよ、世界」


 躍斗はポケットに手を入れたまま歩き続けた。

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ワールドオブザーバー ~僕が魔王になったワケ~ 九里方 兼人 @crikat-kengine

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