フレーム・ボーダー

 十字路の真ん中に建つ時計塔が見えるカフェの屋外席。

 澄んだ空が見え、客のこぼしたパンくず目当ての鳩やスズメが遊歩し、人々が行き交う。

 普段はそんな賑やかな印象のある店先なのに、今は見える範囲に誰も居ない。

 開店直後でもここまで静かではない。

 ここから見える商店街の端までも人の気配がない。

 風もなく、僅かに植えられた木々も店先の広告ののぼりも固定されたように動かない。

 写真のように現実感のないカフェの席に躍斗は座っていた。

 躍斗自身も周りの景色と同じように瞬き一つせずにいた。

 いつからこうしているのかよく覚えていない。

 別に動けないわけではない。動こうという気が全く起きなかった。

 しばらくぼんやりしていると背後から人の近づく気配を感じる。

「待った?」

 その『少女』は待ち合わせに来たかのように、気さくに声を掛けてくる。

 誰だろう。会った事がある気はするのだがよく思い出せない。

「いや、……別に」

 胸の内とは裏腹に杓子定規な答えを返す。

 少女は躍斗の対面の席に座る。

 長いストレートの髪を流し、ファッションモデルのようなお洒落な赤い服を着ている。

 ここで身を包んでいるという表現を用いなかったのは、あまり身を包んでいないからだ。

 肩と脇が丸出しでヘソが見えるのではないかと思うほどに胸開きが広い。当然ブラジャーなんてものはしていない。

 激しく動けば大きめの胸が飛び出すだろう。

 そして同じ色の短いスカートは椅子に座ると周りから中が見えると思われる。躍斗からはテーブルが邪魔で見えないが。

 そして黒い瞳で真っ直ぐ躍斗を見て微笑む。

 大人びているようにも見えるが躍斗とさほど変わらない年齢のようだ。

 こんな可愛い子が知り合いにいただろうか。でもよく知っているような、と考えるも思い出せない。

 カフェなのに手元にはコーヒーも何も無い。

 躍斗は開いた胸と綺麗な瞳を直視する事もできず、手持ち無沙汰に目を泳がせる。

 少女は相変わらずねぇ、と笑う。

「そういう所がカワイイんだけど。でもキスを済ませたら、もう少し慣れてくれてもいいんじゃない?」

 これは夢なのか? そういう設定なのだろうか。

 躍斗は女の子とキスをした事は無い……、と思った所であながちそうでも無かった事を思い出す。


「……レイコさん?」

 少女は肯定とも否定ともつかない笑みを返す。

 言われてみれば確かにそうだ。

 服を着て瞳があるだけでかなり印象が変わって見えたが、あの動く死体……ゾンビの美女に間違いない。

 色が白い事に変わりはないが、『生前』はこんなに可愛かったのか。表情があるだけで随分若い、というか幼く見える。

 そう言えばレイコというのも躍斗達が勝手に呼んでいるだけだったと思い出す。

「レイコでいいわよ。名前の無い私には丁度いい。ぜろ子ってとこね」

 考えを見透かしたように言う。

 躍斗は「霊子」からきたと思っていたが、なるほどこの狭間の少女には『れい子』がピッタリだ。

「ゼロとレイは厳密には違うんだぞ。ゼロは『無』だが、レイは『限りなく無に近い』だ。だから『レイてんいち』とは言っても『ゼロてんいち』とは言わないんだ」

 レイコは一瞬きょとんとしたがくすくすと笑い出し、躍斗は「あれ?」という顔で固まる。

 普通は躍斗が話すと女子は引くか呆れる。

 だから今回はそれを逆手にとって、自分を何度も殺そうとした少女に『攻撃』をしたつもりだったんだが、どうしてこう結果は思惑通りにいかないのか。

 レイコは愛おしそうな目で躍斗を見たまま何も言わない。

 普段ならとてもじゃないが耐えられない沈黙だ。

 だが躍斗は顔を赤くしながらもレイコの目を見返した。

「な、なんで……」

 レイコは優しい視線のまま「ん?」と少し首を傾げる。

「なんで、今更普通に僕の前に現れたんだ? あれだけ命を付け狙っておいて。世界が全て壊れた今になって……」

 レイコは吹き出すように笑う。

「逆よ。そうじゃなくて、あなたが私の所まで登ってきたの。いや、落ちてきたのかな?」

 レイコは手を上げ、指を鳴らすような動作をする。

 突風が吹いたような衝撃と共に景色は一変した。

 赤い、どこまでも赤い夕焼けのような広い空間。

 椅子とテーブルも消え、躍斗達は空中に投げ出されたようになる。

 強い光と風に、躍斗は顔を庇うように手をかざした。

 夕焼けに照らされて赤く染まった雲が、凄い勢いで周りを流れて行く。

 空の中というよりは、木星みたいな雲の惑星に入り込んだかのようだ。

 ただ流れているのではない。ある所では逆に、ある所では渦巻いている。

 そう、ドロドロ。雲というか霧のようなドロドロがそこかしこでうごめいている。

「ここは……」

「そう。あなた達が『狭間』と呼んでいる世界」

 だが、あの誰もいない世界やレイコから感じた威圧感にも似た嫌な感じはしない。

 躍斗自身がレイコに喰われて、狭間の一部になっているからだろうか。世界は狭間との境界を失って混ぜこぜになったのか。

「全てを含んだ混沌の世界。今は現実世界をも含んでいる。あなたのお友達もみんな溶けて一つになった。ただ一人あなたを除いて」

 躍斗が真理に近づいた為に自我を失わなかったのか。そしてこの死神と対等と言える所まで近づいたから、話ができるようになった。

「それで吸収できなくなったから、直接殺しに来たのか」

 物騒な事言うのね、とレイコがまた指を鳴らすと、ぶわっと天が幕に覆われるように真っ暗になった。

 気が付くと躍斗はシートのような椅子に座っている。目の前には大きなスクリーン。映画館のようだ。

 スクリーンには何かの映画か、銀河やら原始時代やらキノコ雲やらが映し出されている。人類の歴史……いや、宇宙の歴史と言った所か。

「世界の理には近づいてはいけない。それは世界のルールなのよ」

 レイコはいつの間にか隣に座っていて、前を見たままポップコーンを差し出す。

 躍斗は手に取らなかったが、厚意を無視したというより食べて大丈夫なのかと心配になった。

 だが世界のルールというのはその通りだろう。

 ゲームの世界でも、ルールを破る者はチート反則ゲーマーとしてアカウント参加権利を抹消される。

「私は観測者として、世界を守っているだけ」

 観測者? それが躍斗達が死神と呼んでいた者の正式な役職か。

「どうして守っているのかなんて、言う必要ないわよね?」

 レイコは少し叱るように言う。

 それはこうなってしまうから。こうならないようにルールを守らせている。

「死神が襲ってくる……なんてあなた達は言ってたかもしれないけど、それはあなた達の主観。私は宇宙の真理に近づこうと塔を登ってくる者達を払い落としていただけ」

 宇宙の真理に近づいたが為に世界から消された者達を、自分の美貌に群がってくる男共を払いのけていたかのように言う。

「じゃあ、君は宇宙の真理そのものなのか? 元は人間だったって聞いたけど」

「そうよ。あなたと同じ人間。でも宇宙じゃない」

 レイコはずっと昔に躍斗のように、ここまで登り詰めた人間なのだ。

 要は躍斗の大先輩。

 宇宙というのは不安定で常に歪み続けている。それは自動的に修正されるが、その修正は人類にとって都合のいい結果になるとは限らない。

 だから人間の代表として、人間にいいように補正しているのだと語る。

 レイコ自身は宇宙でも神でもない。世界に都合の悪い事をしたらレイコだって世界に消されてしまう。

 また景色が変わった。

 星の広がる夜空。板張りの床に吊るされた電飾照明、船の上か。船上パーティのようだ。

 背広やドレスを着た人達が立食しているが、どれもマネキンのように動かない。

 レイコがやっているのか? ここは全てのものが存在する世界と言っていた。何を出すのも自由自在なのかもしれない。

 躍斗達は小さなテーブルに着いていた。

 レイコは手にしたカクテルグラスを乾杯するように差し出す。

 だが躍斗は固まって動かない。

 レイコはつまんないわね、というように少し口を尖らせた。

 自分は未成年だ――とも思ったが、世界も何も無いのに未成年もないかとも思う。でもリアクションには困ってしまう。

 レイコは頬杖を着いて景色を見ながら語り始める。

 狭間に関わってしまう人間は珍しくない。本人も知らないくらいの小さな事で、狭間に落ちてしまう事もある。

 でも大抵の人間は力を手にしたらすぐに試したがる。そして世界に目を付けられて抹消される。

 力を軽犯罪に使う者は、能力の成長よりも世界の修正力の方が上回って早いうちに抹消される可能性が高くなる。

 多くの者がそう。目先の欲望に負けて、狭間に呑まれる者の方が多い。

 躍斗は小さな事に力を使わなかったから、ここまで来られたのだろう。

 しかし力に気付いた人間が、それを利用しようとする事もある。あの真遊海のように。

 弱点も突き止め、能力者を自分の手駒にしてしまう。そんな事になれば世界のパワーバランスは滅茶苦茶だ。

 躍斗が協力しそうになった時、レイコが大勢の前に姿を現してまで軍隊を叩き潰す暴挙に出たのも頷ける。

 電磁兵器が増強されれば狭間に住む者達にとっても都合が悪い。

 だが、レイコはそれに一部を訂正する。

 電磁波が狭間の力に都合悪いのは事実だが、それだけではない。

 世界は常に歪みを修正し続けていて、それが滞ればその綻びから世界は崩壊する。

 だが電磁波の強い場所では修正がうまく働かない。だから悪影響があったり不可解な現象が起きたりしていたのだが、修正ができなければ世界はより大きい範囲で修正力を働かせる。

 そうなったら世界はどう変わるか分からない。

「私は別に、人類の味方でも神でもないんだけど」

 それ以外に存在する意味が無いから、と少し寂しそうに言う。

 再び景色が変わる。ここは部屋の中? 大きなベッドがあるという事は寝室か。

 質素な家具に小さな室内灯の点いた薄暗い部屋のダブルベッドに、躍斗達は腰掛けていた。

「人は皆自分と同じ者を求める。生物の進化には、集団の中から個性が出る事が不可欠なのにね」

 レイコは子供のように足をパタパタさせる。

「みんなそう。あなたもそうでしょ? 自分と対等に接する事ができるものを探している。でも、私達に対等なものはいない」

 私達か……、確かにそうかもしれない、と躍斗は嘆息するが、その理屈で言うなら……とレイコを横目で見る。

「ねぇ、私と一緒に新しい世界を作らない?」

 レイコは少し身を乗り出して言う。

 この部屋のように、新たな世界を作り出すのか。唯一対等な者として? 神になるかのように。だが神が二人いて大丈夫なのか。片方は……魔王?

 と考え込んでいるとレイコは覗き込むように上目遣いになって言う。

「一つになろうよ」

 この部屋で言われると限りなく誤解してしまいそうだが……、似たようなものかもしれない。

 キュオに同じ事を言っていなかったらそうしたかもしれない。

「僕は……」

 逡巡しているとレイコは少し笑って目を閉じ、体を離す。

 怒った風ではないが、拒否したと取られただろうか。

「僕は取り込めないのか?」

 キュオと同じ所に行く事も考えてしまう。

「うーん、無理だったけど。今刺してみれば死んで狭間に溶けるかも」

 試したくはない。できる事なら眠るように消えてなくなりたいと思う。

「絶望するような歳でもないでしょ。目的を見失ったんなら、もっと先へ行ってみたら?」

「まだ先があるの?」

「当然。ここが世界の果てだなんて、そんなワケないでしょ。ただ、私もまだ見た事ないけどね」

 大丈夫なのか? もっとも今までも誰かに導かれたわけじゃない。ここまで来たら行くしかないのかと少し考える。

「あなたなら大丈夫よ。本当の自分が分かるかもよ?」

 そう言えばここにある脳は単なる受信器に過ぎず、本当の自分は違う世界に存在するという説があったっけ。

 今ここにいる自分が終わる事に違いはないのかな。本当の自分。自分の真の存在に触れるのだろうか。

「そんな所まで来ちゃうとはね。ちょっと驚いてるよ」

 周囲の人間に失望して、枠を越える事を願ったが。短期間に色々ありすぎたな。いや、短期間だからこそか。

 時間があれば、もう少しうまくいったのかもしれない、と躍斗は意思を固める。

「そうね。真実を見ようとする目があったからかな?」

 そう言ってレイコは目を閉じ、瞳の無い目を開ける。

 一瞬、前の姿を思い出したようにぎょっとしたが、再び瞬きしたレイコの目には瞳が戻っていた。

 レイコは思わせぶりに笑うと顔を近づける。やや後退する躍斗に構わず唇を合わせた。

 お互い目を開けたまましばらくそうしていたが、やがてゆっくりと顔を離す。

 景色はいつの間にか元の夕焼けに戻っていた。

「忘れないで。宇宙は絶えず広がり続けている。狭間も同じ、追ってもダメ。枠を認識してそれを越えるの」

 赤い雲は量を増し、濃く、暗く、赤黒くなっていく。

 その渦巻くドロドロにレイコの姿が薄くなる。

 景色は赤を孕んだ黒いドロドロ、『流体状の空間クリームゾーン』で埋め尽くされた。

「あなたの力は真実を見通す目。名付けるなら『真眼トゥルーアイ』ってとこかしら」

 そして体が何かに引っ張られるような感覚。

 ……私は人間から離れすぎた。あなたには少し期待している――最後にそう聞こえた気がした。

 流れる雲が勢いを増す。まるで宇宙の果てに放り出されるような。

 移動とも違う。自分が物凄い速さで大きくなっているような。そんな感覚だ。

 そして赤黒いドロドロは球状になり、周りには星。

 今まで自分がいたであろう、地球。

 今はドロドロの球だが、それは更に小さくなる。周りの星々も小さく凝縮して行く。

 意識が、銀河を越え、宇宙を越え、そこから飛び出そうとしているのが分かった。

 数多くの銀河があっという間に手の平に収まるかというくらいに小さくなり、そして意識から消える。

 自分はどんどん大きくなっている。このまま宇宙の果てに届きそうな気がした。そこに届きそうで届かない。

 もどかしい気持ちのまま手を伸ばし続けた。もっとももう物理的な『手』は存在しない。意識が広がり、宇宙に溶けるように薄くなっていく。

 ダメだ。……このままでは消えてしまう。

 思い出せ。レイコの言葉を。

 手を……意識を伸ばしては――果てを追ってはダメなんだ。枠を認識して、それを越える。

 狭間も世界と同じ位置に、同じ空間に並行して存在していた。それを感じ取る事ができた。

“それと同じだ。意識をスライドさせるんだ”

 ぐらっと意識の上下が逆転するような、目を回すような感覚に囚われる。


 そして薄っすらと見える光……。音……。

 落ちていくような、登っていくような。

 覚えていないが、多分産まれる時はこんな感じだったんだと思う。

 苦痛……。

 苦しい。息ができないように苦しい。

 早い……。光速でどこかに引っ張られていくようだ。

 苦しみが増していくのに、朦朧としていた意識は逆にハッキリしてくる。

 溺れているのか?

 苦痛がどんどん増し、限界点に近づいている。

 もう……ダメだ。と半ば覚悟した所で、目の前が開けるように光に包まれた。

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