クリスタルムスクの香り

 躍斗はレンガ造りのビルの前で辺りを探る。

 キュオの話ではここで車に乗せられたという事だ。

 足を捻ったので湿布でも貼っておこうと帰った所で、明らかに様子のおかしいキュオを問いただした。

 一緒にカフェにいた所を、外国人のような数人の男に強引に連れさられたと言うが、あのお嬢さんにしては護衛も付けず迂闊な話だ。

 スタンガンで気絶させられていたと言うから只事では無いだろう。

 躍斗が心配するような事ではない。

 誘拐なら身代金を払えば済む事だし、救い出すのは警察の仕事だ。

 だが、真遊海のくれたお守りのおかげで助かったのも事実だし、来るだけ来てやろうとここに来た。

 実際、助けてと言ってきたのなら捨て置いた。

 これは能力向上の為に勝手にやる事だ、と躍斗は姿を消し、体を空間に溶け込ませる。

 本当は姿を消す必要は無いのだが、狭間を感じ取るに当たって姿を消す事は基本なのだ。こうした方がやり易い。

 この世でない、あの世との境を感じ取るように意識を集中する。

 カラッとした、何もない世界。キュオと最初に出合った誰もいない世界に意識が触れる。

 キュオの先輩は狭間は幾層も重なっていると言っていたらしい。

 おそらく躍斗が落ちたのは狭間の表層、入り口なのだろう。

 その奥、深遠には色んな物が入り混じった混沌の世界がある。レイコはそこから車を抜き出したのだ。

 心を落ち着け、更に深みに触れると、空間に残された残滓を感じる。

 磁気テープのように空間そのものに過去にあった事が記録されているようだ。

 だがCDの裏面を見ただけではどんな音楽が記録されているのか分からないように、ごちゃごちゃしている事が分かるだけで具体的な事は分からない。

 この空間には過去に様々な人間が行き来したのだ。

 それが全て重なり、あるいは欠損して混ざり合っている。とてもではないがここから真遊海の軌跡を辿れそうにない。

 ここに来れば何とかなるのではないかと思ったが甘かったか、と真遊海にもらったペンダントに触れ、その時感じた匂いを思い出した。

 香水というよりは香料。何かの匂いというより、真遊海自身の匂いな感じがした。香水を振りかけただけの偽物の匂いではない。女性の肌の匂いとでも言おうか。

 躍斗はそんなもの嗅いだ事はないが、喩えるならそんな感じの匂いだった。

 そうして記憶の中の匂いを感じ取っていると、目の前にぼうっと水色の軌跡が見えた。

 大きさは小さな人くらい。それが通路に添って伸びている。

 形的には人の動いた跡が残像のように重なっている。まるで巨大な金太郎飴だ。

 そうか。これは真遊海の匂い。空間に残された匂いの残滓が見えているんだ、と理解する。

 視覚情報は重なってしまえば訳が分からないが、匂いはもっと大雑把というかアナログチックだ。

 一つの匂いが空間に太い管を残すように伸びているから、多少欠損しても追う事ができる。

 犬だって数多くの匂いが混ざった中を追跡できるんだ。案外犬もこうやって追っているのかもしれないな。

 などと思いながら、躍斗は真遊海の匂いを追って歩き出した。

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