狭間の死神

 夕暮れと言える静まり返った街の中、淡い印象の女の子は妖精のような笑みを浮かべて躍斗を見下ろしていた。

 鏡の中で誘っていた少女は、今躍斗の目の前にいる。

 その間に鏡もガラスの板もない。手を伸ばせば触れられそうだ。

 躍斗は、本当に触れる事ができるのかどうか確かめるように無意識に手を伸ばす。

 女の子はそれに気付くと少し笑って手を取り、助け起こすように引いた。

 立ち上がりながら女の子の温もりを確かめる。柔らかい感触。

 幽霊とかそう言う物ではない。ちゃんとした人間だ。

 あの鏡の中に住む幻想的な少女は今、躍斗の目の前に現れた。

 いや、違う……と躍斗は状況を分析する。『引き込まれた』のは自分の方なのだ。

 ここは鏡の中の世界か? と辺りを見回すが、これと言って変わった所は無い。誰もいないが元々人通りはなかった。

 それに景色も逆転していない。看板の文字もちゃんと読める。

 いや、自分の意識も同じように『逆転』しているから『自身から見た景色』は変わらないのかもしれない。

 とにかく自分の身に何が起こったのか? と慌てずに周りを見渡し、そして……、

「君は、一体……」

「あたし? あたしは鳩央キュオ

 キュオ? 変わった名前だ。

「ここは、鏡の中の世界かい?」

 荒唐無稽だとは思うが聞いてみる。

「鏡の中の世界? 見た目によらずメルヘンチックだね君」

 メルヘンの世界から来たような女の子に言われるとは……。少しムスッとしていると少女は説明し始める。

 ここは狭間。この世とあの世の間にある世界。

 狭間自体は幾層も折り重なっていて、ここはその中でも現世に近い所だと言う。

 だからここの鏡には外の世界が映り、躍斗にも鏡に映ったキュオが見えた。

 能力に目覚めたから見えたという事なら、これも世界の理の一つだという事だ。普通の人間には見えないものが見えて、そしてそこに引き込まれてしまった。

「それで、どうすれば出られるんだ?」

「出られないよ」

 キュオは自虐的に笑いながら言う。

 ここから出る事はできない。出る為には外から引っ張り出してもらうしかない。

 冷静に考えれば至極当然な事なのだが、躍斗以外にも能力に目覚める者はいるらしい。

 それがなぜ世の中に溢れていないのかという理由の一つがこれなのだろう。

 能力に目覚めた者は世から消える。ここ――狭間に引きずり込まれて。

 世界というのは理を解き明かされる事を好まない。だから真理に近づいた者を抹消しているのだろうか。

 あのロボットのような男達はさしずめ世界の下僕しもべという所か。

 この目の前の女の子の仕業だという考えは浮かばなかった。むしろ追いかけたのは躍斗の方だし、危険が迫った事を教えてくれたのだ。

「じゃあ。君も何かの能力者?」

「うーん。よく分かんないのよね。そう言われるとそうな気もするし」

「現世にいた時、周りで何か不可解な現象があったのか?」

「あー。よくあたしの周りでは小物がなくなってた。探しても探しても見つからないのに、一ヶ月位したら突然出てくるんだよね」

 それは単に片付けられないだけなんじゃないのか、と躍斗は顔を強張らせる。

 もしかしたらその小物は狭間に落ちてまた戻ったのかもしれないが、ここを出る参考になる話とも思えない。

 そんな事より、

「他にもいるのか? 仲間が」

 その問いにキュオは寂しそうに首を振った。

 今は一人だけ。みんな消されたと言う。

「消されるってどういう事だ?」

「ここには死神がいるの」

 死神。

 狭間の中を徘徊し、迷い込んだ者を喰らって抹消する。

 キュオ以外にも数人の仲間がいたが、一人また一人と喰われて、最後の一人もキュオを逃がす為に犠牲になったのだと言う。

 キュオも、もうどのくらい逃げているのか思い出せないそうだ。

 ここに長くいると現世の記憶が曖昧になってくる。

 次第に存在が消えていく。仲間達も捕まったというよりは気力をがれるように諦めていった者の方が多い。

 それはこの空間にいるだけで少しずつ魂を喰われているのではないかと、見識な先輩は分析したとキュオは言う。

 キュオ自身にそんな教養は無く、この世界の事は何も分からない。全て先輩に教えられた事だそうだ。

 能力に目覚めると言っても本人には分からないかもしれないし、普通の人間が手違いで迷い込む可能性だってある。

 キュオの知る範囲では、今までの者達も別段特殊な能力を持っていたわけではない。一番の見識者は数学者だったそうだ。

 なら大した事は無い、と躍斗は落ち着きを取り戻す。

 相手も死神なら身を守る為に遠慮は要らない。どんな力を持っていても、今の躍斗に逃げられない相手などいないだろう。

「そう言って、見た目に惑わされていきなり捕まった人もいる。だから気をつけて」

 なるほど。一見弱そうな。無害な見た目で油断を誘うのか。むしろ躍斗の得意とする戦法だ。

 見た目で強さを判断できない事は躍斗自身が一番よく知っていた。

「それに、強い意志を持っていれば諦める事は無いし。入れたなら、必ず出る方法があるはずだ」

 そう言うと、キュオは目に微かに涙を浮かべて笑い、体を寄せてきた。

「よかった。意志の強い人で……ホントに」

 ずっと心細かったのだろう。

 キュオは躍斗の肩に額を押し付けるようにして泣いた。



 躍斗はキュオと並んで歩きながら街を観察する。

 よく知る街と形はなんら変わらない。

 ただ人がいない。何の音も聞こえて来ない。

 しかし鏡やガラスには本来の街、人の往来が映って見える。

 空も変だ。雲も太陽もない。だからと言って暗くもない。夕焼けのような淡い色で、どこからというでもなく薄明かりに照らされているみたいだ。

 まるでセピア調の映画のフィルムの中に入ったように……、音が無いから無声映画か。

 そしてそれは室内でも同じ。

 真っ暗な場所が無い。CGで作った世界のように、固定された光源から不自然に影を落としている。

 そう思った所で、躍斗は自分の足元に影が無い事に気が付いた。キュオには影がある。

「ホントだ。変な感じだね。宙に浮いてるみたい」

 と無邪気に笑う。人事だと思っているのか……。本人にとっては深刻だ。

 大丈夫なのだろうか? と躍斗は足を浮かせて様子を確かめる。

 躍斗自身に落ちる影、つまり顎の下にできるような影をCGの世界ではセルフシャドウと呼ぶがそれはある。陰影もちゃんとついていて、安いアニメのようにのっぺりした顔になる事は無い。ただ地面に伸びるはずの影だけが無くなっている。

 躍斗も古い3Dゲームの記事を見た事はあるが、ちょうどこんな感じだった。

 そこにはそれは影などのCG技術がまだ未発展だったからだとあった。

 そう言えば、ここに引きずり込まれる時に影が実体化して襲ってきた。その時に、影だけが現実世界に取り残されたのだろうか。

 そう思って店のショーウィンドウを覗き込むと影だけが地面に落ちているのが見えた。

 鏡に躍斗達は映らない。

 何もいない地面に人の形をした影だけが存在している。

 姿を消した躍斗と同じに見えていないのか。それとも何かの影なんだろうとあまり気にしていないのか、道行く人の反応は無い。

 その影は『狭間』にいる躍斗と同じ動きをしている。確かに躍斗の影のようだ。

 それを確かめるようにガラスの前で一人パフォーマンスをやる。

 だがよく見ると時折その動きがズレる。向こう側で別の人が動きを真似ているように、フェイントに引っかかるのだ。

 影が、一所懸命に躍斗の影であろうと真似ているようで、しばし夢中になって踊っていた。

 気が付くとキュオが横で必死に笑いを堪えていたので、少し赤くなって何事もなかったように歩き出す。


 この街は無生物しかいないわけでもない。

 植物は茂っているし、コンビニや家の冷蔵庫の中には食料があり、腐っている様子も無い。

 電気は来ていないようだが、電池で動く機械はある。

 車は走っていないし、テレビには何も映らない。

 エアコン等も点いていないがここは暑いとか寒いという感覚もないので問題ない。

 試しにガラスを割ったりもしてみたが、現実世界のガラスは割れなかった。

 繋がっている空間というわけではないらしい。

 キュオの仲間は、ここは現実世界とへーこーに存在するベツジゲンの世界だと予想した。

 キュオには意味が分からないらしく棒読み口調で説明する。

 SFなんかでは『世界は常に次の時間の世界を構築しながら進んでいる』という話がある。

 映画のセットのように、一秒後の世界をせっせと作って、完成したら時間を一秒進める。世界はコマ撮りによって作られているというわけだ。

 これもそんなようなものだろうか、と思いながら街を見渡した。

 壊した物はいつの間にか元に戻っているし、コンビニの棚の物も常に入れ替わっているとキュオは話す。


 躍斗は馴染みのカフェに赴いた。

 いつも人で賑わう店内は全く人がいない。しかし鏡の向こうに見えるのはいつもの風景。

 おや? と躍斗はテーブルの一つに目を留める。その上に乗っているのは……オタクの男達が持っていたフィギュア。

 壊れていない、完全な形で乗っていた。

 こちらで割ったガラスも向こうでは壊れていないし、向こうで壊した物もこっちでは壊れていない。

 時間がズレているというか、不思議な空間だ。帰る時にコレも持って帰ってやればオタク達は喜ぶだろうか、と考えながら鏡に近い席に座る。

 ここで鏡の方を見ていると、まるで現実世界に戻ったような気がする。いつもと変わらない人の賑わい。それでいて静かだ。

 キュオも同じ理由でここにいたのだろう。

 外から引き出してもらう為に、狭間の住人は自分達が見える者を探す。

 しかし気付いた人間に無闇に近づいても恐がって逃げられるだけだ。だから逃げて追わせて、興味を引かせる。そして接触して狭間から抜き出してもらう。

 躍斗も例に漏れずその釣り針に掛かったのだが逆に引き込まれてしまった。

 キュオは少し悪びれているようだったが、遅かれ早かれ躍斗はここに落ちたのだろう。

 むしろ何も分からないまま落ちるよりマシだと考える事にした。

 キュオはテーブルの上にある躍斗の手に自らの手を重ね、手の平同士を合わせて軽く握る。

 その温かさと柔らかさに一瞬動揺したが、キュオは安心したような笑みを浮かべていた。

 別に気があるとか誘っているとかではない。きっと長い事人の温もりがなかったからだろう。ここで勘違いして暴走するほど愚かではない。

 と自分に言い聞かせるが……、本当はこういう事に慣れていなくて、どうしたらいいか全く分からないからだ。


「ねえ、躍斗の事も話してよ」

 さっき自己紹介した名を呼ぶ。いきなり馴れ馴れしいと思うが、可憐な少女に名を呼ばれるのは悪い気はしない。

 キュオも人と話すのは久しぶりなのだろう。やたら人懐っこく話しかけてくる。

 存在感の無い、目立たない奴かな、という躍斗に「そんなのここに来る人はみんなそうだよ」と笑う。

 どんな子だったの? とせがむキュオに昔のエピソードを一つ語る。


 小学生の頃、理科で「酸素は燃えるのか?」という問題があった。

 躍斗を含め、皆『燃える』方に手を挙げた。

 だがその中で一人だけ『燃えない』方に手を挙げた。理由は『酸素は燃えるのを助ける働きをするもの』だからだ。

 先生は『この子はちゃんと授業を聞いている』と皆の前で褒めた。

 躍斗自身、それは授業で聞いていたので覚えている。

 分からなかったのは『それが燃えている事とどう違うのか?』だ。

 助けようが助けられてようが、燃えてる事に違いないじゃないか。

 だけど当時小学生だった躍斗にはその疑問を提示する事はできなかった。今思えば多くの子がそうだったんだと思う。

 だが先生に叱られ、従った者が褒められる世界で皆少しずつ折れていったんだろう。

 そんな中で躍斗は、最後の一人になっても、馬鹿にされても、それが分かるまで『燃える』方に手を挙げ続けた。

 それを黙って聞いていたキュオは、話し終えた頃合いに聞く。

「それで、燃えるのとはどう違うの?」

「え?」

 説明してもいいんだが、それは躍斗という人間の人格紹介に必要な情報なのか?

 それにこのちょっと天然っぽい女の子にどう説明したものか……と逡巡していると、キュオがはっとしたように辺りを見回す。

「来た!」

 何が? と躍斗も周りを見回すが何もいない。

 いや、何かがいるような気はする。心持ち周囲が暗く、重くなっているような重圧感を躍斗も感じる。

「例の死神」

 逃げなきゃ、と席を立つキュオに躍斗もゆっくりと腰を上げる。

 力に目覚めた時から、敵が現れてそれと戦う事は覚悟の上だ。

 恐ろしいのは相手の姿が見えない、正体が分からない事。まずは相手の姿を確認する。どんな力を持ち、どんな考えで行動し、何をしようとしているのか。

 姿、服装、仕草など一挙一動からも情報を得る。

 キュオに手を引かれて通りに出ると辺りが暗い。元々明るいわけではないが、通りの一角が淀んでいるような、黒い霧が立ち込めているかのように更に暗くなっている。

 そこから何かがやって来るのが躍斗にも感じとれた。

 早く行こう、と腕を引くキュオを制して相手を見極めようとその闇に目を凝らす。

 実体化した影という超常的な物とも対峙し、大勢のチーマーに囲まれた中で命のやり取りに近い事もやったのだ。

 今の躍斗はちょっとやそっとの事では動じない自信がある。

 闇の中から白い足が現れ、ヒタヒタと地面を踏む。

 猛獣でも何でも来い、と意気込んでいたが人間のようだ。だが裸足とは……、と続いて浮かび上がった全身を見て躍斗の体は硬直した。


 現れたのは人。若い女性。

 腰まで届く艶やかな黒髪を揺らし、死人のような白い肌をした全裸の美女。

 年齢を言うなら二十才前後か、モデルのように均整の取れた体で歩み寄る姿は異様なまでに美しい。

 だがその目には瞳が無く、目から口から赤黒い液体を流している。良く言えばシュールな絵画のようだが、要するに動く死体……ゾンビだ。

 躍斗は完全に意表を突かれてその容貌に釘付けになる。

「ヤバいよ。行こうよ」

 半ば強引に腕を引くキュオに我に返り、一緒に走リ出す。

 少し走った所で息を整えた。躍斗は持久力には自信が無い。物事は迅速に、スピーディに片付けるのが信条だからだ。

 長期戦にもつれ込んだ時点でその作戦には穴がある。事前に勝利を決定してこその作戦だ。

 普段からあらゆる事態を想定し、冷静に対処できる。

 しかし……、と躍斗は息を呑む。

「あれは……一体何だ?」

「レイコさんだよ」

「レイコさん?」

 キュオ達はそう呼んでいると言う。

 ある意味健全な高校生にとっては天敵だ。直視できない。いや見てしまったが、キュオがいなければ、本当にあのまま喰われていたかもしれない。

 容姿だけではない。躍斗の危険を知らせるセンサーは、あれをヤバイものだと警鐘を鳴らした。

「化物……なのか?」

「ううん。元はあたし達と同じ狭間に落ちた人間らしいけど」

 伝え聞いた話だから本当かどうかは分からないそうだが、ここにいれば喰われるか、ああなるという事か。

 背後から、あの黒い気配が近づいてくる。躍斗達は早足に歩き出した。

 くのはそれほど難しい事ではない。レイコは終始あのペースで追うだけだ。大抵は逃げ続ける事に疲れるか、油断するかで捕まるとキュオは話す。

 角を何度か曲がった所でキュオは足を止めた。

「あたし、躍斗がいなかったら……もう諦めてたかも」

 独りぼっちになって暫く経つ。出る手段も無いまま疲れて、そろそろ潮時かと半ば諦めかけていたそうだ。

 そんな時に躍斗が来て、また生きる意欲が出てきたと語る。

「だから逃げよう。躍斗ならいつかここから連れ出してくれそうな気がする」

 そう言われると悪い気はしない。出るのが難しい事は、誰よりもよく知っているはずだろうに。

 躍斗は何とかして出るつもりだが、その時はキュオも一緒だと誓う。

「約束する。必ず君も連れ出してみせるよ」

 キュオは無邪気に笑った。きっと暫くぶりの笑みだったろう。

 だがその笑顔が驚きに変わる。

「ま、また来た!」

 と躍斗の背後を指差す。

 早足に歩きながらキュオは狼狽する。

「どうして? 今まで一度にこんなしつこく追ってくる事はなかったのに」

 レイコはどちらかというと、この空間を徘徊しているだけだ。

 それはどの道逃げる事はできないし、ここにいるだけで命をがれていくからわざわざ走ってまで追う必要が無いのだと、先達は分析した。

 恐怖を与えるだけで、追う行為としては十分だという事だ。

 なら急にロックオンした理由とは何か?

 簡単だ。それは自分が来たからだ……、と躍斗は思う。

 あれが躍斗を追っているのなら、キュオ達よりも強い能力を持っているからであろう事は十分に考えられる。

 だがそれは相手にとっても躍斗が都合の悪い者だという意味でもある。

 敵意は恐怖。

 放っておけば逃げられる可能性があるから、早いうちに直接排除しようというのなら、逃げ延びれば活路はあるという事。

「よし。二手に分かれよう。撒いたら、さっきのカフェで落ち合おう」

 と言って角を曲がって走り出す。

「あ! ダメ!!」

 止めようとするキュオの言葉に構わず走り出す。

 一人で心細いだろうが、足の遅いキュオがいては返って逃げ辛い。それに今まで一人で大丈夫だったのだ。キュオもそう簡単には捕まらないだろう。

 躍斗を追っていないのならそれは新しい発見だし、その時は助けに戻ればいい。

 家の塀にもたれて息を整えながらそんな事を考えていたが、その必要はないようだった。

 あの黒い気配は躍斗を追ってきている。

 通りは長い。どっちから来る? と左右に気を配っていると、躍斗の視界の左右から白い手が伸びた。

 細い指をした美しい女性の手が、背後から抱きすくめるように迫る。

 だが体に触れる前にその動きがゆっくりになり、躍斗はしゃがみ込んでその抱擁を避けた。

 地面を転がって背後を見る。後ろは壁だったはずだ。

 実際腕は塀から生えている。そして二つの丸い膨らみが塀から浮き出し、続いてレイコの端麗な顔が現れた。

 どこが元人間だよ。完全な化物だ、と躍斗は後退りする。

 その瞳の無い目と僅かに端を上げた口は、捕り物を楽しんでいるようにも思える。

 躍斗は整いきらない息に構わず走り出す。あれだけ走ったのに簡単に追いつかれたのはレイコが最短距離を歩いたからだ。

 角を曲がるのは得策ではない。直線に逃げなくては。だが、それではカフェに戻れない。

 背後を確認し、レイコが視界から消えた所で角を曲がる。

 さすがに走れなくなり。塀に手を付いて息を整える。

 まずい。意表を突かれて必要以上に走ってしまったか。こういう時は焦ってはダメなのに。

 キュオはレイコが壁を抜けてくる事を知っていたのだろうか? だから止めたのかな、と自分の軽率さを反省するも、大事なのはこれからだ。

 焦って疲労を募らせればいずれ捕まる。体力を温存しなくては。

 基本的にレイコの歩調よりもやや早めのペースで、真っ直ぐ歩いていれば追いつかれる道理は無いのだ。

 もっとも、ああいう存在が一人だけとも限らないが、そんなにゴロゴロ転がっているとも思えない。

 手近な家屋のドアを開けるとすんなりと開いた。取り合えずここに隠れてやりすごそう。

 玄関マットの上に座って休む。すると黒い気配が段々近づいてくるのが分かった。

 通り過ぎてくれるだろうか、とドアの覗き穴から外を覗くと魚眼レンズで歪んだ白い美女が目に飛び込んだ。

 やや情けない悲鳴を上げてドアから飛び退く。

 ドアをすり抜けて白い体が現れた。

「う、うわ」

 と尻餅をついたまま後ずさり、反転しながら立ち上がって走る。

 躍斗はどうして気付かなかったんだと歯軋りした。

 躍斗に相手の気配が分かるように、相手にもその可能性がある事を。

 塀にもたれる躍斗の後ろから現れた時に気付くべきだったのだ。この期に及んで常識に縛られた考え方をしていた事を悔やむ。

 廊下を真っ直ぐに進み、突き当りの部屋に飛び込んでドアを閉める。

 いや、閉めても無駄なんだ。ここから出なくては……と窓を開け、格子が入っているのを見て思わず声を上げる。

 窓はこれだけだ。格子をガチャガチャと揺すってみるがビクともしない。

 時間を遅くする能力だけではここから出られない。レイコが入ってきた所で時間を遅めて脇を走り抜けるか。

 いや、落ち着け、と自分に言い聞かせる。

 その力は一度見られているのだ。自分の動きが速くなるわけではない。安直な考えでは相手に先を行かれてしまう。

 状況は袋の鼠。絶体絶命だ。

 こういう時こそ全体を見渡せ。枠を取っ払え。常識を超えろ。ここは既に常識から外れた世界なんだ。

 レイコは壁を通り抜けられる。その理屈は何だ? どうすれば壁を抜けられるんだ? あれも元人間だと言うなら方法があるはずだ。

 ゲームの世界でも管理者は壁を通り抜けるんだ。ゲームのテストプレイをする際に、複雑な迷路をいちいち歩かなくて済むように壁を越える権限を持っている。

 躍斗は焦る気持ちを押さえて考えを巡らせる。

 躍斗は管理者権限に手が届いた。

 だからきっと、『それ』もできるはずだと信じる。

 躍斗は壁を前に立つ。

 目を閉じ、そこに壁などないと思い込んだ。

 壁があると知らなければぶつかる事は無い。恐がるな。疑うな。当たり前のように通れると思って踏み出せ、と開けた空間をイメージして、勢い良く足を踏み出す。

 ごつん、と鈍い音と共に額が壁にぶつかった。

 ……違うようだ。根本的に考え方を変えるんだ、と痛む額を押さえる。

 世界は複雑にできている。それを全て数式で表す事ができれば、壁の抜け方も分かるのかもしれないが、躍斗にはまだ無理だ。

 逆だ、逆に考えるんだ。もっとシンプルに、分かりやすく考えろ。

 壁はある。それは間違いない。ぶつかるのは壁に当たり判定があるからだ。そして躍斗自身にも……。その二つの当たり判定コリジョンが干渉し合い、反発して『ぶつかる』という現象を起こすんだ。

 自問自答しながら背後を窺うとレイコがドアを抜けてくる。だが部屋に入らずに立ったままだ。やはり力を警戒して逃がさないつもりのようだ。

 そして目から口から流れている液体がその量を増す。何かをやろうとしているようだ。

 躍斗は再び壁に集中する。

 躍斗は人の意識から消える事で姿を消した。それも『判定対象』を抜けるから他人の目に映らなくなるのだ。それと同じだ。コリジョン判定も抜けられる。

 躍斗は壁に向かって手をかざす。背後では黒い気配が大きくなっているのが感じられた。

 壁は関係ない。判定を無くすのは自分なんだ。自分自身に当たり判定が無くなれば壁は抜けられる。

 人の意識からは消えられたんだ。


「できる」


 手を前に出す。

 だが手が壁に当たる感触はなく、そのまま体ごと壁を通り抜けた。

 やった! と気分が高揚するが、レイコはすぐに追ってくる。まずは逃げなくては。

 このまま壁を抜けて歩き続ければ最短コースなのだろうが、どうにも視界の開けていない場所は歩き難い。

 普通に通りを早足に歩きながら考える。

 この空間は一体何なのか。壁を抜けられたのなら、出られるような気がしてきた。考えるんだ。今まで誰も出られなかったと言うがそうだろうか?

 もしかしたら古くから伝わる神隠しもこれと同じなのかもしれない。そして神隠しにあった者は稀にひょっこり戻る事もあるのだ。

 キュオに色々と教えた先輩は数学者だと言っていたから大人だったのだろう。少なからず常識に囚われていたはずだ。

 発想を変えろ。ここから出ようとしても出られない。ならば出なければいい。

 出ようとする行為が間違っているのなら? それはつまり……、『閉じ込められているわけではないのではないか?』。

 つまり躍斗達は初めから現実世界にいて、どこにも閉じ込められていない。

 だからありもしない出口を探して出ようとしても出られない。

 歩みを少し緩めて考えを整理する。

 躍斗は始めに他の人間から姿を消す能力を身につけた。他の人間に躍斗の姿は見えなくなった。

 そして今、躍斗にも他の人間は見えなくなった。それは実は見えないだけで、壁を通り抜けたように人間も通り抜けているのかもしれない。

 つまり消える能力が強くなりすぎて『消えすぎた』と考えるとどうか。

 だがその認識はあくまで目の前の『視界』のみ。鏡に映る鏡像にまで手が回っていない。CGでもそうだ。うっかり対応を忘れて時折あり得ない絵になったりする事がある。

 だが物を壊しても反映しないから、実際はもう少し複雑なのだろう。

 別次元には違いないが根本的には同じ場所。だから鏡を通ろうとしても、出口を探しても無駄なんだ。変えるのは『認識』。

 だが姿を消す事を覚えただけの躍斗では、難易度が飛びすぎている。

 元の世界との接点が要る。何か繋がるものがあれば、それを辿って認識を合わせられるかもしれない。

 だから向こうから引き出してもらう必要があるのだろう。もしかしたらキュオの先輩もそこまでは辿り着いていたのかもしれない。

 思案しながら歩いていると踏切に差し掛かる。地元では有名な開かずの踏切だ。


『ここは幽霊が出る』

『それは電磁波が強いから』


 頭の隅に引っかかるものがある。そもそも心霊現象とは何なのか。鏡に映るキュオを見た時、まさにそれだと思った。

 電磁波と心霊現象は密接な関係がある。そして電磁波は色々なものに悪影響を及ぼす事もある。

 その悪影響が、次元の壁を歪ませるものだとしたら?

 だから、特別能力を持っていなくても見える事がある。もしかしたら今躍斗の姿が、向こうにゆらゆらと見えているのかもしれない。

 だとしたら、ここは一番現世に近い場所。穴や出口があるとすればこういう場所なのだろう。

 しかしそれは文字通りの穴ではない。出口を探そうと躍起になってはダメだ。接点がなくては。向こうから、こっちを引っ張り出してくれる協力者が必要だ。

 周囲が暗く、重くなってくる。

 レイコが来た。

 一直線に躍斗を追ってきている。

 これ以上逃げるのは難しい。それこそ地の果てに向かって歩き続けなくてはならない。力尽きたらそれで終わりだ。

 落ち着くんだ。頭に引っかかるものがある時は何かある。潜在意識が思考する中に答えに近い物があるから引っかかるんだ、と意識を集中する。

 レイコの姿を視界に捉えた。悠々とこちらに向かって歩いてくる。

 躍斗は霊の目撃場所と噂される場所に立ち、レイコの方を向く。でも姿は直視しない。

 レイコはもう直ぐ近くまで歩いてきていた。

 接点だ。向こうで助け出してくれる者。躍斗を必要としてくれている者。今この場所に来てくれる者。

 そしてこっちに引っ張られず、向こうに抜き出してくれるくらい強い力を持った者。

 心拍数が上がる。

 レイコはもう目の前だ。見るなという方が無理なのでやや視線を上げる。

 正直に言えば見たくないわけではない。今気を散らせては命に関わるから自制しているだけだ。

 そしてレイコは躍斗の首に腕を回した。

 その瞬間、体が引っ張られて地面を転がる。同時に耳を劈つんざく轟音。電車の音だ。

 眠りから目を覚ましたように光に目を細めながら、痛む肘を押さえて立ち上がる。

 躍斗がいるのは踏切の中だ。その直ぐ横を電車が走り抜けている。

 危険なのでよろよろと外へ出る。早朝なので人通りは無い。

 躍斗は息を付いて足元に伸びた影を見た。

 影は躍斗の姿勢とは無関係な形に伸び、「やあ」と挨拶のポーズを取る。

 躍斗はその形に合わせて同じように手を上げた。

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