嚢中の錐

 躍斗は学生ズボンにカッターシャツ姿で街のカフェにいた。

 別に学校をサボッて来たわけではない。確かに不登校だが今は夏休みだ。

 ファッションというものに全く興味がない為大抵はこの格好だ。着る物に悩む時間など彼にとっては人生の無駄でしかない。

 このカフェは商店街の中ほどに位置する、十字路の角にあたるビルの一階を全て開放したような大きな店舗だ。

 十字路には大きな時計塔が建てられているので、屋外席で道行く人の喧騒とそよ風を感じながら待ち合わせをする者も多い。

 そして店舗の奥は全面鏡張りになっていて、店内をより広く見せている。

 その奥に近い席で、コーヒーを飲みながら人々の話題に聞き耳を立てるのは思いの外楽しい。

 だがその中に、少し変わった雰囲気の男がいるのに気が付いた。

 意識して姿を消しているつもりはないが、ぼんやりと考え事をしていると自然と力が発動するから、今の躍斗は周囲から気にされていないはずだ。

 その中で、躍斗に意識を向けているような気がする。

 真夏だと言うのにコートを着て、あまり特徴のない顔をした男。夏用のコートっぽいので異様な雰囲気というほどではないが、カフェで休憩する時は脱いで良さそうなものだ。

 もっとも躍斗に人の格好をとやかく言うセンスはない。

 躍斗を見ているわけではない。

 周囲の人間が一人残らず躍斗を意識しない中だから、返って目立つように思う。

 よく店員が万引きをしないかどうか疑っているんじゃないかと思う事がある。

 こっちを直接見ないで様子を窺っているような、そんな気がした。

 しばらく観察してみたが別段怪しい事もないので、気のせいかと近くの女子グループへと意識を移す。

「ねえ聞いた? また見たって人がいたらしいよ」

「例の踏切の? 事故で死んだ人の幽霊が見えるって奴でしょ?」

 見た感じ中学生くらいの集団だ。

 女子はそういう噂話を好む。大抵その手の話は「見た人がいた」というものばかりで「見た」と言う者はいないものだ。

「私も踏切待ってる時に見えた! って思ったんだけど。電車に映った自分の姿だった」

 と言って笑い出す。

 そして話題は幽霊からその踏切が中々開かない『開かずの踏切』の話に移行する。

 話題に節操がないな、と躍斗は頬杖をつく。

 特にこの季節は何かとそう言う物が見えたという話題が上る。

 実の所、心霊現象というのは電磁波が強い場所で発生する率が高いのだとテレビの番組で言っていた。

 強い電磁波が脳に働きかけ、要は誤作動をさせて幻覚を見え易くするのだと。

 踏切も電磁波が強いと言われているが、それだけで幻覚が見えるならそこかしこで見えているはずだ。

 噂の踏切はその他にも電磁波の条件が揃っているのかもしれない。

 躍斗は別グループの話題に耳を傾ける。


「どうだい? 苦労して落札したんだよ」

「すごいじゃないか。上村卯月ちゃんの魔改造フィギュア。鬼才の造型師、岩井国彦氏による限定品だね」

「衣服が全部布製で着脱可能。中身も全部精巧に再現されてるんだよ」

 中年の見るからにオタクの風貌をした男達が、テーブルに人形……フィギュアというやつを置いて語り合っている。

 最近のフィギュアは本当によくできているな、と躍斗もチラ見してしまう。

 だがそのフィギュアの向こう……、鏡に映った女の子の姿に目が留まる。

 その子はひらひらの付いた白い服を着ている。今の流行とは少しズレているようにも思うが、それが返って新鮮だ。

 褪せて薄くなったような色をしたふわふわの髪が特徴的な、高校生くらいの少女。

 周囲の人を観察するというか、ぼんやりと眺めるように見ている。

 その鏡越しの視線が躍斗と交差した。

 やや幼さの残る丸い顔に、大きめの目。肌が白く、美人というより可愛いという言葉が似合う娘だ。

 その娘は一瞬きょとんとした顔になったが、懐っこい微笑みで視線を真っ直ぐに見返した。

 躍斗は慌てて目を逸らす。

 見られた!? 元々意識して姿を消していたわけではなかったから、いつの間にか見えていたのかもしれない。

 普通、目が合ってしまったら偶然合ってしまったようにそのまま視線を外すのだが、なぜか見入ってしまった。

 周囲から少し浮いていたからかもしれない。

 少しバツが悪くなって何もない空間に目を泳がし、反対側を見る。

 女の子は鏡に映っていたのだから、そっちには本体がある。さり気なくもう一度視界に入れたかったのだが、その視線はそのまま激しく周囲を彷徨った。

 あの女の子がいない。

 目を離したのは数秒だ。その間に外に出たとは考えられない。人はまだ多いがあんな目立つ娘が紛れるとも思えない。

 隠れようと思えば物陰に隠れる事もできるが、そんな事をしたら他の人が怪しむ。

 躍斗は人目も気にせず女の子を捜して目を動かした。

 もしかしたら鏡に映っていたと思っただけで鏡の方にいたのか? と鏡を見るがやはりいない。

 視界には女の子の姿は一つしかなかったのだからその可能性はないのだが……。

 幽霊? それにしてはハッキリしていた。

 それともここは電磁波が強いのだろうか? と釈然としない気持ちで席に座りなおした所で、店の中が騒がしい事に気が付いた。

「僕の卯月ちゃん返してよぉ」

「気色悪いんだよおっさん。こんなもん眺めて喜んでんじゃねぇ」

 さっきのフィギュアオタクに絡んでいる連中がいるようだ。夏だというのに少し厚着をしているのはバイク乗りだからだろうか。

 同じような色のジャンパーをお揃いで着ている。最近この辺りで幅を利かせているチーマーだ。今までにも何度か見かけた事がある。

 悪ぶる事が強い事だと思っている連中。罪を犯しても人権が保証され、弁護士が付く時代でしか悪ぶれない、見せ掛けのワルだ。

 学友には悪者になる方が勇気がいると豪語していた奴もいた。多分悪役の間違いだと思うが……。

 実際はその中で人道に乗っとる事の方が勇気がいる。

 周りがサボッている中でただ一人勉強をする事が、いじめ教室の中でただ一人いじめに加担しない事がどれだけ勇気の要る事なのか、大人達は知らない。

 目を付けられないように、目立たないように適度に悪い自分を演出する。多くの人間はそうやってうまく生きているだけだ。

「ああっ! 僕の卯月ちゃんが!」

 ジャンパーの男は地面に落としたフィギュアを踏み付けて砕いた。

 チーマーはバラバラになったフィギュアを見て泣くオタク達をドヤ顔で見下ろす。

 まるで社会のゴミに制裁を加えてやったかのような態度に、躍斗は冷ややかな視線を送る。

「ああ? 何見てんだよお前」

 自分の事だろうか、というように躍斗は周囲を見回すが、近くに他の客はいなかった。

 僅かに怒りを覚えた為に姿が見えてしまったようだが、それには特に気にせず、見られる事に不都合があるのに、こんな目立つ事をやっているのだろうか? という事を真剣に考えてみる。

「なんか文句でもあんのか?」

 彼らは文句のある人間しか見ないかもしれないが、普通の人はそうではない。

 一般的には話をする時は相手の目を見て話せと教えられるものだ。もっとも躍斗も実践していないが……。

 目立つ事をしていながら周りの注目から外れる。この不合理を起こすのが目的なのだろうか? それが彼らにとっての世界の理を覆す、魔王の力の行使なのかもしれない。

 実際には不合理でも何でもなく、極めて理論的に説明できる現象なのだが。

 それともあれか? ミニスカートを履いていながら、その中を見られたら痴漢容疑で訴えるのと似ているのだろうか。

 というような思考を巡らせていると、チーマーの一人がつかつかとやってくる。

「何澄ましてんだ? その顔ムカつくんだよ」

「いや、顔は生まれつきだし……、ムカつき度合いで言うなら君らの方がはるかに上だと思うけど……」

「何だとてめぇ!」

 一応、躍斗的には相手を持ち上げるように言ってみたつもりだったが逆効果だったようだ。

「疑うなら、周りの人に聞いてみたらいいと思うけど?」

 男は鼻で笑って周囲に声をかける。

「おい! 俺がムカつく奴はいるか?」

 周りにいる仲間はせせら笑い。隅に残っている客も目を伏せる。

「じゃ、コイツがムカつく奴は?」

 仲間達が一斉に手を挙げる。

「おい! お前らにも聞いてんだよ!」

 とオタク達の着くテーブルを蹴ると、彼らも恐る恐る手を挙げた。

 男は得意げに躍斗を見下ろす。

 多数決が出たのなら仕方ない。家族票だけなら疑問の余地があるが、被害者に属する者達まで手を挙げたのだ。

 ちなみにオタク達の行動は何ら非のあるものではない。

 緊急避難と言って自分達を守る為の正当な行為だ。法律で保証されている。

 従ってそれによる票も正当なものだ、と躍斗は一人納得する。

「間違っていたのは僕のようだ。それは申し訳ない事をした」

「申し訳ないで済むと思ってんのか?」

「では、どうしたら?」

 男は親指と人差し指で丸を作る。

「慰謝料。誠意ってもんを見せてくれよ」

 彼らから誠意という言葉が出てくるとは。しかも慰謝料という言葉をちゃんと知っているなんて、と内心驚く。

「分かった。じゃあ物事は順番に片付けよう」

 と言ってオタク達を、正確にはテーブルの上に集められた破片を指差す。

「あれを壊したろう? まずあれを弁償して誠意を見せる方が先だと思うけど?」

 男はバラバラになったフィギュアを見る。

「ほう。あれを弁償したら払うんだな? 慰謝料」

「もちろん」

「おい! それはいくらだ?」

 オタク達は互いに顔を見合わせ、言うべきかどうか迷うような素振りを見せる。

「おい! 早く言え!」

 持ち主であろう一人が恐る恐る口を開く。

「き、九十八万円」

「ああ? 何言ってんだてめぇ」

 男はオタクの胸倉を掴む。

「どこのぼったくりバーだ。ふざけんじゃねぇ」

 オタクの男は動揺しながらも「本当です」とタブレットを操作して落札記録を見せた。

 こんなもん信じられるか! とタブレット投げつけてオタクを締め上げ、「いらねぇよな?」を繰り返す。

 オタクは頷いたのかどうか分からない素振りだったが、男は躍斗の元へと戻ってきた。

「話はついたぜ」

 誠意を見せる話ではなかったのだろうか? と少し呆れ、

「いいのか? ホントに刑事事件になると思うけど?」

 この場合、彼らの親御さんがその責務を負う事になるのだろうから気の毒に思って言ってみる。

「未成年に支払い義務はねぇんだよ!」

「僕も未成年だ」

 男は少し呆気に取られたような顔をしたが、後ろを振り返り、

「なら子供らしく話をつけようぜ」

 皆に聞かせるように言うが、足が前を向いたままだ。要は重心をそのままに上半身だけを捻って後ろを向いている。

 躍斗は一歩、斜め後ろに下がる。

 次の瞬間、男は『振りかぶり』の姿勢から拳を振るう。躍斗は何も無い空中を切る拳を目で追った。

 不意打ちのつもりだったのだろうが、体勢が不自然。ミエミエだ。物事は冷静に大局を見極める者が制する。

 常に不自然をスルーせずに、それが何なのかを考える姿勢を持っていれば何て事はない。

「ワザと外してくれるなんて親切だね。怖かったよ。もう勘弁してもらえないかな」

 驚いている男に言い放つと、周囲から笑いが起こって男の顔が赤くなる。

 逆上して飛び掛かってくるかと思ったが、男は一切の手加減を止めてボクシングの構えを取る。

 赤くなった顔が蒼白と言えるほどに青くなる。思ったより冷静だ。確かに喧嘩慣れしている。

 こうなる事は予想できた。だからこそやってみたのだ。

 ここで叩きのめされて心が折れるようなら所詮それまでの人間だ。とてもじゃないが魔王の器ではない。

 勝つのか負けるのか、それは分からないが死ぬ事はないだろう、と躍斗は少し心拍数を上げながらも覚悟を決める。

 男の前の手がジャブを放つ。

 その拳が命中すれば、体重差から言って鼻血を吹き出す事は確実だろう。

 だが躍斗はガラス製の皿を手に取り、ゆっくりと向かってくる拳に正面からぶつけた。

 皿は砕け散り、男は驚愕して後ずさる。鍛えられた拳だったが手の骨にヒビくらい入ったかもしれない。

 もう確実だ、と躍斗の胸が躍る。

 アドレナリンのせいでゆっくりに見えていたのではない。

 時間がゆっくりと動いている。

 自分が速く動けたわけではないが、思考の速さは平常通りだった。

 実際には脳内麻薬など科学的な説明がつくのかもしれないが、感覚として『普通でない』のが感じとれた。

 ただ危険に反応して起こるだけで、自在に使えるわけではないようだ。

 周りの仲間からも動揺が伝わってくるが、一斉に『立ち方』が変わった。学校の連中よりは結束力がある。

 早い話が逃がさないつもりだ。隙を見て包囲を突破するのは難しい。あくまで『普通なら』の話だ。

 躍斗に限らず多くの人間は争いを避ける。別段平和を愛しているわけではなくてもそうしている。

 それはこういう『メンドクサイ事』になるのが嫌だからだ。

 はっきり言ってこんな連中、特殊能力など無くても刃物でも何でも使って再起不能にするくらいは簡単な事だ。

 だがそれはより大きな面倒を引き起こす。多くの人間は、明日もゆっくり街を歩きたいから面倒を避けるのだ。

 そして躍斗もその限りではない。

 明日も堂々と街を歩く自信があるからこその行動だ。

 後はこの場を収めるか脱出するだけだが、注目されてから姿を消す事は難しい。

 相手の気を逸らして消えるか強引に突破するか。いずれにせよ、いい練習になるだろう。

「僕だってこの人数で襲い掛かられたらとても敵わない。もう許してくれないかな」

 周りにはよく聞こえない。目の前の男にだけ聞こえるような音量で言う。

「一対一なら勝てるみたいな言い方だな」

「もちろんだ。だけど正々堂々なんて、キミらには期待してない。卑怯な手を使った方がいいと思うよ」

「ああ?」

 男は上着の中に手を入れ、中に仕込んであったナイフを取り出す。

「そうさせてもらう」

 ナイフが躍斗に向かって突き出された。

 やれやれ、プライドを傘に挑発してみたが無駄だったか、と嘆息する。

 元々こういう連中に恥などという言葉はないのだろう。

 プライドだとか卑怯だとか体裁だとかは持ち合わせていない。相手が屈服したかどうかなんだ。

 口だけの正当性を語る班の連中よりは分かり易いが、その分面倒くさい。そしてその面倒くささはそのまま危険度でもある。

 躍斗はゆっくりと飛んでくる腕に手刀を叩き込む。

 急所を正確に叩かれて痺れた手からナイフが離れ、それを人差し指と親指で摘んで取り、相手の首に突き立てた。

 力が入らない持ち方なので僅かに突き刺さっただけだが、頚動脈の直ぐ手前に刺さったナイフは少し動いただけでも致命傷になる。

 さすがに相手も動きを止め、周囲にも驚愕の色が広がる。

「先にナイフを出したから、このまま殺しても正当防衛だ。付け狙われても面倒だから殺しといてもいいんだけど?」

 躍斗は完全に無傷なため、実際には正当防衛になるのは難しい。指紋が残りにくい持ち方をしているとは言えかなり面倒だろう。

 指名手配されたくもないし、長い裁判もごめん被る。何より無罪になっても、そういうレッテルを張ったまま生きていきたくもないものだ。

 だから本当に刺すつもりはないのだが、男は真っ赤になってわなわなと震える。

 生き恥を晒すくらいなら死を選ぶというならあっぱれだが、単に理性という思考回路がショートしただけなんだろう。

 本当に面倒くさい。そろそろ時間を遅めて、一気に輪を突破するか――と考えていると、

「待って!」

 その場に似つかわしくない女の子の声が緊張感を削ぐ。

 声のした方を見るとグループの中から十六、七才くらいの女の子が姿を現した。

 長いストレートヘアーをなびかせ、優雅に歩み寄る姿は見た目よりも大人びている印象を与える。

 チーマーの仲間にしてはケバケバしい感じもなく軽装、だが質素ながら高価そうなシルクのワンピースだ。

 一瞬鏡の向こうに見た彼女である事を期待したが違った。あの柔らかそうな雰囲気の女の子とは対照的な、強い意志を秘めた目をしている。

 その女の子はチーマー達が道を開ける中、真っ直ぐに躍斗の前まで歩いてくる。

「面白いね。あなた名前は?」

 教えるわけない。何を言ってるんだこの子は――と訝しんでいると、

「そっか、そりゃ言い難いよね」

 と言って振り返るとチーマーの中でも比較的若い男の子を呼びつける。

「さっき今月の会費渡したでしょ。あれ出して」

 え? と仲間達にも動揺が広がる。

「お、おい。真遊海まゆみ

「なに? 文句でもあるの?」

 と抗議しようとする男を冷ややかな視線で黙らせる。

 てっきりこの男がリーダー格だと思っていたが違うのだろうか。このお嬢さんがチーマーのリーダー!? と息を呑む。

 真遊海と呼ばれた女の子は、若いチーマーが差し出した封筒を乱暴にひったくるとオタク達のテーブルに投げ渡した。

「百万あるから。それで弁償して」

 オタク達は動揺しながらも中身を確認し、「本当だ」とざわめく。

 真遊海はオタク達に蔑むような視線を送ると躍斗の元へと戻って言う。

「どう? これで文句ないでしょ?」

 いや、自分のフィギュアではないし。知り合いでもない――という顔をしていると、

「お、おい! 警察が来たぞ!」

 外から仲間らしい奴が入って来て言う。店員か、帰った客が通報したのだろう。

「おい! 真遊海! 行くぞ!」

 皆慌てたように外へ出る中、リーダー格の男は店内にの残る少女に向かって言う。

 真遊海は不満そうにしていたが「仕方ない」という感じで出て行った。

 払うものは払ったのだから非はないと言いたげだが、騒ぎを起こしたのだから面倒な事にはなるんだろう。

 躍斗はやれやれという感じで飲みかけのコーヒーの待つ席へと戻るが、途中オタクの一人と目が合う。

 オタクの男は苦笑いしながら呟くように言った。

「助けてもらっといて何だけど、これは世界に一つしかない限定品。お金じゃ買えないんだよ……」

「いや、別にあんたらを助けたわけじゃない」

 善意などではない。自分に降りかかる災難を払っただけだ、と少し冷たく言い放つとオタクは情けなく「そっか」と笑う。

 ほどなくして警官が入ってくると店員が応対する。

 店員も躍斗は被害者の一人と認識していたようで、何を咎められる事もなく残りのコーヒーを飲んで店を後にした。

 案の定というか当たり前にさっきのチーマー達が通りを見張っていたが、躍斗はその横を堂々と通り抜ける。

 そんな事よりも、鏡の向こうに見た少女の姿を探してしまう。

 そして少し離れたショーウィンドウに白いひらひらが見えた。

 躍斗はショーウィンドウに走り寄り店内を覗く。だが狭い店内に女の子の姿はない。

 いつの間にか外へ? と周りを見回すとまた白い物が見えた。

 ひらひらに誘われるように通りを歩く。

 いつの間にか商店街から外れ、人通りが無くなっていた。夕暮れ時が近づき、辺りも暗くなっている。

 そこでようやく『彼女』に追いついた。

 カフェで見たふわふわの髪をした女の子。確かにその子がガラスの向こうを歩いている。

 不思議な子だ。ガラスの……いや、鏡の中に住んでいるんだろうか、とガラスを凝視する。

 普通なら完全に怪奇現象なのだが、躍斗は魅入られたように後を追ってしまった。

 女の子が気が付いたように振り返る。

 そして目を合わせて、さっきと同じ笑顔。間違いない、彼女には姿を消している躍斗が見えている。

 ガラスの中の彼女は唇に指を当てて何やら言う。声は聞こえない。唇を読んでくれという事か。

 躍斗はガラスに近づき、ゆっくりと動く柔らかい唇の動きを吸い込まれるように魅入る。

 だがその動きは途中で「あーっ」という形に変わった。女の子を見ると驚いた顔で躍斗の背後を指差している。

 ガラスに映った像には、後ろから襲い掛かるコートの男が見えた。

 時間を遅め、すんでの所でその手をかわす。

 コートの男は無表情に空振りの姿勢のまま、体をこちらに向けた。

 さっきのカフェにいた男か? 同じ男のようにも見えるが違う気もする。そのくらい、特徴がなく印象が薄い。

『こいつは人間ではない』

 躍斗はそう感じた。

 何者かは分からないがまずは距離を置く。わけの分からないまま戦っては不利だ。

 躍斗は踵を返して走り出す……、がその足を止める。

 通りの反対側にある電柱の影から、別の男が現れた。電柱の裏に人が隠れていたのかと思ったが……違った。

 影が動いた。

 塀に伸びた影は形を変え、人型になって浮かび上がる。最初に現れたのと同じコートの男に、その姿を変えた。

 躍斗は二人の男に挟まれる形になる。

 だが時間を遅くすれば身を躱して走り抜ける事はできるだろう。躍斗はどっちから抜けるかと左右を見比べる。

 男達が近づいてくるのに注意深く視線を送り、ここは焦らず引き付けてから一気に走るかと考えを巡らせ、……今っ! と走り出そうとした躍斗の足を何かが掴んだ。

 前のめりに倒れそうになるも辛うじて堪える。そして足元を見ると、躍斗自身の影が地面から手を伸ばして足を掴んでいた。

 躍斗の影は、そのまま実体化してコートの男になる。

 しまった! と思うのも遅く、躍斗は三人の男達に取り押さえられた。

 だが突然、体が重くなったと思うと天地が逆転するような感覚。三半規管が狂い景色が回る。

 平衡感覚を取り戻し、地面に手を付くとコートの男達は居なくなっていた。

 顔を上げると、そこには姿勢良く立つ女の子の姿。

 その妖精のような女の子は地面に手を付く躍斗に言った。


「『狭間』の世界にようこそ」

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