第29話 全て、仕舞ったはずなのに②
まさみが四年生になると三年生になったばかりのゼミ生が新しく入ってきた。ゼミ生の顔合わせが終わると教授は立ち上がった。
「新しい仲間も入ったし歓迎会をやります。いつもの居酒屋に集合」
そう言い終えると教授は教室を出て行った。教授は飲み会が好きで授業が終わると時折、大学の近くにある居酒屋へゼミ生を誘っていた。ただ教授は下戸なのでゼミ生たちを誘ってもいつも二、三杯飲んだら帰ってしまう。教授がいる間はゼミ生たちは大人しく飲んでいるが、教授が帰ると大騒ぎしたり服を脱いだりして羽目を外して飲むので、まさみはゼミ終わりの飲み会が苦手だった。しかし断ると角が立つ気がしてまさみは毎回飲み会に参加していた。晴人も同じ理由でゼミ生たちの飲み会が苦手だったが、まさみとは違って毎回飲み会を断っていた。ただ今回は三年生の歓迎会だったので珍しく晴人も参加していた。その日も教授は酒を三杯飲むと顔を赤くして、後は若者だけで楽しんでと言い残して帰って行った。
「すいません! ウーロンハイを三十杯ください! 」
教授が帰ると西条たちは一気に大量の酒を注文した。
「ちょっと頼みすぎだよ。三、四年合わせても十五人しかいないんだから」
「いいんだよ! どうせあとで頼むことになるんだから今のうちに頼まないと」
「ただいま……。何これ? なんでウーロンハイがこんなにあんの? 」
トイレから戻ってきた晴人はテーブルに置かれた大量のウーロンハイに驚いていた。
「おい。頼みすぎだよ」
晴人は声を尖らせたが、西条は気にも留めなかった。
「いいじゃんいいじゃん。お酒も来たしもう一度みんなで乾杯! 」
西条がそう言うとその場にいた全員がグラスを天に上げた。
まさみがウーロンハイを飲みながら三年生たちと話していると奥から大きな声が聞こえた。
「えっ! 小春ちゃんキャバ嬢してるの? 」
その声は西条だった。ゼミ生たちは小春に視線を向けた。
「まぁ……。はい」
視線を注がれた小春は曖昧な笑みを浮かべている。
「キャバ嬢やってるんだったら俺の煙草に火をつけてよ」
西条は持っていた煙草を差し出した。
「えっ? 」
「何してんの? 火だよ火。客にいつもやってるんでしょ」
小春が困ったように笑っているのを見て、まさみは西条の元に近づいて煙草に火をつける素振りをした。
「私が火をつけさせていただきますぅ」
「お前に火をつけてもらっても嬉しくないんだよ。このデカ女! 」
西条は笑いながらまさみの頭を小突いた。西条の隣にいた四年のゼミ生は空いたグラスを小春に差し出した。
「それなら俺の酒を注いでよ」
小春は困惑した様子で視線を泳がせていると、晴人が口を開いた。
「止めろよ。三谷はゼミの飲み会に来てるんだからそういうことをさせんな」
「何固いこと言ってるんだよ。別にいいじゃん」
「駄目だ。三谷をキャバ嬢扱いするなら三谷が働いてる店にでも行けよ」
「分かったよ……」
西条たちは少し不満そうだったが、晴人に言われてからは小春に絡むことはなく大人しく酒を飲んでいた。まさみは晴人をその時にすごいと思った。自分なら空気を壊さないことを考えてしまって晴人のようにストレートに言えない。まさみは晴人を尊敬の眼差しで見ていた。
その日もゼミが終わった後、まさみはまた教授に飲み会に誘われた。まさみはいつものように断ることが出来ず、参加する羽目になった。一方の晴人はバイトがあると言って帰って行った。飲み会ではまさみと西条で小春を挟んで座っていた。ゼミ生たちの顔が赤くなり、ゼミ生たちの声が段々と大きくなってきた頃、西条は小春に絡み出した。
「小春ちゃんさぁ。キャバ嬢なんだからお酒強いんじゃないの? 」
「私、あんまり強くなくて……」
「嘘言うなよー。俺、小春ちゃんの為にお酒頼んだからいっぱい飲んで」
西条はそう言うと小春の前にレモンサワーを置いた。
「西条くん。止めなよ。三谷さん嫌がってんじゃん」
まさみは小春を庇おうとした。
「うるせぇよ。デカ子は黙ってろよ」
「私、本当にお酒が弱いんです。バイトでもお酒は弱くしてもらっていて」
「そうだよ。潰れちゃったら可哀想じゃん」
まさみの友人も助け舟を出したが西条は相変わらず耳を貸そうとしない。
「いいから飲めよ。それとも先輩が頼んだお酒が飲めねぇの? 」
有無を言わせない言い方に小春は体を小さくさせた。三年生たちも雰囲気に押されて口を閉ざした。まさみは小春の前に置かれたグラスを掴むとごくごくと勢いよく飲み干した。
「三谷さんに飲ますなら私を潰してからにして」
西条はしばらくぽかんとしていたが、突然ゲラゲラと大笑いした。
「面白そうじゃん! どんどん飲まそうぜ」
西条と悪ノリした四年生たちはメニューを広げて、まさみに何を飲ますか言い合っている。
「高橋先輩、本当に大丈夫ですか? 」
「止めなよまさみ。西条の言うことなんて聞かなくていいよ」
小春と友人も心配そうな顔をしている。
「大丈夫! 私、お酒結構強いから」
西条たちが注文した酒が届くとまさみはグラスを手に取り、一息つけないで飲み干した。そして彼女が酒を飲み干すと西条たちはすぐに新しい酒を注文して、彼女に飲ませ続けた。小春に宣言した通り、まさみは酒の強さをゼミ生たちに見せつけて彼らを驚かせた。しかし彼女は十杯以上酒を飲み切った所でとうとう記憶を失った。
まさみは揺れで目を覚ました。
「起きたか? 」
その声は晴人だった。
「あれ? 私、居酒屋にいたはずじゃ……」
「居酒屋で酔い潰れたんだよ。大丈夫か? 気持ち悪くないか? 」
「頭がグラグラして気持ち悪い……。あれ? 」
まさみは晴人におんぶされてることに気づくと驚いて大きな声を出した。晴人はバランスを崩してまさみを落としそうになった。
「危ねぇな。じっとしてろ」
「ちょっと何してるの? 下ろして! 」
「嫌だよ」
「重いでしょ? 私歩けるから平気だよ」
「あんなに飲んだんだから歩けないだろ。家まで送っていく」
「大丈夫だから下ろして! 」
「いいから! 重くないし平気だからおんぶされとけ」
晴人の言葉にまさみはようやく大人しくなった。
「分かった……。でもどうして晴人が? 」
「三谷から電話があったんだよ。お前が酔いつぶれちゃったから助けて欲しいって。それでバイト終わりにいつもの居酒屋に行ったってわけ」
「なるほど……。バイト終わりなのにごめん」
「別に……」
「三谷さんは大丈夫そうだった? 」
「あぁ。少し酔ってたけど大丈夫だったよ」
「よかった」
まさみは安堵のため息を吐いた。
「他人の心配してる場合か? 飲みすぎで救急車に運ばれてたかもしれないし、道端に放ったらかしにされてたら変なヤツに襲われてたかもしれないんだぞ」
「大丈夫。私、お酒は強いから。今回は飲みすぎちゃっただけだし、次からは気をつけるよ。それに私を襲おうとするそんな物好きいないよ」
まさみはヘラヘラと笑いながら言うと晴人は顔色を変えた。
「もうちょっと自分を大事にしろよ! 」
晴人はまさみを叱りつけた。まさみは驚いて息を飲んだ。
「心配してくれたのにごめん……」
晴人はまさみを驚かせてしまったことに気づき、急に大声出してごめんと謝った。しばらく二人の間にはどこか気まずい空気が流れ、お互いに黙ったままだったが、晴人が急に口を開いた。
「高橋はすごいよ」
「何急に? 」
晴人がいきなり褒めてきたのでまさみは思わず笑ってしまった。
「高橋って空気を読むの得意だろ。だから空気が悪くなったら自分の身長をネタにしてみんなを笑わせようとする。それにさっきだって三谷のことを守りながら、飲み会の空気を壊さないためにあんなに酒を飲んだんだろ? マジですごいと思う。でも時々無理してる気がする」
「そんなことないよ……」
まさみは今までそんなことを言われたことが無かったので戸惑っていた。晴人は諭すような口調で続けた。
「でももう自虐ネタとか止めろよ。そんなことずっと続けてたら心が擦り切れるぞ。高橋がそこまでする必要なんてない」
「うん」
「大丈夫だよ。空気が悪くなったところで誰も死なない。もし空気がわるくなってアイツらが高橋のせいだって言っても、俺は高橋の味方だから。高橋はもっと自分を大事にしろよ」
「うん」
晴人は背中が濡れていることに気づいた。
「おい。涎つけるなよ」
「つけてないし」
まさみは晴人の背中で泣いていた。彼女は本当はもう自分の身長で人を笑わせるのを止めたかった。人から笑われる度に自分の心が擦り切れていた。でも自虐して人を笑わせることを止めてしまったら、せっかく見つけた自分の居場所が無くなってしまうと思っていた。しかし晴人はそんなことをしなくていいと気づかせてくれた。そんな風に言ってくれる人は晴人が初めてだった。晴人だけは味方になって本当の自分を見てくれた。
私、晴人のことが好きだ
晴人の背中に背負われながらそう思った。
まさみはゼミが行われる教室に向かっていた。晴人と顔を合わせるのは彼に家まで送ってもらった以来だった。まさみは晴人と顔を合わせるのはどこか気恥ずかしかった。彼女が教室の前に立つとドアが少し空いていて、中から何人かが話している声がした。
「お前さぁ高橋のこと送ってやったんだろ? 」
それは西条の声だった。
「そうだけど」
この声は晴人だ。
「高橋とヤッた? 」
「はぁ? してないけど」
「嘘だ。家まで送って行ったんだからヤッたでしょ? 」
「それかホテルに連れ込んだとか? 」
「晴人って最低だな! 」
ゼミ生たちが囃し立てる声がした。
「ヤッてねぇしホテルにも連れ込んでねぇよ! 」
「嘘だ。男と女がやることって一つしかないじゃん」
「すぐにヤッたとかヤッてないとか言うの止めろよ」
晴人が苛立っているのが分かった。
「何怒ってるんだよ。それともビビって最後まで出来なかったとか? 」
しかし西条たちは気にせずに晴人を煽り続けた。まさみはこの場を離れた方がいいと思ったが、足が動かなかった。
「だからしてねぇって! あんなデカ女を抱けるわけねぇだろ! 」
晴人の言葉にまさみは心臓を握り潰されたような気がした。
「高橋先輩? 」
まさみはその声に振り返った。後ろには小春が立っていた。
「どうしたんですか? そろそろゼミが始まりますけど」
「ごめん。体調悪くなっちゃったから、先生に欠席しますって伝えてもらっていい? 」
「分かりました。伝えておきますね」
まさみはその場を足早に立ち去った。彼女は晴人の言葉を聞いてから、上手く呼吸が出来なかった。気がつくとまさみは校舎裏に来ていた。校舎裏には誰もいなかった。彼女はしゃがみこむと涙が勝手に流れた。涙が溢れて止まらなかった。まさみは今すぐに消えてしまいたかった。晴人だけは身長のことで悪く言うような人間じゃないと思いたかった。でも違った。晴人は心の底では自分のことをあんな風に思っていた。その事実がまさみを酷く傷つけた。まさみは涙が枯れるまでそこに居続けた。
それからまさみはいつも通りの日々を過ごした。麻痺してしまったのか自分の身長をネタに人を笑わせても痛みなんて感じなかった。
晴人のあの言葉を聞いてもまさみは彼のことを嫌いになれなかった。晴人の笑顔を見たり優しさに触れたりすると、自分の思いを言ってしまいそうになった。でもその度に晴人の言葉が頭をよぎって、まさみの口を閉ざさせた。まさみはどうせ恋人になれないのであれば、「友達」でいいと思った。「友達」なら晴人の傍にいられる。だからまさみは晴人への思いを全て仕舞って、彼のことはただの「友達」だと思って今まで付き合ってきた。しかし晴人の本当の気持ちを知ったことで、仕舞ったはずの思いが音を立てて溢れ出そうとしてるのが分かった。
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