第30話 私たち、妊活します?①
晴人は小春が二回目に店に来てからまさみがどこかよそよそしい態度になっていることに気が付いた。晴人は小春がまたまさみを傷つけるようなことを言ったのかと思ったが、彼女がまたまさみを傷つけるようなことを言うようには思えなかった。晴人は違和感を覚えながらもまさみとの結婚生活を続けていた。
「もしもしお母さん? 」
「まさみ? 元気? 」
まさみはスマートフォンで母の妙子と話していた。
「元気だよ。梨送ってくれてありがとうね」
「いえいえ。今年も叔母さんが送ってくれたんだけど二人だけだと食べきれないから」
この時期になると昔からまさみの親戚が梨を送ってくれていた。今年も親戚が梨を送ってくれたが妙子と剛志の二人では食べきれない量だったので、妙子は梨をまさみたちにも送ってくれたのだ。
「晴人も美味しいって喜んでるよ」
晴人が妙子に梨のお礼がしたいと言うのでまさみはスマートフォンをスピーカーモードにした。
「お母さん。お久しぶりです。晴人です」
「久しぶりねぇ。晴人くん元気? 」
「お陰様で元気です。梨、本当に美味しいです」
「晴人くんにも喜んでもらえてよかったわ。二人とも結婚して一年経つじゃない? そろそろ子供とかどうなの? 」
妙子の突然の言葉にまさみは会話に割り込んだ。
「ちょっと何言ってるの?! 」
「あら。まさみ聞いてたの? だって結婚して一年経つし、先生からは子供を作っても大丈夫だって言われてるんでしょ? それならそろそろねぇ」
「私たちまだ子供とか考えてないから! 」
「どうして? 孫の顔を早く見たいと思うのは親としては自然なことでしょ? 」
「二人とも仕事が忙しくてそんなこと考えてる余裕ないの! それじゃあ切るよ。バイバイ! 」
妙子はまだ何か言いたげだったが無視してまさみは勢いよく電話を切った。
「ごめんね。お母さんが変なこと言って」
晴人は苦笑いを浮かべている。
「全然大丈夫」
「デリケートなことなんだから口出ししないでほしいよね」
「まぁそうだよな」
「お母さん。他の人にそういうこと言ってないか心配」
まさみは妙子が自分たち以外の人間に子供はまだかと催促している絵面を想像したら寒気がした。
「子供が欲しくて悩んでる人からしたらそういうこと言われたくないだろうしな」
「本当に晴人のお義母さんは凄いよ。そういうこと言わないもん。ウチのお母さんも晴人のお義母さんを見習って欲しいよ」
晴人の母の佳代とはいい関係が築けているとまさみは感じていた。彼女は既に結婚している友人たちから姑との関係に悩んでいるという話を色々と聞いていた。それに颯太の母の真理子と上手くいかなかったので、晴人と結婚する時に佳代とも仲良くなれないのではと不安だった。しかし佳代は嫌味の一つも言わず、二人のことを暖かく見守ってくれていた。まさみは佳代とは近すぎず遠すぎずといった関係が築けていることに安心していた。
「でも俺らのこと心配してるんだからあんまりそういうこと言ってやるなよ」
晴人も妙子から子供について聞かれたことには驚いたが、妙子の電話でまさみとの距離が元に戻った気がして、晴人は心の中で妙子に感謝していた。
まさみは仕事から帰ってリビングで一休みしていると妙子から電話が掛かってきた。まさみはまた子供のことを言われるのではないかと警戒しながらも電話に出た。
「もしもしお母さん? 」
「まさみ……」
妙子が沈んだ声をしていることにまさみは気づいた。
「どうしたの? 何かあったの? 」
まさみは妙子との電話が終わると顔を青くして晴人の元にやって来た。
「どうしよう……」
「どうした? 何があった? 」
「お父さんの胃に癌が見つかったって……」
「えっ!? お義父さんは大丈夫か? 」
晴人は驚いて声が大きくなった。
「昨日入院したみたい。大したことないって言ってたけど……」
「心配だな」
まさみは晴人の言葉に頷いた。まさみの記憶の中で剛志は体調を崩したことはなく、一回も体調不良で会社を休んだことはなかった。
「明日会社を休んで病院に行って来ようと思う」
「それなら車を出すよ」
まさみは晴人に心配しすぎだと言われるのではないかと思っていたので、車を出すと言ってくれたことに驚いた。
「そんな悪いよ」
「気にすんなよ。店は元々定休日だし。俺も心配だから車を出すよ」
「それじゃあお願い」
まさみはその夜は不安でよく寝れなかったが、晴人が義理の父である剛志のことをそこまで心配してくれていることに少し嬉しさを感じていた。
次の日、晴人はまさみを車に乗せて剛志が入院している病院に向かっていた。まさみは晴人が運転する車の中でひどく緊張していた。
「大したことないって言ってたけど、お父さんに何かあったらどうしよう……」
まさみは手を膝の上で固く握りしめていた。晴人は片方の手をまさみの手に重ねると、前を見て運転しながらまさみに話しかけた。
「大丈夫だよ。お母さんだって大したことないって言ってたんだろ? それならきっと大丈夫だよ」
晴人の言葉と温かい手にまさみの心が緩んでいくのを感じた。
「ありがとう……。なんだか晴人にそう言ってもらえると本当に大丈夫な気がする」
まさみは晴人の言葉に笑顔を浮かべた。晴人はまさみが昨日の夜から深刻な顔をしていたので、ようやく彼女の笑顔を見えたことに胸をなでおろした。
まさみと晴人が剛志の病室に入ると、剛志は老眼鏡を掛けて新聞を読んでいた。
「まさみ? どうしたんだ? 今日は会社だろ。しかも晴人君まで」
「お父さんが癌だって聞いたから会社を休んで会いに来たの。体は大丈夫なの? 」
「全然平気! 健康診断で癌が見つかったんだよ。早く見つかったからすぐに手術すれば大丈夫だって」
「よかった……」
まさみは安堵のあまり全身の力が抜けそうになった。
「わざわざ来てくれてありがとうな。晴人君も来てくれてありがとう」
妙子が剛志の病室に入ってきた。
「まさみ! あらぁ晴人君も来てくれたのねぇ。お店の方は大丈夫なの? 」
「大丈夫です。元々定休日なので」
「そうなの。お父さん! 環奈にも電話したらすぐに来てくれるって」
「大したことないって言っただろ。わざわざ環奈まで呼び寄せる必要はないよ」
そう言う剛志だが久しぶりに環奈と会えるのが嬉しいのか顔が綻んでいる。
「晴人くんお店の方はどうだ? 」
「お陰様でなんとか」
結婚してすぐの頃はどこか距離があった晴人と剛志だったが、一年も経つと二人だけで会話を楽しむようになった。二人は音楽が趣味で好きなバンドも一緒だったこともあり、二人は顔を合わせると音楽の話で盛り上がるようになっていた。今も二人が好きなバンドのニューアルバムの話をしている。
妙子は神妙な顔でまさみに話しかけた。
「まさみ。ちょっと話があるんだけど……」
「うん。いいよ」
「お父さん! まさみと喫茶店で話してくるから」
「おう。行ってらっしゃい」
妙子はまさみを病院に併設されている喫茶店に誘った。
「早めに癌が見つかって良かったわ」
「本当だね。手術はどんな感じになるの? 」
「早めに見つかったから胃の一部だけ取れば大丈夫みたい。まさみの時よりもすぐに退院できそうよ」
「そうなんだ」
いつもは陽気な妙子が珍しく気落ちしていた。体調をほとんど崩したことのない剛志が早めに見つかったとはいえ、癌と診断されてショックなのだろう。
「お父さん。気丈に振舞ってるけど本当は怖いと思うの。体が丈夫なことが取り柄で風邪一つひいたことのない人だから。手術だってしたことないはずよ……」
「そうだね……」
「お父さん。癌だってわかってからあんまり元気もないし、よく眠れていないみたいなの」
まさみが病室に入ると剛志はいつも通りに振舞っていたが、彼がどこか疲れているようにまさみは感じた。
「ねぇ。子供のこと真剣に考えてくれないかしら。お父さん、もし二人の間に子供が出来たらすごく喜ぶと思うし、安心すると思うの」
「またその話? 私たちはまだ子供のことは考えてないよ」
まさみは眉を顰めながらコーヒーを口にした。
「仕事が楽しいのは分かる。でも女の人にはタイムリミットがあるの。子供が欲しいって思っても中々子供が出来なかったりする。それなら少しでも若いうちに子供を産んだ方がいいと思う。それに私たちはまさみたちより早く死んじゃうから、そんな時に頼れるのは子供なのよ」
「分かってるよ。私もいつかは子供が欲しいと思ってる。でも今は二人だけの生活を楽しみたいと思ってるの」
まさみの頑な態度に妙子はどこか悲しそうな表情を浮かべた。
「分かったわ。でも少しだけ考えておいて」
妙子は先に戻ってるねと言って席を立った。妙子の姿が見えなくなると、まさみも立ち上がって剛志の病室に戻ろうとした。まさみは妙子に言った言葉に嘘はなかった。まさみもいつかは子供を産みたいと思っている。しかし晴人とは生体肝移植をするためにした契約結婚の関係であり、子供が欲しいとは彼に言えるはずがない。そんなことをまさみは考えていると誰かとぶつかった。
「すいません」
「いえ! 僕の方こそちゃんと見てなかったので」
まさみはぶつかった相手の顔を見ると、驚きで一瞬息が出来なくなった。
「颯太? 」
「まさみ? 久しぶりだね」
それはまさみの元婚約者の颯太だった。
「そうだね……」
颯太は付き合ってた頃と同じような優しい笑顔を彼女に向けている。
「元気そうで良かった」
「うん。ありがとう」
「病気は大丈夫? 移植はできたの?」
「うん。無事に移植できて病気ももう治ったよ」
「そっか……。良かった」
颯太は心から安心したようだった。まさみはあんな別れ方をしたのにこんなにも気にかけてくれている颯太に対して罪悪感を抱いた。
「でもどうして颯太が? 」
「だって僕が働いている病院だからね」
「そっか。すっかり忘れてたな」
剛志のことで頭がいっぱいでこの病院で颯太が働いていることを忘れていた。
「何かあったの? 」
「実はお父さんが入院してて……」
「お父さんが? 大丈夫なの? 」
「うん。大丈夫。手術すればすぐに退院できるみたい」
「良かったね」
「うん。ありがとう」
颯太はまさみの左手の薬指に指輪があることに気づいた。今までにこやかな笑顔を浮かべていた颯太の表情が強張った。
「結婚したんだね」
まさみは反射的に左手を隠した。
「うん……」
「おめでとう。お幸せに。お父さんの体が良くなるといいね」
颯太はそう言い終わるとまさみに背を向けて歩き出した。まさみは強張った颯太の表情を見て、彼と別れた時の光景が頭に蘇った。そしてまた颯太を傷つけてしまったと思った。まさみは彼に声を掛けようとしたが、何を言ったらいいのか分からなかった。彼女も同じように颯太に背を向けて歩き出した。しかし後ろを向いていたはずの颯太は振り返り、寂しげな目でまさみの背中を見つめていた。
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