命の値
星野 驟雨
果てなき理想へ
仄暗い牢の中で痩せこけた奴隷が古びれた机に向かっている。
格子のはめられた窓からは月の光が差し込んで、辺りに撒き散らされた紙を浮き彫りにする。それは光に焼かれた原稿用紙であった。
奴隷はこの場所で書き続けている。
この者に課せられた役割は、書くことだった。
そして、それがこの者の命の値段だった。
いつから此処にいるのかすら忘れてしまった。
麗らかな昼下がり、世界は逆さまになってしまった。
気が付いた時にはこの場所にいて、声だけの男に書かされ続けている。
最初のうちは、書いているのが楽しかった。
何も気にせず、好きな物語を書いた。だが、それらはカタチにしないからこそ美しく夢を見せてくれていた。夢とは語るに荒唐無稽で、自分だけの所有物だったのだと、沁みのついた紙の山を見て思う。
この場所は寒い。穴倉のような冷ややかさと誰とも会話しない虚しさ、積み上がる夢だったモノが私を蝕んでいく。
その現実を生きる為に私は作品を書いた。書いているときは、身体が熱くなって自分が寒さの中にいることを忘れていられるのだ。
まあ、それはあくまで書いている間だけの話だ。
この場所に陽光の恵みは届かない。届いたとしても、見上げた場所にある小さな窓から降り注ぐ程度。その光の貧しさに、私は、自分がその世界にはいないものだと考えるようにした。
私がこの瞬間もこの場所にいるということは、声の男に今までの作品を一つも認められなかったということだ。
その男に完成した旨を伝えると、のちに結果が知らされる。
それがこの小さな牢獄の日常だった。
昔、連れてこられた当初、一度だけ聞いたことがある。
仮に、お前の眼鏡にかなう作品を書き上げたならどうなるのか、と。
男は、解放することを約束しようと言った。
奴が私と会話したのはその一回きりだった。
それきり、すべての声は一方通行で、私の問いになど応えてはくれない。
もはや私の命はどれほど持つかわからない。
あれやこれやと、様々なことをした。
背後に出来た山、その中に、沁みのある干からびた原稿用紙がある。
それは干からびた言葉に血を通わせようと、自分の血を垂らしたものだ。
替えの万年筆を利き手ではない左の腕に突き刺した。鈍い痛みが震えを招いたが、それでも引き返せずに右腕を思い切り噛みしめて堪えた。結果としてできたのがゴミだ。
それで死ねばよかったと思うかもしれない。
でも私は死ねなかった。この部屋が密室だったならそんなこともあっただろうに、あの小さな接点が私の希望だったのだ。
此処が世界の中に存在しているということが、あの場所に帰れるかもしれないという私の力になっていた。もっとも、私が女々しいのもあるが。
他には、眠っている間に見た不思議な夢を書きつけたこともある。
それも言葉にした時点で偽物になってしまうことを少し後に知った。
今思えば狂気だった。自虐的な笑いを浮かべるが、心の底から笑えない。
この現実と直面している限り、私は人としては生きられないのだろう。
朝日が昇るとともに窓から投げ込まれる3斤のパンと本一冊、牢の中の古びた蛇口から出る水が私を生かしていた。7つほど朝を迎えた時、たまにサラダが牢の外に置かれていることもあるから、それだけというのは言い過ぎかもしれない。
だが、あまりにも人間的ではない。
こんな生活で自信は既に打ち砕かれて、外に向かうべき感情は自分に向けられる。
それでも書き続けなければ何も変わらないと縋るようにしている。
これが私の日常だ。書けないという焦りはもうなくなった。
あったとしても、そんなことに気を割けるほど私は裕福ではない。
自分が書きたいと、楽しいと思う作品を思い出しても、遠く果てしない何処かに存在していて、この薄汚れた両腕で近づくことが恐ろしい。
世界がどんどんと収縮して、その圧迫で呼吸が苦しい。
卑屈な人間だと笑ってくれ、私は人間ですらない。
それでも、まだ命は消えていない。
本当は、何処までも人間らしく居たいのだ。
『希望を捨てた時、人は死ぬ』という言葉を小説に書いたこともある。
そこに転がっている亡骸が、私を奮わせるのだ。
諦めながらにして、まだ終わりではないと闘い続けている。
書き込んだ物語に、言葉たちに、私は生かされている。
『明日はまだ誰も知らない。その本当の名前は今という。
顧みることのない今この瞬間こそが、私たちの欲する希望なのだ』
『人間というものを語るには、僕の人生ではおさまらない。
おそらく人類が文字を使い始めたその当初より考えなければならない。
そこに想いを馳せ、経験知さえも動員して生を求めるのが人間だからだ』
『これは私の我儘と聞いてほしい。ただ君だけに知ってほしいことだ。
私は君に夢を見ていた。これまでを振り返るに、恋と呼ぶには悲しすぎる。
愛と呼ぶにも苦すぎる。だから夢と名付けたいのだ。
そして、君の人生の一部を垣間見れることを幸せだと思う』
『人の命に値段をつけるとしたら、君はどうする。
――少なくとも、僕はカタチに残る何かだとは思わない』
嗚呼、思い返せば捨てられたすべては希望にあふれていた。
私はこの場所で希望を求めていたのだ。
どれほどの絶望の最中にあっても、それだけは書き続けていた。
私はまだ生きていられる。まだ、書いていられる。
痛みと心中しながらも、時折零れる本心が私に命を吹き込む。
見上げた窓から漏れ出した月光は、いつもより優しく感じられた。
命の値 星野 驟雨 @Tetsu
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