第六幕 ミスミミミと葉月弥生 (4)

「これが、異界に行くってやつですか?」

 ミスがいたはずの空間を見て呟くと、

「そ、普段半々の感覚を、あの子は今あっちに多く振ってるの」

 そんな話をしていると、すぐにミスは戻ってきた。大きな黒い影を連れて。

 透史には、それが先ほどと全く同じものに見えたが、

「主様、お久しぶりです」

 裸眼の皆子がそう頭を垂れるから、本物だということがわかった。

『世話になったな』

 どこからか、鼓膜以外の感覚器官で聞こえる音がする。主様の言葉なのだろう。

「いいえ。仕事ですから」

 いつの間にかきちんと立ち上がっていた潤一が答える。

 それから主様がこちらに視線を変えた、気がした。ドキッとする。

『……戻らぬか』

 それは主様からの弥生への問いのようだ、

 弥生は、小さくて、震える声で、それでも、

「戻りません」

 告げる。それから、早口で、言い訳するように、

「だって、あたしはちゃんと学生として卒業したいし、透史君のことが好きだし、部誌ももっと作らないといけないし、文芸部はあたしがいないと廃部の危機だし」

『だから戻らぬか』

 並べ立てられた言い訳をさえぎる。弥生は力強く頷いた。

「はい。それで消されるならば、それでも構いません」

「ちょっ、弥生」

 思わず声をあげる。消えるってそんな……。

 弥生は透史を安心させるかのように少し微笑みかけると、

「例え消されることになっても、あたしは、自分からこの立場を捨てたくありません」

 しっかりと告げる。

「これまでもあたしは、招かれざる生徒としてこの学校にいました。でも、ここまでしっかりと、一人の生徒として学校に通うのは初めてで。それは、さっきミスたちが言っていた、異界との近郊が崩れたことに起因するもので、偶然なんだとは思うんですけど。だからこそ、大切にしたいんです。もう二度とないかもしれないから。そして、葉月弥生という名前は、あたしが初めて手に入れた、あたしだけのものですから」

 透史は皆子、潤一、ミスを見回す。弥生の話を聞いて、どう受け取ったのかが気になって。皆子は腕を組んで、透史の視線に気づくと少しおどけたように笑ってみせた。潤一は唇を真一文に結んでいた。ミスは痛みをこらえるかのように頭を抑えていたが、透史の視線に気づくと、小さく、本当に小さく、笑った。

『人の子よ』

 主様が言う。それが自分への呼びかけだと、透史が理解するには少し時間がかかった。

「あ、はい」

『これが今後も、人としてやっていけると思うのか?』

 透史は弥生を見る。彼の知っている弥生は、明るくて、優しくて、決して人を傷つけるような人ではなかった。

「はい」

 だから透史は素直に頷く。

『怪異だが?』

「その、よくわかりませんけど、怪異としての力は殆どないって聞きました。それに、屋上さんは恋を叶えるぐらいの能力がないっていう話ですし。ならば、人に害を加えることもないのでは?」

『その辺り、どうなんだね。生咲の姫』

 問われて皆子は少し首を傾げ、

「怪異としての力が殆どないっていうのと、まったくゼロは違いますし。この子が本気になれば、透史くん一人ぐらいだったら、簡単に呪い殺すこともできるかと。悪霊化の危険もゼロとはいいませんし」

「あたし、そんなことしないっ!」

 弥生が怒ったように叫ぶ。

「可能性の問題だって」

 皆子が肩をすくめる。

「俺、一人ぐらいなんですか?」

「そうねー、そんなに広範囲にどうこうはできないと思うけど?」

「だったら、なんの問題もないじゃないですか」

 透史は主様を見る。

「可能性の問題ならば、人は人一人ぐらい、呪いでなくても殺せます」

 あらあら、と楽しそうに皆子が呟くのが聞こえた。

「あたし、殺さない!」

「わかってるよ」

 弥生の言葉に微笑んでみせる。

「素手がナイフになったぐらいで、そんなに驚くことじゃないと思います。大事なのは人に殺意を抱くかどうか、それを実行するかどうかで。そういう意味では、弥生が誰かを殺す理由もないし、それを実行するとも思えません」

 それを言うなら今もまた、なんだか苦々しい顔をしている潤一の方が、よっぽど透史を殺しそうである。

 透史が答えると、主様の影が少し震える。

「笑ってる……」

 弥生が小さく呟くから、それが笑っているのだと透史にはわかった。

『なるほど、面白いな、人の子』

 どこか笑いを含んだ声で、そんな風に言われても困ってしまう。

『卒業、できればいいのだな?』

 今度は弥生に問いかける。弥生は一つ頷いた。

「この学校から外には出られないし、元はこの学校だから進学とか無理だし、でも、卒業はしたいです。三年間、ちゃんと通いたい」

『そうか、ならば、卒業するまではいいだろう。卒業したら、一度こちらに戻って来なさい。そして元の、曖昧な学校の七不思議に戻りなさい』

「いいんですか!」

 弥生よりも先に透史が声をあげる。

「ありがとうございます」

 弥生が頭を下げた。

「随分と、甘いんですね」

 揶揄するように言ったのは潤一だった。

 この、せっかくまとまりかけていたところを! 思わず横目で睨む。

『不満か、生咲の王子』

「ええ、僅かに」

 潤一が首肯する。

『生咲の姫は?』

「主様のお心のままに」

『蛇の姫は?』

 問われてミスは、

「わたしは既に、見逃そうとしましたから」

 俯きがちに答える。

『圧倒的少数派だぞ、生咲の王子』

 言われて潤一は、溜息を一つ。

「じゃあ、マイノリティは譲ります。ただ、おれが反対したことは覚えていてくださいね、今後なにかがあった時のために」

『ふむ、わかった』

「あ、あの、潤一さん。ありがとうございます」

 透史が頭をさげると、潤一は、

「きみのためじゃない」

 冷たく答えた。

『生咲の姫』

「なんでしょう?」

『この者の、怪異としての力を封じることはできるか? それから、学校からでて、外にもいけるようにすることは?』

「卒業するまででいいんですよね」

『ああ』

「高いですよ?」

『構わない』

 皆子はその答えに小さく笑うと、弥生に近づいた。その裸眼で、千里眼で弥生をみて、小さく何かを呟きながら、手を動かす。

「これで、怪異としての力は封じることができました。学校から出る件については、ジュンに頼んでください」

 潤一に全員の視線が集まる。皆に見られて、この場で唯一の少数派は、

「……わかりました。なにか、外に出られるような、怪異の力の代わりになるお守りでもつくればいいんですね」

 しぶしぶと言った体で頷いた。

『よろしく頼む』

「あの、それじゃあ、弥生、外に出られるようになるんですか?」

『ああ』

 それを聞いて透史は、

「よかったぁ……」

 思わず、心の底から呟いた。

「じゃあ、修学旅行も行けるね」

 笑顔を浮かべて弥生を見る。

「……あれ?」

 弥生はもとより、その場の全員が不思議な顔をして透史を見ていた。

「あ、あれ? 俺、なんか違うこといいました?」

 何か勘違いをしていただろうか。そういう話じゃなかった? 慌てて全員の顔を見回す。

「透史くんは」

 その場を代表して皆子が呟く。

「面白い子ねー」

 それに全員が、それぞれのやり方で頷いた。意味が分からずに思わず変な顔になる。

『ふむ、まあ、そういうわけでな』

 主様が口を開く。

『今回の依頼は完了ということで。感謝する、蛇の姫』

「あ、いえ」

『生咲の姫、今回のことは無かったことにした方がいいかね?』

「ああ、そうしていただけると助かります。正直、事後処理めんどくさそうなので」

『わかった。ならば、そのようにしておく。あとは頼んだ』

 そう言って、主様の黒い影は消える。威圧感が消えて、少し透史は安堵の息を吐いた。

「じゃあ、貴方のお守り、今度持ってくるから、それまで学校に居てくれる?」

 皆子に問われて弥生が頷く。

「あの、ありがとうございます」

「いいのよ、別に。主様に貸しができたのなら、こっちとしてもプラスだしね」

 微笑むと、皆子は眼鏡をかけた。

「とりあえず、透史くん、今日は授業にならないだろうし、お家に帰れる?」

「あ、はい」

 頷き、歩こうとするが、今更ながら足が震える。

「……ちょっと、落ち着いたら帰ります」

 腰を下ろし、告げた。皆子がくすりと笑うと頷いた。

「ジュンとミィも帰りましょう」

 そうして底冷えする声で、

「ミィ、帰ったらわかってるわよね?」

「いろいろあったけど、そもそもミィが勝手したこと、忘れてないからな」

 ミスはそれから視線を逸らした。

「またね、透史くん」

 それだけいうと、さっさと皆子は屋上を後にする。そのあとをミスと潤一が続く。

 ミスは一度透史を見ると何かを言いたげに口を開き、結局そのまま何も言わなかった。

 三人がいなくなると、透史は、

「あー」

 大の字に倒れ込む。

「つかれたー」

 もう、なにがなんだかわからない。

「あの、透史君」

 弥生が顔を覗き込んでくる。

「ごめんなさい」

 四月からずっと見てきた弥生の顔。それがここにあることに少し安堵すると、

「クリスマスさ」

 透史は笑った。

「二人でどっかに行かない? せっかく外に出れるのなら、デートしよう?」

 弥生はしばらく黙って透史を見ていたが、

「うん」

 泣きそうな、それでもとびきりの笑顔で頷いた。

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