第17話 リップガール誕生の秘密 その2

 ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ。

 シズルは荒い息を出しては吸い、心臓は早鐘のように鳴った。

 と、急に息ができなくなる。過呼吸というやつだ。ショック状態に陥ったシズルではあるが、薄れゆく意識の中で、ケンジの端正な顔立ちをしっかりと確認する。


 近い……あたしは、王子様の、腕の中……物心ついてから、この日を夢見て……

それが今、目の前でやっと……もう死……!! ぐおー! 死んでたまるかあぁぁ!


 シズルは冥界めいかいの入口から、はいずり出た。途中、川を泳いでいたが、本人は分かっていないようだ。

 深呼吸したシズルは、改めて状況を把握する。まだ王子様の腕の中だ。

 そおっとケンジの様子をうかがうと、ケンジの近すぎる顔がそこにあった。


 ああ、しあわせ……もう……死んでも、ちがーう! この、宝くじに当たったような奇跡を、離してなるものかあ!


 とはいえ、なにをどうすればいいのか、経験値ゼロのシズルには成すすべがない。ただただ、ケンジを見つめ返して思った。


 こんなことって、あるのだろうか。夢に見た王子様そのままじゃないですか。理想形じゃないですか。昨日、おばあさんに席を譲ったのがよかったのかしら。


 「病院へ行きましょう!」


 ケンジはシズルをお姫様抱っこした。


 ひー! お姫様抱っこ、王子様にしてもらった。白馬いないけど最高ね! ああ、柑橘系のいい匂い。あたし、抱かれてるのね……てか、病院は大袈裟おおげさ


 「あの、大丈夫です。すみません、ありがとうございます」

 「そーですか?」


 ケンジは無造作にシズルを下ろした。


 あっ……もうちょっと抱っこして欲しかったな。

 「大丈夫ですか? よくあるんですか、こういうの」

 「ええ、はい、貧血気味なもので……」


 健康優良児だった。風邪もめったにひかないシズルである。



 次の日。再びその場所にシズルはやってきた。

 無地の白いTシャツにジーパン、それが休日の定番スタイル。外見を気にせず、オシャレとも縁遠いシズルが、今日はピンクのワンピースにストローハット、大量のリップクリームであろうか、濡れているようになめらかな唇だ。

 だが、動きがない。棒立ちという表現がぴったりの彼女であった。


 い、いたのね。王子様。

 「やあ! こんにちわ」

 「コ、コニチワー」


 固い、それじゃカタコト日本語だ。そして棒立ちのままピクリとも動かない。

 まるで案山子かかしのようではないか。


 「ああ、ごめんね。さあ、どうぞ指定席へ」


 ケンジは自分の場所をわずかにずらして、手招きした。


 へ? そこ? 近いんですけど……

 「アリガト、ゴザマス」


 ぎこちなく手足を動かした彼女は、ケンジと目を合わせようとせずに無表情で近づいていく。そして三メートルほど離れたところで座椅子をセットして座った。

 木陰からはみ出たそこは、直射日光が降り注ぐ。シズルの首筋から汗がにじんだ。


 「そこじゃ、暑いでしょう?」

 「ハッ、ドウモ、ドウゾ、オカマイナク」

 「……嫌われちゃったかな、ごめん、俺は帰るから、ここに来てください。木陰はすずしいですよ」


 ケンジは立ち上がって片づけ始めた。


 あうぅぅ、違います、誤解です。あたしがヘタレなだけで、嫌うなんて……


 シズルは目にもとまらぬ早業でケンジの隣にやってきて座椅子を広げて座った。


 「おおっ! びっくりした」

 「誤解です! 嫌ってなんかいません! 慣れてないだけですから!」

 言っちゃってる! どうしたのよ、あたし

 「……そうですか?」

 そうだ、まずはお礼から

 「昨日はありがとうございました」

 「いえいえ、俺は何も、あれから気分良くなりました?」

 「はい。お世話かけました。ご心配には及びませんので、お気遣いなく」

 なによ、この返答。得意先じゃないんだからね、かわいくないな。

 「はい……ごめんなさい」

 え? なんで? 高飛車だった? うう、男との会話が苦手だ。

 「どうして謝るのですか? 心配していただいて、うれしゅうございますわ」

 なんでお嬢言葉? 典型的な町娘のあたしが。昨日読んだ小説が悪かったか?

 「いや、急だったんで、触ったり、抱っこしたり、セクハラにならないかと」


 シズルは思い出して頬を赤く染めた。


 それが、至福のひとときでした。夢よ、もう一度。

 「気分が悪くなった、あたしが悪くて、気にしませんから」

 うれしかったんです。こんなこと思う私は、ふしだらでしょうか?

 「よかった。最近は色々気を使うんで、まずかったかなって思っちゃって。そうだ、あの、君の名は? なんちゃって」

 「……シズルといいます」

 「俺はケンジです。名字みょうじはお互いいいですよね? シズルさん」

 「はい……ケンジさん」


 そんなことがきっかけで、特に約束はせずに、二人は休日のたびに同じ場所で会うようになった。

 一人だと饒舌なシズルも、ケンジの前ではほとんど会話をしないで風景画を描いた。心は上の空であったが。

 時々ケンジは冗談を言ってはシズルを笑わせた。そして、沈黙が流れる。そばにケンジがいる事を意識している自分が、心地いいと思うシズルであった。


 (リップガール誕生の秘密 その3 へ、つづく)


 

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