第44話「水源地への道のり」
きつい。
脚がすっかり棒のようになってしばらく経つ。坂道、段差、そういうものたちが私の体力に対してひっきりなしの挑戦を続けてくる。力学によれば、高度の増加を伴う運動には余分の
気持ちだけは立派だけど体は言うことを聞いてくれない。ついに私は路面の出っ張りにつまずいてしまった。まずい、と思う間にも地面が近付いてくる。その瞬間、私は抱きかかえられて難を逃れた。
「流石に誤魔化せていませんよ。ほら、観念してください」
心配している以上に私の世話を焼けて嬉しいという声だ。素直になってくれたことは嬉しいんだけどなあ。今度はこっちが素直に喜べない。とはいえ目的地まではまだある。休憩ばかりもしていられない。日が落ちれば山賊の危険だってあるんだから。
「降参、降参。煮るなり焼くなり好きにしてください」
屈辱。アトミールの胸の中で心地よい敗北感に包まれながら、事の発端を思い返した。
フェリは離れにやってくるなり早足で広間の卓に歩み寄り、持ってきた紙束を広げた。紙面一杯に描かれた地図の一点を差すと、手柄を誇るように胸を張る。
「調整が付いたわ。手始めはここ、レニ・アストーシィよ」
アストーセの南、川を遡上した先、山間の村といった風情のところだ。
「このあたりはアストーセ直轄地なんだけど……。管理が行き届いていないあたりなんだわ。あの辺りの山間部の管理は閑職扱いだから碌な人材が当てられないから……。直轄行政部の連中に打診したら大喜びよ。体よく様子見の人間を送り込めるんだもの」
能力のない人を重要度の低い職に付けて放置しておく。中央や地方監部、大規模な行政区にはそういう話があるんだそうだ。余裕があっていいな。ヒンチリフみたいに人が少ないところだと事務能力ぽんこつな私でも一人前の仕事が求められ――いや、この考え方はみじめになるだけだからやめておこう。
「保持していて利益がないなら、どうして直轄地など? 適当な領主にでも譲ればよいのではないですか」
アトミールの質問にフェリは苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「アストーセの水源地を余所任せにするわけにはいかなくてよ。けれど、逆に言えば従順でさえあれば務まると見なされているから……。南方水源直轄行政区長は無能の席とされていて、現任も例に漏れない無能な男。政務は殆ど下僚に丸投げ。自分自身はアストーセから一歩も出たくないらしいわ。でも、立場を失いたくはない忠誠心だけはある。まあ、よくいる部類の男よ」
思ったより凄かった。私は少なくとも現場に出ようとはしてたもんね。うん、私、えらいぞ。
「そういうわけで、直轄地の中でも最奥にあたるこの村の様子を見に行って欲しい。名目は『アストーセにおける水源管理状況の視察』。ヒンチリフは水資源では結構苦労しているんでしょう?」
山がちな半島で、降った水はあっという間に流れてしまうという意味では、確かにそう。井戸を掘っても海水だったりするし。なるほど、筋は通っている。
「高地にあることは受信設備にとっても好都合です。管理が不十分なら発見も遅れるでしょう」
今思えばあのときのフェリは随分いい笑顔をしていた。いたずらを思いついた子供みたいに。担当官も来たがらないわけだ。車の通れない山道を延々歩かされるのだから。それは嫌にもなるだろう。
「フェリめーっ」
「素敵な笑顔でしたね」
アトミールが苦笑する。
「苦しいのはわかるんだけどね」
「苦しいのですか? 笑っていましたが」
「苦しくたってフェリは笑うよ。あれは強がりだから。他の部署にとって都合の良い形でしか要求を通せなかったっていうのは、あの子にとって苦しいことだと思うよ」
フェリは苦しいときこそ笑うのが強い人間だと思っている節がある。フェリが笑っているときは口元の感じをよく見てやると心からの笑いか強がりからの笑いかの区別がつく。いや、待てよ。今思い返すと――。
「……四分の一くらいはホントに面白がってた気がしてきた」
おのれフェリエス・ノアラ。帰還の暁にはたっぷり茶飲み話の話題を提供してくれる。
思い直して辺りの景色を見る。長身のアトミールに抱きかかえられて視線が高いということもあって、眺めは無類だ。足下には雄大なアストーセ川の流れ。視線を遠方に転じればアストーセの幾何学的な都市と尋海の大水が霞んで見える。アミリス隧道南の四号遺跡から見た景色に似ているけれど、街道沿いの人家はよりまばらだ。通商の大動脈に沿った景色と水源地までの道のり程度の役割しかない街道の違いだろう。
より近場に目を向ける。路面は特に舗装されることもなく、獣道の上等な物という風情だ。ヒンチリフでは見かけない種類の草花も多い。あ、この青い花綺麗だな、なんて思っていたらアトミールが私を地面に降ろしてくれた。脚は大分楽になっている。
「ありがとう。ちょうど気になってたんだ」
伸びた私の手をアトミールが遮る。
「そうではありません。前方から誰か来ます。三人。一人が追われているようです」
剣の柄に手を添えて道の向こうを睨んだ。やがて、遠くから男たちの怒鳴り声のようなものが聞こえてくる。
お尻が何か柔らかい物に触れた。思わず後ずさって、アトミールの体に触れたらしい。
「私がいます」
アトミールの声。さらわれたときのことを思うと足が竦むけれど……。でも、彼女の落ち着いた声が私を安心させてくれた。
「追われてる人を保護する。事情を聞く。事情次第で行動を決める。これでいいかな」
「狂言の可能性はあります。追跡を受けている人物はおそらく我々の背後に立つでしょう。容易に挟撃できます」
ティンさんみたいに、ということかな。胸がちくりと痛む。でも。
「構わない。追われてる人には十分後ろに下がってもらって、アトミールは私の後ろ。これなら万が一にも大丈夫でしょ」
「それでは追跡者への対応が限定されます。クロエさんが危険ですよ」
もっともな意見。でも――。
「信じてるから」
本当に危なくなったら彼女に頼ろう。きっとアトミールは期待に応えてくれる。
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