第28話「夢を見る日」
顔の見えない大勢が私を取り囲んでいる。なんということをしでかしたのだ、なんと軽はずみな。飛び交う非難の声。封の開いた金属の箱を抱えた私は、ただ背中を丸めて耐えることしかできなかった。いつしか人々は私に迫り、その手が身体にまとわりつく。手が、手が――。
頭蓋にごつんと衝撃が走った。視界に散る星。鈍痛と共に世界がひっくり返る。
「申し訳ありません。あまりに不意だったものですから」
懐かしい声が頭上から聞こえた。見上げれば、懐かしい深紅の双眸が私を見下ろしている。
おかしい。いくら何でもおかしい。あまりにちぐはぐだ。辱めに耐えていたはずの私は、柔らかなものの上に膝を伸ばして座り、人肌の温もりの残るふかふかとしたものを抱きしめている。そんな私を、懐かしい深紅の
「ゆ……め……?」
跳ね起きて、彼女に頭をぶつけたらしかった。まだなんだかくらくらする。
「ひどくうなされていました。何か辛い夢を見ていたのですか」
曖昧に相槌を返す。どんな夢を見ていたかというところまで話す必要はないだろう。思い出そうとするだけで身体が竦むから。
「ご自分が誰かはわかりますか?」
「私は、クロエラエール・ヒンチリフ。ヒンチリフ家の二女。三等地方政務官」
不思議な質問に答えながら、私は自分の身に降りかかったことを思い出そうとする。この世の物とは思えない経験をして、混乱した状態でアトミールに救われた。
「アトミールが来てくれたところまでは……覚えてるんだけど。その後はどうなったの」
「フェリエスさんが率いた地方監部の戦力が誘拐者たちを制圧しました。私はクロエさんを保護しましたが、意識が朦朧としていて。幾つかの受け答えから、非常に外部から影響を受けやすい状態になっていると推定しました。このまま働きかけた場合、クロエさんの人格に不可逆的な影響を与える可能性すらあると判断したため、一旦最優先でこの邸宅まで輸送し、眠って頂きました」
「そうだ! 私、何か薬を使われてああなったの」
「地下室に容器が残存していたため、フェリエスさんの方で調査があったようです。幻覚剤の一種のようですね。殆ど市場には出回っておらず、特殊なルートで流通しているものだとか。依存性も毒性も低いようです。少なくとも――いえ、何でもありません」
「少なくとも?」
「急性症状に関しては、です。長期的な影響に関して、現代の知識で把握することは困難ですから。医薬品データベースでもあれば私が識別できたかもしれませんが、あいにく保存されていませんから」
「怖いこと言わないでよお……って、聞いたのは私だったね。ごめん」
こういう身勝手さが彼女を憤らせたのだったな、と思い出して視線を落とす。私の手元は、窓から差し込む橙色の光によって暖色に染まっていた。
「そんな風に顔色を窺う必要はありませんよ。私が信頼しているのは、クロエさんの傲慢さなんですから」
思いもよらない言葉に思わず彼女の顔を見た。穏やかな微笑み。変だ。アトミールがこんな言い方をしたことあったっけ。
「……けなしてる?」
「褒めています。クロエさんに対して皮肉などという迂遠な意思伝達の方法を取る必要性を感じません」
どんな顔をしたら良いか迷っていたら、彼女が破顔した。
「人類というのは本当に勇敢です。あまりにも限られた計算資源と、あまりにも不安定な記憶装置、あまりにも限られた観測系で、どうしてそんなに大胆な行動が取れるんでしょうか。私は気がつきました。色々な論理によって選択権をクロエさんに委ねていたことは単に、無数ある解候補からただ一つを選び取ることを恐れていたに過ぎないのだと」
心の底から笑う彼女は眩しくて暖かい。それはまるで、厚く垂れ込めていた雲が割けて差し込む陽光のような。その輝きに目を細めながらも、私は胸の中に湧き出た疑問を口にせずにはいられなかった。
「でも、規約……? みたいなのがあるんじゃなかったっけ。守らなきゃいけないからって言ってたよね」
「確かに私は規約に関して説明をしました。しかし、あのとき説明したとおり、それは草稿に過ぎないものです。拘束力を持つものではありませんし、よしんば有効だとしても、私は
まじまじと私を見つめてくるものだから、なんだか頬が熱くなってきた。ごめんね。口を挟んで。
「そしてクロエさんは単に勇敢なだけではありません。今の自分、今の世界。そういうものにとらわれないで、本来ならどうあるべきなのかを考えている」
自覚はある。自分や一族が有利であるためにどうすべきか、だとか、世界がこうなっているから、人はこうあるべき、だとか。そういう考え方は苦手だ。もっと地に足のつかないところから、本当はこうだったらいいのにな、ということばかりを考えている。でも。
「空想的なだけだよ。そういうことなら、フェリの方がもっとずっと真面目に考えて行動してる。思うだけで、結局身分に甘えちゃってるしね」
「極端な言及をします。私はクロエさんに世界を変えるだとか、世の人が認める人格者であるだとか、そんなことは期待していません。私にとって信頼できる
胸を刺されたかと思った。パートナー。言葉の響きに心臓が爆発しかけたけれど、古い辞書に書いてある意味を思い出してかろうじて踏みとどまった。そうだ、そうだ。元々は仲間とか、そういう意味があったらしい。恋人みたいな意味で言ったつもりじゃないはずだ、たぶん。
「そんなに……私が……ふさわしいのかな。その……パート……仲間……に?」
「仲間ではありません。もっと特権的な存在です。私が行動を選択するとき、あるいは行動を終えた後、評価の参照先として最も重視すべき存在として、クロエさんは重要だと考えています」
良かった。愛の告白じゃなかった。別にアトミールのことが嫌いとか、彼女とは嫌だとかじゃないけど、そういうのはもっと順序とかがあると思うし……。同性っていうのも結構難しい気がするし……。いや、でも今の胸の高鳴りは……。ぶるぶる。頭を振る。いずれにしたって、彼女が求めているのはそうではなかったわけじゃないか。これ以上変なことを考えてもドキドキするだけ。やめやめ。
ふと冷静になる。これはこれで大変な告白じゃない? つまり、人生で一番信頼する相手として私を選んだ、と彼女は言っているのだ。私の戸惑いを見て取ってか、彼女は腰を落として、ベッドに座る私と目線を揃えた。
「これは、使用者・被使用無人機という従前の単純な関係を破棄し、新たな関係を構築する提案です。私が一方的に宣言することはできません。クロエさんは、この提案を承諾されますか? 承諾くだされば、私はクロエさんが適切な参照先である限りにおいて、全能力をもってあなたをお助けします」
アトミールらしいな、と思った。前提条件を言わずにはいられない。公正な形を取らずにはいられない。でも、私にはまだ、聞かなくてはいけないことがある。
「アトミールは、どうしてそうしたいの。私のため? それとも世界のため?」
意地悪な聞き方だと自分でも思う。でも、今だけは許して。アトミール。
「
私の目前に、彼女の右手が差し出された。白く繊細で絹のような、けれど鋼の強さを持つ彼女の手が。
「お願いします。承諾してくださいますか」
ここまで言われて引き下がったならクロエラエール・ヒンチリフの名が廃る。迷ってなんかいられない。私はありったけの力で差し出された力を握った。
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