第2部「立ちはだかる世界」

第1章「新たな日々」

第29話「アストーセより冥い街」

 今朝はアトミールもティンさんも所用で不在。私は離れで一人きりだ。朝食を摂って本を読み、お昼を食べては旅の記録を取り、時は流れていく。昼過ぎの会議まではもう少しだ。記録することも尽きて、次にすることを考え始めたとき、階下から声がした。

「クロエさーん! 食堂まで来てくれませんか!」

 アトミールの弾んだ声だ。手帳を閉じて、私は小さく伸びをする。足早に部屋から飛び出し、階段を駆け降りる。仄かに甘い砂糖と穀物の香りが鼻腔をくすぐった。

「お待たせ! ……わあ!」

 食卓は黄金色に輝いていた。星を象ったもの、真ん中に穴の空いたもの、硬いものと柔らかいもの。沢山の焼き菓子が皿に敷き詰められている。

「いかがですか。厨房をお借りしまして、作ってみたんです」

「もう。ちょっと散歩になんて言って。こっそりこんなことお……食べていいの」

 笑顔で頷く彼女に促されるまま、私は端っこの一つ、格子模様のものを口に放り込んだ。

 小気味よい歯ごたえ、どこかに混じるほろ苦さが、主役である柑橘の香りと砂糖の甘みを引き立てている。

「美味しいよ。一人で作ったの!?」

 嬉しそうにはにかんで答える。

「いえ、厨房の方に教えて頂いたんです。何か――新しいことをしてみたかったものですから」

 最近の彼女は持ち前の好奇心の強さを解き放ったようだった。今まで誰かのためという理由がなければできなかったことを、自分のために自分で決めてやることができるようになったのだ。それはとっても素敵なこと。だけど――。それは、ちょうどこのお菓子のような味。うれしさの中に混じる一抹の寂しさを噛みしめる。

 毎日のようにどこかへ出かけては、何か新しいものを得て帰ってくる。一昨日は剣術についてノアラ家の武官から、昨日は分堡まで送ってくれた船頭について、船の取扱について習ってきたらしい。一を聞いて十も百も理解する彼女には、教える側も楽しいようだ。もちろん、謝礼は私やノアラ家からきちんと出る。

 フェリが侍女のアーデラさんを伴ってやってきた。折り目正しく食卓の前までやってきて、アトミールの傑作に目を留める。

「あら、アトミール。これが例の? すごい出来じゃない。貰っていい?」

「喜んで」

 フェリは懐紙を取り出して楕円形のお菓子を挟んでひとかじりした。一瞬細められた鋭い目がまん丸に開かれる。

「確かに、うちの味。よくここまで再現したものね。ほら、ピルナ、あなたも食べなさい」

 後ろに控えていたアーデラさんが、これまた洗練された身のこなしでお菓子を平らげる。

「素晴らしいお味と存じます」

「料理長が作っているのを観察させていただきました。分量と工程はその完全な再現に過ぎません」

 当たり前のように言っているけれど、人間にできることではない。

「普通はそれに何年もかかるって聞いてるけどね……。流石だわ」

「ありがとうございます。ですが、私は与えられたもの・・・・・・・を使っているだけですから。レシピと手技を作り上げられた方にこそ賛辞は向けられるべきだと思います」

「そう。料理長に伝えておくわ」

 フェリは愉快そうに頬を緩めると、おもむろに席へとついた。

「残りはティンさんが来てからだね」

 私もフェリの向かいに座り、アトミールも続く。

「アトミールは食べたの?」

「はい。といっても、私には皆さんと比較可能な形での味覚はありませんから、お口に合うか心配でした」

「味は私たちが保証する。一人でここまでできるなんて。私、料理はリミーに任せっきりだったもんなあ。こういう丁寧な料理は全然。今度、教えてね」

 和気藹々と午後のひとときを楽しんでいると、ティンさんが帰ってきた。

「お待たせしました」

 残る席へいそいそと向かう彼女の様子はなんだかいつもと違う。どうしたのかなと注目していると、椅子を引くとき椅子の脚が靴に当たった。

「ほら、これ。アトミールが焼いたんだよ。ティンさんも食べて」

「えっ。あ、ああ……これですか。ありがとうございます。頂きます」

 やっぱりおかしい。でも、これ以上踏み込んで何かあったか尋ねるのもぶしつけな気がする。

「それじゃ、全員集まったわね。私が調べたことを説明するわ。準備はいい?」

 迷っている間に話題が次へ進んでしまった。うう、私ってば瞬発力がない。

 手元の書き付けに目を落としながら、フェリは調査結果を滔々と説明し始めた。

「先日の誘拐事件を直接実行したのは黒無花果というこの辺の、まあ、碌な奴らじゃないわね。あんまり詳しい話はできないんだけど、昔は地方監部が便利に使っていた連中って話。ったく、これだから大事の前に小事みたいなお為ごかしを碌な覚悟もせずに言う奴は嫌いなの。……話が逸れた。北辺帝国と連邦との間の雪融けで後ろ盾を失った黒無花果は、新しい後ろ盾を見つけたの。それがエータ」

 背筋に冷たい汗が流れた。エータといえば、謎めいた神を奉じることで知られる人たちだ。独自の信仰を持っている人たちで、常に信仰を隠して暮らしている。海向こうの大陸で生まれた宗教らしいのだけれど、現地では邪教として弾圧の対象になっているらしい。みんなが気味悪がっているから自分も嫌い、みたいな幼稚なことを言うつもりはないけれども、とにかく秘密主義で何をやっているのかわからない部分についてはあまり気持ちよくないと思っている。今までの弾圧がそうした傾向を生んでいるのだとしたら、彼らだって犠牲者なんだろうけど――。そんな人々が裏にいるとフェリは言う。

「それ、信じていいの? 偏見を向けられやすい人たちでしょ」

 フェリは片眉を上げた。痛いところを突かれた、という風だ。

「そうなんだけどね……。でも、連中が確かに何か不穏な動きをしているのは本当。あなたに使われた薬だって連中がらみなのよ? 儀式の最中に飲んだり、信者を獲得するために飲ませたりね」

 そんな風に言われてしまうと論駁もできない。私が怯んでいる間にティンさんが口を挟んだ。

「そこまでわかっているなら、どうして公にしないんですか」

「警備部の外に情報を出せないからよ。地方監部内にも沢山潜り込んでて……。誰が敵で誰が味方かもよくわからない。昨日までなんてことなかった人の様子がおかしくなって……調べてみたら薬で洗脳されてました、なんて話だってある。警備部の仕事の三割はそういう仕事なの。本当、クロエが変わってなくて安心したのよ? 念のために調べさせてはもらったけどね。情報を渡すのが遅れたのも、そのせい」

 思った以上に事態はよくないらしい。のほほんと田舎で過ごしていた私には信じられないくらいに。フェリは言葉を切って、視線を迷わせた。

「そのせいでクロエは危ない目に遭った。下手をしたら私は、連中の手に落ちたあなたをこの手で殺すことになっていたかもしれない。……本当に、間に合って良かったわ。ごめんなさい」

「そんな。頭を上げて」

 いつも胸を張っている彼女が弱気になっているのを見ると、なんだか不安になってしまう。

「謝りたいの! 自分の失敗すら認められないような小さい人間だと認めたくないから」

「それはフェリらしいけど……。ううん、わかった。私は気にしてないよ」

 怖かった。本当に怖かった。フェリの話が正しいなら、今頃私は操り人形にされていたかもしれないんだ。私の顔をして私のように話すけれど、それはもう私ではないもの。父さまや母さまを、他にも沢山のものを裏切るもの。想像すると背筋が凍る。でも、別にフェリのせいじゃない。

 しばらくそうしていたフェリは、やがて気を取り直して立ち上がった。手にした分厚い紙束をアトミールへと差し出す。

「ありがとう。……根拠になる情報で、あなたたちに見せられるのはこの資料の通り。アトミール、あなた、全部覚えられるでしょう? 今読んで」

 受け取ったアトミールは紙をさらさらとめくっていく。

「記録しました。興味深い情報ですが……もう少し、その、人権に配慮はできないんですか」

「古代はどうか知らないけど、今の世の中、人の口に頼らないと情報は集められないの。開かない口は、こじ開けるしかないでしょう?」

 返された資料を、フェリは控えていたアーデラさんに回す。

「片付けて」

「かしこまりました」

 扉が閉ざされ、アーデラさんの靴音が小さくなっていく。

「ケイレアに行くんでしょう? 私は止めない。でも、用心しなさいな。ケイレアはアストーセよりずっと広くて豊かで、ずっと.くらい。そして、なんと言ったって――」

 フェリが言いたいことなんてお見通しだ。たっぷりもったいを付けて遊んでいる間に、私は先手を打った。

「フェリがいないもんね。違う?」

 彼女の哄笑が、部屋中に響き渡った。

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