第26話「意志」

 車輪が路面の凹凸を拾うたびに背中を揺さぶる硬い床。時折微かに耳に届く得意げな話し声。全身をごわごわとした布のようなもので覆われた私にとって、その二つだけが頼りになる情報源だった。縛り上げられ、口を塞がれ、荷車に乗せられて名も知らぬ曲者たちに運ばれる。こんな屈辱ってあるだろうか。

「運が良かったな」

「育ちも良さそうだしな」

あっこ・・・はいいとこの奴を欲しがるからなあ。偉いさんの好みなんかね」

使い道・・・があるって話だ。詳しくは聞かなんだけども」

 おぞましい会話が聞こえるたび、私は思わず縮こまる。こういう人たちをなんと呼ぶのかを私は知っている。人攫いだ。

 時に力で、話術で、お金で。人を仕入れ・・・ては、彼らなりのへと売り飛ばす。売られた人々がどうなるのか、私は知らない。知りたくもない。

 遠い世界の悲劇と思っていたことが我が身に降りかかった私は、もうどうにかなってしまいそう。待て、待てと深呼吸。私は私に言い聞かせる。こんな悪事、長続きするはずがない。門があるから今夜は壁外に出られないはず。私がいなくなったと知れば、フェリが許しはしないだろう。今は耐えるんだ。

 そのとき、荷車が軋む音を立てて止まった。

「夜間通行証のない者は壁外に出ること罷り成らんぞ」

 見込みが早速外れたことで、私は再び不安に駆られた。通行が規制される夜間に門を出ることの危険は私にだってわかるのだから、彼らにだってわかるはずだ。ということは、何か、策があるということになりはしないか。

「へえ。酒屋の者です。雨で出発が遅れちまいまして。ほら、通行証でさ」

 男の声が聞こえる。なるほど、しっかり準備してあったわけだ。けれど、万策の陣一策の綻びに崩るるという言葉もある。私がその綻びになったなら、彼らはどんな慌て方をするだろう。

「~~~~~~~~!」

 出せるだけの声を張り上げ、身体をちぎれんばかりに捩る。荷車の床板に足が当たると、鈍い痛みをそのまま変換したような音がした。

「おい、騒がしいぞ。お前のところの酒は動くのか」

 しめた。伝わった。もっと、もっとだ。踏ん張りどころだぞ、クロエラエール・ヒンチリフ。自分を叱咤して、さらに物音を立てる。

 けれど、次に聞こえた会話は、私を失望させるものだった。

「へへ。生きの良いのがありますんでね。どうでございますか。門番さんも。おい、お前!」

 じゃらりという金属の軽い音がした。たぶん、お金の。

「ほほう……。気が利いているな。いいだろう。通れ。おおい、開門! 開門!」

 私のことなんてなかったかのように、荷車は動き出す。そうか。賄賂。ティンさんの言葉が、今になってずっと現実感のあるものとなって私の前に立ち現れてきた。さっきまでのなまじな希望のために、私の目の前は真っ暗になった。

「無駄金使わせやがって、てめえ」

 背中に激痛が走る。蹴り飛ばされているのだ。全ての感覚が痛みと絶望で塗り潰され、ただ震え、涙を流しながら嵐が過ぎ去るのを待った。


 †


 荷車はそれからしばらく走り、やがて止まった。私は担ぎ上げられて、どこかへ運ばれ、また寝かされた。今度はさっきよりも柔らかい。土か、藁か、そういうものだろう。

「ようし。邪魔するなよ。今出してやる」

 縄があちこちに引っ張られ、食い込んで痛い。やがて視界を遮っていた布が除かれると、無精髭を生やした丸顔の男が立っているのが見えた。腕には十字に切られた古傷。ある種のならず者が不義理を償うたび熱した刃を使って作るという傷に見える。

「良い格好だな。え?」

 満足げな男を見上げながら起き上がろうとするけれど、まだ手足には縄があってうまく動けない。

「そう慌てなさんな。物騒なもんは全部預からせて貰うからな」

 男はそう言って、私の身体をまさぐる。鳥肌が立つが、今は耐えるしかない。

 やがて、あちらこちらに寄り道をした彼の手がようやく用事を終えたころには、私の持っていた武器やお金は、全部私の隣に積み上げられていた。

「こいつらは俺たちが預かっておく。買い手に渡さなきゃあいけねえからな」

 満足そうに自分の顎を撫でる男。服を返して貰えただけ幸運だったのだろう。気まぐれなのか、なけなしの良心の表れなのか。

「今に見ていることです。地方監閣下の司直はあなたたちの非違を許しはしません」

 頑張って啖呵を切っても、声が震えるのは隠せない。

「は! 安心したよ。綺麗なまんま寄越せって注文だからな。お上品なお育ちだと、ちょっと脅かしただけで壊れやがる。あの野郎ときたら考え無しに殴りやがって。嬢ちゃんちょっとは骨があるみたいだな」

 恐怖と怒りで身体が震えそうになるけれど、つとめて深呼吸。無闇に言い合っても良いことはない。こういうときは、少しでも相手から情報を引き出すこと。昔読んだ物語にそんな話があった。

「随分と痛い手違いですね。あなたの雇い主は、そんなに私を大切にしてくれるんですか?」

「してくれるんじゃあないの。俺も詳しくは知らんがね。ほれ、差し入れだよ」

 男は硝子の瓶を渡してきた。青い、見たことのない意匠の瓶だ。

「喉が渇いたら飲みな。連中は随分と高い金を払って飲むらしい。上にいるから、引き取りが来るまで大人しくしてるんだな」

 男は、軽銀の梯子を登って消えていった。

 部屋は殆ど真っ暗で、天井の隙間から漏れる光だけが頼りだ。たぶん、地下室だろう。木と土と埃と黴の臭い。

 どうしてこんなことに。惨めさがこみ上げてきて、声を上げて泣いた。

 泣いているうちにようやく心が落ち着いてきた。けれど、あふれた涙と鼻水を拭うものがない。そのことに惨めさを覚えるけれど、もう涙も涸れ果ててしまったようだ。手で探ると、藁束のようなものが見つかった。自分の服で拭うよりはよほどいい。

 喉がひどく渇いてきた。考えてみると、離れを出てから一滴も水を飲んでいない。さきほどの差し入れ・・・・なるものを調べてみよう。

 瓶の口には蝋で蓋がされていた。降ると軽い水音がする。

 開けてみようか。

 毒という可能性も考えた。でも、それはないだろう。殺すつもりならとっくに殺されている。

 他の危険はあるだろうか。死なない程度の毒、というのはあるかもしれない。しびれ薬とか。それでもって私を運びやすくするという塩梅だ。できなくはない。できなくはないが、いざ好機というとき喉の渇きで動きが鈍るのとどちらがましか、という話でもある。こうなると、さきほどまでに零した涙も勿体ない。

 とりあえず蓋を開けてみよう。決めるのはそれからでもいい。そう決めて、封に手を掛けた。

 力を入れると、思いのほかきつい。力を込めて格闘すると、ようやく外れる。さて、中身は如何。

 最初に感じたのは、瓶の微かな振動だ。次いで、こぽこぽと沸き立つ音、鼻をくすぐる甘く腐ったにおい。封を外した途端容器から噴き出した何かが部屋に充満する。

 しまった、空気と触れると反応するような成分だったのか。こうなれば碌なものではないに決まっている。部屋の隅に投げ捨てようとした瞬間、世界が七色に光ってねじ切れた。


 †


 真っ暗な中で粘り気のある流体の中を漂う私は、全ての感覚が曖昧で、どこまでが私で、どこからが流体なのかすら判然としなかった。言ってみれば、心を持つ泥のような。

 私は、誰。

 それすらもわからない。泥なのだから、自己などという、形の定まったものがあるわけもない。

 ただ流れに乗せられ緩やかに。

 何かの力に導かれて、高いところへと昇っていく。その先には、三つの人影があった。

「お前は罪人だ」

 若い女の声がする。その冷たい声が泥を凍てつかせて形を作る。私は罪人だ。

「お前は忌まわしい者を解き放った」

 若い男の声がする。私はそのような者になった。

 罪悪感が全身を満たす。苦しい。苦しい。苦しい。出来上がったばかりの手を滅茶苦茶に振り回す。

「我々はお前を許し、迎え入れよう」

 年取った男の声がする。その瞬間、凍てついた私の芯に暖かい熱が灯る。嬉しい。この人は何も知らない私を救ってくれる。

 中央の人影が手を差し伸べてくる。今溢れる涙は、悲しみのためではない。神々しく輝く彼の手を、私は取ろうとした。

 轟音。土煙。新しい人影が私の前に現れた。

 ぼんやりと翡翠色の燐光を帯びたその人の姿を見ると、私は何故か胸が一杯になった。

「お待たせしました。もう安心ですよ、クロエさん」

「馬鹿な。第一世代、お前が何故ここに。使用者の命令はなかったはずだ」

「使用者など不要です。私は、私の意志でここにいます」

 世界が一際騒がしくなる。どたどたという木の床を踏む靴音、怒声。その騒がしさが、今の私には何故だかとても大切なもののような気がした。

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