第25話「信頼」
悲しむという能力の全てが結晶になったような顔。見たことのない顔をした彼女を前にして、私はひるむことしかできなかった。
「使用者としての責務を放棄するものと判断します。あなたが私の行動に対して監督を行わず、責任を取ることを拒絶するのなら、私は人類社会に対する危険を避けるため、これ以上積極的な行動を継続することは不可能です」
「待って、何か誤解してるよ。誤解してるから話を聞いて」
口から言葉がこぼれ出るけれど、失望に冷え切った目がそれに応える。
「使用者規約への合意という重大な前言を翻した実績から、あなたの発言はもはや信頼できません。私は戻らなくてはいけません」
踵を返す彼女。何か言わなくてはという気持ちばかりがはやる。
「戻るって、どこへ」
「元いたところに戻るだけです。こんなことなら、やはりあのとき――」
振り返ることもなく遠ざかっていく彼女の背中を、私は見つめていることしかできなかった。
ミューンを引きずるように入ったあの遺跡、賊に追われて逃げ込んだ先で、瀕死のミューンを救うため手を差し伸べてくれたアトミール。ためらう彼女を無理矢理連れ出したのが、そもそものはじまりだった。
彼女を狙う誰かの目を常に感じ、時に苛烈な妨害を受けながらも、私たちはついにアストーセまで辿り着いたのだ。
それも今日で終わる。私が不用意な言葉を漏らしたために。こみ上げてきた情けなさが目から流れ落ちる。
どれだけ時間が経ったろうか。木を引き裂くような音が聞こえて身体が跳ねた。
失われていた現実感が戻ってくる。床にへたり込んでいる私。相変わらず降り続く雨。時折聞こえる雷鳴。先程の音は、どうやら雷だったようだ。
このままではいけない。でも、どうしたらいいだろう。
まず私がどうしたいかだ。私自身がアトミールに尋ねたように。
私は、彼女を失いたくない。彼女が特別な存在だからというのもあるし、恩人だからというのももちろんある。でも何よりも、ここまで一緒に旅をしてきた友人と喧嘩別れをするなんて嫌だ。
わがままだろうか。私の顔なんか見たくもないだろうか。
ためらうのはよそう。反省は、追いかけながらだってできる。まずは彼女の後を追うことだ。
寝間着を脱ぎ捨てて、業服に着替え、雨具を着込む。さあ、あとは出発だ。慌ててドアノブに手を掛けたとき、ティンさんの顔が浮かんだ。いけない、いけない。明日になっても戻っていなければ心配させてしまう。机の上に書き置きを置いて、今度こそ部屋を出た。
階下のホールに出て、扉へ手を掛けると、途端に手が引っ張られた。扉がひとりでに開いている!
驚きのあまり手を離したら、開いた扉の向こうに人影があった。
「お久しぶりです。クロエラエールさま」
立っていたのはアーデラさんだった。学生時代にはフェリに近侍していたのを覚えている。歳は三十歳くらい。怜悧な剣のような印象は、どこかアルスパリアを思い起こさせる。
「こんな夜更けに失礼しました。お耳に入れたいことがあり参上したのですが――既にお気づきだったようですね。アトミールさまのことです」
「何か知ってるんですか!?」
後ずさるのを追いかけて踏み込む。雨と私に挟まれた彼女は、諦めたように話し始めた。
「アトミールさまが内壁方面へ出て行かれるのを見かけまして。不審に思いご報告に伺った次第です。クロエラエールさまはこのことをご承知の上で――」
お礼だけを残して私は駆けだした。
†
戸惑う分堡の門番を説き伏せて門を開けさせ走るうち、雨は小やみになってきた。滑る石畳、水たまりを踏み散るしぶき、靴の中にはすっかり水が回り、踏むたび滲み出る水は、まるで私の過ちを責めさいなむ獄吏のようだ。
私はどこで間違えたのか。最初に立ち向かわなくてはいけない疑問だ。
私は何をしたか? 約束を違えた。約束とは何か? 彼女の行動に責任を持ち監督するという約束。
あの約束は彼女にとって何を意味したか? 自分が世界にとって有害なのではないかという不安から守ってみせるという庇護者の宣誓。
私に悪意はあったか? いいえ。悪意の有無は過ちを免責するか? 場合による。この場合はどうか? いいえ、恐らくは。
取り返しはつかないか?
いいえ、恐らくは。
私は、彼女を失望させた。ならば、再び私が信頼に足る人間なのだと示せばいい。そのための言葉は、既に私の胸にある。
内壁の門に辿り着いた私はよっぽど酷い格好をしていたに違いない。門番から掛けられた誰何の声は、とても冷たいものだった。
「
門番の姿は、雨滴に覆われた眼鏡によってぼやけ、ガス灯の影として辛うじて像を結んだ。
「公用のための臨時通行です! 私はクロエラエール・ヒンチリフ。ヒンチリフ行政区三等地方政務官です。開門を願います!」
用意していた口上を叫んで身分章を差し出す。門番はひったくるようにそれを受け取ると、紋章に目を走らせてから恭しく首を落とした。
「失礼致しました。クロエラエールさま。どうぞお通りくださいませ。開門! 開門!」
木の軋む音がして、門は開け放たれた。門の向こうには灯りの点々と点る街並みが見える。
「ありがとうございます!」
走り出した私の耳に小さく悪態が聞こえた気がしたけれど、気にも留めなかった。
†
市街を駆け回っているうちに雨は止んだ。人は疎らだけれど、時折仕事中らしい姿の人が歩いている。こんな日、こんな時間だというのに大変だ。普段だったら、人々の境遇についてもっと思いを巡らせたところだ。でも、今の私にそんな心の余裕はない。聳える重厚な扉を前に、私は腕を組んでいた。
看板にはミルボール商会と誇らしげに大書してある。商会はヒンチリフを本拠とする貿易商で、我が家と結びつきが強い。私の世話役であるリミーも、本当の名前はリミエラ・ミルボール。つまり商会の関係者だし、ヒンチリフから私への送金も、商会を通じて行われている。
そんなわけで、緊急時に頼るならここだろうと当たりを付けたのだが……。ご覧の通り、扉は固く閉ざされている。こんな夜更けだ、無理もない。
扉を遠慮がちに叩いて様子を見るけれど、誰も出てくる気配はない。住み込みの従業員がいるはずだけれど、このくらいの音だと聞こえないのだろう。強く叩けばその内出てきてくれるかもしれないが、そこまでやってしまっていいのだろうか。
迷惑だし。でも、それどころではないはずだし。
考えているうちにも時間は過ぎていく。
通り過ぎる人たちからの不審の目が突き刺さる。人の家の前で腕を組む水浸しの女がいたら、私だって眉を顰めるだろう。
このままじゃいけない。やろう。戸を強く叩こうと拳を握りしめたとき、後ろから話しかける人がいた。
「すいやせん。道をお尋ねしたいんですがね」
話しかけてきた男たちの後ろを見ると、荷車を引く男たちの姿があった。目深に頭巾を被っていて、いかにも不審だ。でも、ただの雨避けかもしれない。さりげなく腰に目を向けるが、武器は持っていないようだ。まあ、表通りだし。多分大丈夫だろう。
「いえ。私もこの辺の道には不案内でして」
そう答えると、男たちはにこりと笑う。
「構いやしません。道の方は――」
その瞬間、視界が真っ暗になった。布が顔に押しつけられる感覚、手は後ろに回され、粗い縄で縛られる。
「よくわかってますんで」
浮遊感。しまったと思ったとき、私はもう固い床に転がされていた。
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