第24話「善意の刃」
サンルームのガラス板越しに見る空は、どんよりと暗い。最初の二日間晴れていた空には朝から雲が掛かっていたが、昼を過ぎていよいよ暗くなってきた。今にも降り出しそうだ。曇天から視線を落とす。既にアトミールとティンさんは席に着いている。
「始めようか」
めいめいがここ三日間集めた情報を報告する。
「酒場を回って噂話を集めました。少し気を持たせれば男っていうのは簡単に……いえ、忘れてください。ともかく、話だけなら幾らでも聞き出せましたが、役に立つ話はありませんでした」
「所詮噂だもんねえ。例えば?」
前半はテーブルを見つめて聞かなかったことにした。立派なテーブルだ。太い鉄の線を折り曲げて作った土台の上に、透明で固い樹脂の天板が固定されている。樹脂は融かして再利用するたび、不純物が混じって品質が落ちる。透明度だけでも仰天だが、この分堡を抽象化したらしい彫刻が表面に薄く施されている。普段は使ってないから気にしないで、なんて言ってあっけらかんと引き渡した離れのくせに、うちの応接間にあるやつより立派じゃないか。落ち着いて聞ける話題に戻ってきたことを確かめて、視線を再びティンさんの方へと向ける。
「まあ、稼げる貿易の商品ですとか、吏員に渡す賄賂の相場ですとか、よくある話題ばかりですよ」
「待って。賄賂って話題になるものなの」
「あれ、クロエさんは知らないんですか。ああ嘆かわしい。知らぬはお上ばかりなり」
大げさに肩をすくめるティンさん。そりゃ、世の中きれい事ばかりとは思わないけど、お酒を飲みながら話題にするくらいのことだとは思わなかった。もっと、声をひそめて話すことなんじゃないの。
「じゃあ、ティンさんはそんなところ?」
「そうですね。……あ、待ってください。そういえば、最近この辺のごろつきが元気だという話がありました。関係があるかはわかりませんが、一応お伝えしておきます」
星の浮島を狙ったのも、思えば海賊だった。「未知敵対者」が他の場所でも良からぬ人たちを実行部隊として使っているというのはありそうなことだ。これは、心に留めておこう。
「ありがとう。そしたら、次は私たちだね。ティンさんには勝手口的な部分から調べて貰ってるから、私たちは正面から、地方監部経由で調べてるよ。……っていっても、何もないんだけど……」
ない。本当にない。皆無。虚無。いろんな言い方ができるけど、結論としては変わらない。
「意外ですね。調べれば少しくらい出てきそうですけど。どんな調べ方をしているんですか?」
「うーん。あんまり良い調べ方ではないと思う。アトミールの正体とか、アルスパリアのこととかはあんまり公のルートに乗せたくないんだよね。どうしても回りくどい聞き方になっちゃって」
アトミールの身体能力は今更隠せないのだけど、遠い国の噂話くらいの水準だったらさほど違和感がない。アミリス・オナーでは彼女との力の秘密について聞く人もあったが、適当な説明で皆信じてくれる。少なくとも、古代の人たちが作った機械の人だなんて話よりはどんな作り話だってもっともらしい。問題はもっと
「やりづらいですねえ。この場で絶対に信頼できる人というと、フェリエスさんだけですか」
「そうだね。地方監閣下は……お世話にはなってるけど、立場があるからケイレアに黙っていてはくれないと思う」
私の進学には、地方監閣下の口添えが一役買っている。大学への寄付金に応じて推薦枠を持っていて、私をその枠に入れてくれたのだ。立場の割に好々爺然とした気さくな方だけれど、今頼れる相手ではないだろう。
「フェリエスさんは動いてくれています。明日には結果を出すと聞いていますよ」
アトミールが補足する。
「ありがとう。……うーん、私たちで調べられること、何かないかな。アトミール、良い知恵はない?」
気楽な感じで聞いたのだけど、彼女は思ったよりも深刻な表情を浮かべた。
「お役に立てずすみません。漏洩情報の最小化と獲得情報の最大化は……困難なトレードオフです。十分な計算資源と現代社会における情報伝達構造に対する深い理解が必要ですが、どちらも不足しています。お二人のアプローチより優れた対案を提示することはできません」
いろいろと議論をしたのだが、結局大した結論は出せず、明日出てくるだろうフェリからの情報を待とうということになって、今日の会議は終わった。
†
大粒の雨が天井を打つ音を聞きながら、私は寝台に寝そべって本を読んでいた。天井からぶら下がる電燈が冷たい光を注いで手元を照らしてくれている。ページを一枚めくるたび、紙上の世界が広がっていく。
ノアラ家の使用人が夕食を持ってきてくれたとき、ついでにと渡された。なんでも、フェリが貸すようにと言ってくれたらしい。
中身は「
小説という物を毛嫌いする人も中にはいる。その意見はわからなくもない。貴重な紙と写字生を作り話の記録に使うくらいだったらもっと実用的なことを記す方が世のためになるというのはたぶん正しいし、世の中は現に実用書優先で回っている。写本の作成だってそうだ。数の上でも実用性の上でも貴重な実用書・学術書は最優先で写本に回され、数ばかり多くて役に立たないと思われている物語は、しばしば朽ちるに任せられている。
でも、それはそれとして、物語というものの魅力は他に代えがたいものだ。学生時代も、手詰まりになると図書館の一角に逃げ込んで物語に手を出したっけな。何もかも懐かしい。フェリのことだ。こんな本を渡してきたのには、何か狙いがあるはずだけど。それとも、単にフェリが好きな本なのかな。私が感慨に耽っているとき、扉の向こうからアトミールの声が聞こえた。
本に栞を挟み、入るようにと返事をする。
「遅くにすみません。もうお休みでしたか」
「ううん。大丈夫。まだしばらくは起きてたよ」
今はちょうど前崩壊文明が崩壊し、物流と通信という前崩壊文明の血液が寸断、巨大都市が一つまた一つと機能を停止して大混乱を来すところだ。この場面が一区切りついたあたりで寝るつもりだった。
雨に風が加わって窓の軋む音に紛れて、彼女の足音は聞こえない。
どこか居心地が悪そうで、言い出しづらい相談事だろうと検討がついた。さらりととんでもないことを言い出す彼女にしては珍しい。
「ほらほら、立ち話もなんだから。座って座って。表の方に行った方が話しやすいかな」
表、つまり執務室は寝室と続き間になっている。あちらに行けば、ここにあるよりもちゃんとした面会スペースがあるのだ。
「いえ、ここで構いません。椅子だけ失礼します」
この屋敷の割には質素な木の椅子に腰掛けた彼女に向かい合って、私はベッドに座った。
「結論から話します。私は、私自身の能力に対して重大な疑義を覚えています。このまま同行することがクロエさんにとって有益とは思えません」
降って湧いた結論に驚いて、私は天井を見上げた。優秀な部下が自信を失ってしまったというのは貴族人生ではしばしば出くわす問題だと話には聞いていたけれど、こんなに早くやってくるなんて思わなかったよ。どうするのが正しいかも知らないし、そもそも相手はアトミールだ。世間並みの対応が正しいかもわからない。
どうしようどうしようと言っている場合ではないのは確かだ。彼女は私以上に混乱しているはずだろうから。このままでは材料が少なすぎる。まずは、彼女の考えを聞こう。
「そんなこと思っても見なかったよ……。どうしてそんな風に思ったの?」
「今までの経験から
「私からすれば、今みたいに話を整理してくれるだけでも助かるんだけどなあ。ほんと、びっくりするくらいだよ」
「確かに、皆さんのお話ぶりは必ずしもよく推敲されたものではありませんが、解釈が困難なわけではありません。大きな問題でしょうか。私の活用方法を無理に考えてはいらっしゃいませんか」
あ、やっぱり綺麗に纏まってないよね。わかるわかる。人はアトミールほど賢くないからね。
「アトミールほど推敲できない頭なんだから、アトミールが話すみたいに整理されてたほうがずっとわかりやすいんだよ」
「しかし、それはあくまで量的な問題です。私の調査能力は質的にお二人を下回っています」
モヤモヤする。アトミールってこんなに自信のない人じゃなかったはずだ。いつも胸を張って、自分の能力に疑問を持たれるとムキになって。彼女に対して私が持つ印象と、今肩を落として弱音を漏らす彼女は、まるで別人みたいだ。
「じゃあ、アトミールはどうしたいの」
「それは、使用者であるクロエさんが決めてください。私は事実を伝えているだけです」
頭に血が上った。この後に及んで、まるで心がないみたいな物言いをするから。私にもう少し自制心がなかったら、きっと酷いことを言ってしまっただろう。でも、辛うじて耐えた。
思い直す。彼女は悪くない。頑なな信念と現実との間の落差の大きさが不安なだけなんだ。私は、彼女を縛る呪いを解かなくてはいけない。突然立ち上がった私を見て、彼女は驚きの声を上げた。
「何を――」
膝をついて抱きしめた。このとき私は、はじめて全身で彼女を感じた。あの膂力を秘めているとは到底思えない華奢で贅肉のない体つき、布と樹脂と、何かよくわからない清潔なもののにおい、衣擦れの音。
「そんな風に言わないで。もっとあなたの気持ちを聞かせて」
「いけません。皆さんに不利益をもたらしてしまいます」
まだそんなことを言うのかと、思わず顔をしかめてしまう。でも、そのとき、いい考えが浮かんだ。なんだ、簡単なことじゃないか。使用者としての権限を使って、彼女を呪いから解き放てばいいだけだ。
「いい。アトミール。使用者としてあなたに命じます。使用者の利益のために行動しないで。あなたは、あなたのために行動すればいいの」
魔法の言葉が彼女に染み渡るのを、私はただ待つ。彼女の反応がどんなものになるかを楽しみに待ちながら。
身体が宙に浮いたのがアトミールが急に立ち上がったためだと気付くのには、少しの時間が必要だった。慌てて足を伸ばして立つ。それを待っていたかのように、彼女は私を突き放した。
笑顔が浮かぶと信じていた彼女の顔には、いっぱいの悲しみが湛えられていた。
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