第4章「アストーセ」

第22話「大きな目的」

 再び車中の人となった私たちは長い旅を続けて尋海を渡り、川を遡上し、ついに地方監都アストーセへと辿り着いた。船はゆっくりとアストーセ郊外にある船着場へと近付きつつある。この街の名家には学生時代の友人もいるし、会うことができれば何か有益な情報が手に入るかもしれない。湖畔に佇む凹んだ多角形をした要塞の一つを私は指差した。

「ほら、あれがアストーセの幾何要塞だよ」

 要塞へ向けてはなだらかな上り坂となっており、低い城壁がある。この場所からは見えないが、空堀も備えている。鳥の目線で見れば、ちょうど星のような形だろう。

 アストーセは、ヒンチリフを含むアストーセ・オルシィ北アストーセと、アミリス・オナーを含むアストーセ・アルシィ南アストーセを支配するアストーセ地方監閣下の御座すおわす都だし、国境ほど近い北辺帝国は近年幾らか雪解けが見られたとはいえ、未だ強大な外敵である。この幾何要塞群こそ、アストーセ地方の要を守るため整備された防備の結晶なのだと学友に自慢されたこともあった。

「面白いですね。アミリス・オナーの市壁を発展させたもののように思えます」

「そうなの?」

 見た目はだいぶ違う気がする。アストーセの城壁は、四角形を組み合わせたもっと単純な形だ。

「この角度から見る限り、あの構造の要点は、多角形状の要塞を島状に配置して、射撃武器によって敵を阻止することではないでしょうか。射撃武器による敵の阻止は、敵を壕に誘導して側方から射撃するアミリス・オナーの側防櫓と同一の発想です。これは予測ですが、側防櫓に類する施設があるのではないでしょうか。ほら、あの多角形の根元にある櫓などはそれらしいですね」

 星の根元にあたる部分に建つ低い塔は、接する両辺を狙い撃つことができる場所にある。確かに、側防櫓にも同じような狙いがあった。

「アトミールさんの意見は正しいですよ。幾何要塞は、古代の兵学書を参考に作られた様式ですから」

 よく知ってるなあと感心のため息が漏れる。そういやティンさんの研究室では古代の兵器なんかも扱っていたっけ。

「じゃあ、古代の戦争にも幾何要塞が使われてたんだ」

「そういうわけではないそうです。確か、基礎的な理論を応用したとか」

「ふんふん。そうか、古代の戦争は射撃戦ばかりだったんだよね。現代の銃兵戦術にも理論が使えるんだ」

 壕に下りた敵を横合いから撃つというのは父さまや兄さまたちが寝物語にしてくれたような戦と比べると陰湿な感じがする。でも、戦争というのはそんなものなのかもしれない。ティンさんの人生がそうであるように、家や国の存続を賭けた戦いで手段を選んではいられないのだろう。

 軽い衝撃が船内を走り、船は浮桟橋へと接岸した。

 船室を貸し切った上客である私たちは、真っ先に降りることができた。船に差し掛けられた梯子を下り、ふわふわと浮き沈みする木の浮桟橋を渡って、久々の大地を踏みしめた。その安堵感に、私は大きく伸びをする。

「陸地の方が快適ですか」

 アトミールが聞いてくる。

「そりゃあそうだよ。揺れないし、酔わないし」

 ティンさんも横から重ねて、

「沈みませんし」

「髪が潮風でガサガサにならないし」

 潮風は本当につらい。水のないとき髪を洗わず寝ると、枕と頭に挟まれた髪が軋む音が聞こえるような気がして眠れないほどだ。今回の船旅は、尋海という淡水の海を通ってきたから潮風こそなかったものの、その代わりとばかり船の灯火に誘われたよくわからない虫が襲ってきた。刺されると酷くかゆい。アトミールが部屋の中に入ってくるやつを片っ端から叩き落としてくれていなかったら、今頃私たちは刺され痕で一回り膨れていたかもしれない。「殺虫器として運用される日が来るとは思いませんでした」とぼやいていたから彼女にとっては不本意だったかもしれないけれど、私たちの安眠のため、どうか許してほしい。ごめんね、アトミール。

「たまに乗る分には気持ちいいんだけどね。アトミールは気にならなかった?」

 黙って頷く彼女。ティンさんが私の質問を引き継いだ。

「それじゃあ、どういうとき嫌な気持ちになるんですか」

「不快になるとき、ですか……」

 アトミールは少しの間考えこんだ。こういう切り口で彼女を知る機会はあまりなかった。どんな答えが返ってくるのかと思うと、ちょっとドキドキする。

「応答が遅い外部システムと通信しているときは焦れます。一秒も待たされたりするんですよ。しかも、そういうシステムに限ってブロッキングで……」

 熱っぽく話していた彼女が、何かに気がついたように口へ手を当てた。

「ああ、いえ、人とのコミュニケーションは問題ありませんよ。間も情報量を持つプロトコルなのは理解しています。ノンブロッキングですし」

 私たちの知らない言葉が沢山出てくる。アトミールでも口が滑ることがあるんだ。

「よくわからないけど、あなたが私たちを嫌ってるとは思ってないよ。大丈夫」

「すみません、誤解を招く表現でした」

 しゅんと肩をすぼめたアトミールは、背丈が大きい分一気に小さくなったように見える。かわいい。

「そういう苦手だと、私は決めつけの強い人が嫌いだなあ。なんとか人だからこうだとか、誰それの意見だからこうだとか」

「女だからこうだとか、ですか」

 ティンさんの言葉に頷く。

「傾向としてそういうことはあるのかもしれないけどね。でも、傾向でしょ? もっとちゃんと向き合えって思うんだよ。ティンさんは?」

「私ですか。そうですね。……強いて言うと、中立ぶる人が嫌いです」

「中立ぶるっていうと……。喧嘩の時に飛び出してきて仲裁する人、みたいな?」

「別にそれは構いませんよ。場が荒れるのが嫌だみたいな理由があるんでしょうから。私が嫌なのは、自分が我慢すれば全部丸く収まると思ってる奴ですかね」

「そうなの。私は我慢強い人だなーって思っちゃうけど」

「イライラするんですよ。お前もそうしろって言われてる気がして。顔も見えない『みんな』のために痛みを押しつけられるなんて願い下げです」

 予想していたよりも強い言葉に私は驚く。ここ最近、ティンさんの意外な面を沢山見せられている気がする。

「アトミールさんのこと嫌いじゃないですけど、そういうところは嫌なんですよ。アトミールさんって本当はもっと我が強いのに無理してるでしょう?」

「そう、でしょうか」

「ええ。自分の能力を甘く見られるとムキになるし、褒められるとわかりやすく喜ぶし。そのくせ、何かを決めなきゃいけないときはご主人さまの決定に従うだけですみたいなことを言ってる。ちぐはぐじゃないですか」

 ティンさんにはアトミールがそういう風に見えていたんだ。確かに、控えめな雰囲気を一枚めくると結構良い性格をしているなとは思っていたけれど。ティンさんは、私よりずっと分析的に人を理解しているんだな。

 いやいや、今は感心してる場合じゃない。なんだかとっても空気が重い。

「私の能力に誤解があることは使用者の利益にならないからです。意地や見栄のような目的関数に対して最適化をすることは、全体最適ではありません。そのような行動傾向があると認識されることは大変不本意です」

 あ、ティンさんが言う、ムキになったときのアトミールだ。こういう反応自体がティンさんの主張を裏付けてしまっていることに気がつけないアトミールではないと思うんだけど。

「ほら、全体のために自分が我慢する論理じゃないですか。それに不本意っていうのはムカつくってことですよね。それ自体、あなたがあなたの見せたがってるような大人しい性格じゃない証拠です」

「あの……二人とも……」

「ティンさんは人です。現代には希薄な概念かもしれませんが、基本的人権が与えられています。そのあなたがご自身の利益を主張することには正当性があります。ですが、私は人によって作られた道具に過ぎません。道具が自分の利益を主張することには正当性がありません」

「ああ、そうですか。じゃあ、人類社会全体とやらのためにご主人さまを殺せって言われたらどうします?」

 話がどんどん大きくなってるよ。私が死ななきゃいけないことになってるし。いや、学生時代の演劇で死人やったことはあるけどさ。

「人類内部での利害対立は……当然想定されます。そのときの判断に対する基準として使用者は存在していて、もし基準の存在自体が人類社会にとって有害であったとするなら……」

 あからまに苦しそう。思い詰めた様子で俯く彼女を見ていたら、いてもたってもいられなくなった。彼女がどんな結論を出すにせよ、それを言わせてはいけない。

「そのときは、二人であの遺跡に戻ろう」

 理解できない、という顔でアトミールがこちらを見た。おかしなことを言っているだろうか。でも、言わずにはいられない。

「私が外にいたら危ないというなら、地面の底で、二人で一緒に暮らせばいいよ。家族とか、ティンさんとか……いろんな人に会えなくなるのは寂しいけど、私は五十年くらい我慢すればいいだけだから。そのあと、アトミールはまた地上に出てくる。ティンさん、これならどう?」

「……頭に血が上ってました。すみません。……アトミールさんがいつも我慢しているのが我慢できなくて……」

 ティンさんも居心地が悪そうだ。少し、空気を変えた方がいいだろう。

「どこかでご飯、食べようか」

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