第21話「類い稀な宿」

 扉を閉じるなりティンさんの口から耳を疑うような言葉が飛び出した。

「あの男と寝れば解決しません?」

 驚きの余りひっくり返りそうになる私を見て、彼女はにやりと笑う。

「もちろんクロエさんに迷惑は掛けませんよ。私が、です。ああいう人種には効きますよ」

「……え、え、そんなことってあるの? だって、その、寝るって、つまり……」

 身体中がかあっと熱くなる。世の中にそういう・・・・取引があることはもちろん知っている。けれど、それはどこか遠くの世界の話で、私とは無縁のものだと思っていたのだ。

「もっと露骨に言います? ……やめますか。クロエさん卒倒しちゃいそうですもんね」

「当たり前だよ……。その、なんていうか……ティンさんは……そういうこと、するの」

「身分の差を押しのけてここまで来るには、手段を選んでいられませんでしたからね」

 これでも一応それなりの家柄の家の娘として育てられているから、真っ先に覚えるのは不潔だという忌避感だ。学者としての実力以外の手段を道具としてきたティンさんに対して失望も感じる。でも、と思う。ティンさんは誰が見たって優秀な人だ。彼女がそこまでしなければ、調査助手にすらなれないという現実の方がよほど酷いのじゃないだろうか。

「失望させてしまったなら謝りますが、クロエさんの約束を守るためにはこれしかないんじゃないですか。そんなに大変でもないですよ。相手のやりたいことをやらせれておいて、耳当たりのいいことを言っておけば言うことを聞かせられるんですから。それに、クロエさんのお姉さんだって嫁ぎ先選びは家の損得で決められたって言ってましたよね。同じですよ」

 姉さまが商務長官の家に嫁いでいったことは、以前ティンさんにも話したことがあった。それとこれとは違うと思いたいけれど、それではどこが違うのかと自問すると、大きな構造の上では似ているかもしれない。

 姉さまは、私にどこかしら隔意のあるところがあって苦手だった。姉さまが養子で、その後実子の私が生まれたことと関係があるのかもしれない。そんな姉さまでも、ふと思い出すと急に寂しくなる。嫁ぎ先のあるケイレアに行けば、また会ってくれるだろうか。

 現実から遊離し始めた思考を引き戻して眼前の問題へ向き合う。こういう判断でアトミールは頼りにならない。きっと私の決めることだと言うだろうし、それは正論だ。

 駄目だと突っぱねることもできるけど、それは私が約束を違えることになるし……。何より、ティンさんをも傷つけることになるのではないか。でも、こんなこと認められない。そんなことをするくらいだったら、私が代わりにしたほうがまだましだ、というところまで思考が至って、慌てて首を振る。絶対に嫌だ。

 待てよ。私が、代わりに……?

「何が面白いんですか」

 苛立たしげなティンさんの声。急に笑い出したから、彼女を誤解させてしまったようだ。

「ごめん。そうじゃないの。えっとね」

 真面目な表情を作って、背筋を伸ばして。

「その提案は、だめ。ティンさんがティンさんのためにそういうことをすることに私が何かを言う権利はないけれど、私のためにさせるような権利もないと思うから」

「じゃあ、どうするんですか。約束を破るんですか。ああいう男は、道義的責任みたいな言葉をどこまでも便利に使うんですよ。クロエさん、世渡りが下手でしょう? 一生食い物にされたっておかしくありません」

 大げさな、と思いかけて、考え直す。ティンさんは、世界という大海原の底に溜まったどす黒い澱を沢山目にしてきたのかもしれない。その経験を否定することはできない。でも、と私は首を横に振る。

「大丈夫。約束を破るつもりもないよ」


 †


 ジュリフスさんは、私たちを見るなり当惑の声を上げた。

「なんだねその格好は」

「生憎、よいお部屋を用意できませんでしたので。いかがでしょうか」

 私たちの隣を風が駆け抜けていく。風を受けて歌うのは、広げられた天幕たちだ。宿の主人とアトミールの力を借りてわずか半日で作り上げた一軒の宿。浴場まではさすがに無理だったので、そこは宿のものを使わせて貰うことで話がついている。

「つまり、何か。虚言を弄したことの責任を取って身分を返上すると?」

 私たちが着ているのは、使用人の着るような服だ。目立ちすぎず、しかし家の品位を落とさぬよう上品な、そして動きやすい服。こういう服を着ていると、リミーのことが思い出される。

「いいえ。違います。私、クロエラエール・ヒンチリフ三等地方政務官は、この姿であることによって、ジュリフス地方政務長官に対して責任を全うするつもりです。世界広しといえども、貴族や侍従が自らもてなしをする宿は二つとないでしょう」

「ふむ……」

 無理矢理ひねり出した理屈ではあるが、ぎりぎりジュリフスさんの面子はもつ筈だ。平民のまねごとをする私の評判は多少落ちるかもしれないけど、気にするほどのことでもない。父さまの受け売りではあるが、落ちても良い評判というものもある。腸詰め姫事件なんてのもあった。思わず遠い目になる。

「まあ、いいだろう。新人の仕事としては認めんでもない。私も供回りも疲れている。しっかり職責を果たしてくれ」

「もちろんです。お客さま。さあ、お部屋にご案内しましょう」

 ジュリフスさんの部屋は天幕群の中の真ん中、一際大きな帽子型の天幕だ。入口の布を持ち上げると、ジュリフスさんから驚きのため息が漏れるのが聞こえた。

「これは……思ったよりしっかりしているな」

「ありがとうございます。アトミール、ご説明を」

 説明役の栄誉は、一番の功労者である彼女に譲ろう。

「この天幕は地面に打ち込まれた三本の軽銀性支柱、およびそこから展張された片持ち梁によって支持されています。内部は大きく分けて中央通路と向かって右側にある客室、左側にある控え室の構造です。控え室には、お客さまの随行者を待機させることができます」

 天幕というのは普通、野営の時の仮住まいとして作られるから、簡素なものが一般的だ。けれど、アトミールの考案によるこの様式は古代の遊牧民が日常的に使っていたものを原型としているそうだ。日常的に寝泊まりするものだから、ずっとしっかりした作りをしている。

 客室には近隣の宿から借り受けた家具が置かれており、床には表の市で買った毛皮の絨毯が敷かれている。夫婦・親子くらいまでなら快適な生活が送れるだろう。ジュリフスさんが落ち着かなげに部屋を見回していたので、椅子を勧めた。しめしめ、ここまでの用意ができるとは思わなかっただろうと内心ほくそ笑んでいると、部屋の外からティンさんの声がした。

「失礼致します。お茶を用意いたしました」

 いつもの彼女は動きやすさを重視した調査助手の装いだ。けれど、今日はひと味違う。彼女の荷物の中にあった民族衣装を着て貰ったのだ。桃色の服は上下とも身体に巻き付けるような形、その上には透けた腰巻きを纏っている。彼女が歩みを進めるたび腰巻きにうっすらと浮き出るらせん状の模様がなびき、まるで服の模様が動いているかのような錯覚を覚える。

「ああ、ご苦労。珍しい服だな」

 茶器を並べていくティンさんを、ジュリフスさんはじろじろと見ている。少し目つきが嫌らしい気がするのは気のせいだろうか。確かに、この服の方が彼女の、なんというか、体つきは強調されるけど。

「故郷の正装ですわ」

 ティンさんは気にした様子もない。立ち居振る舞い、口調まで艶があり、普段とは全然違う。まるで別人を見ているような気がして、複雑な気持ちになった。

 そんな私の気持ちなどお構いなく、ジュリフスさんの手がティンさんの身体へと伸びる。ティンさんの手が柔らかくその手を抑え、私の方にさりげない視線を向けた。

「いけません。支配人から止められておりますの」

「なんだ。いかんのか」

「当旅館は崩壊戦争前を起源とする名誉あるヒンチリフ家の直接運営するところでございます。したがいまして、お客さまにも節度ある振る舞いを求めさせていただいております」

 用意していた口上は、ジュリフスさんを諦めさせるには十分だったようだ。

「ふん、まあいい。その分夕食は期待させてもらうぞ」


 †


 ティンさんはジュリフスさんや随行者の世話に出ているので、夕食は私とアトミールで作らなければならない。変な要求には絶対応じないよう伝えてあるから、その辺りも大丈夫だろう。たぶん。

「料理長、今日は何を作りますか」

 アトミールにおどけて訊ねてみた。私は人様に出せるような料理をしたことがないので、アトミールの力で古代の料理を再現してみようというのが今回のお題だ。

「そうですね。オニワタゲのすね肉しか手に入りませんでしたので、加圧水による煮込み料理というものを試してみたいと思います」

 もちろん実際のメニューはとっくに決めてあるのだけど、彼女は茶番に付き合ってくれるつもりのようだ。

「へー、水に圧力を。実験みたいで面白いですね。具体的には、どのように?」

 山の上では煮物がよく煮えないことはよく知られている。これはどうやら、標高の高いところでは気圧が低く、水が低い温度で沸騰してしまうということを意味しているようだ。なぜ標高が上がると気圧が下がるのかについては私の知る限り知見がないが、さておき、彼女がやろうとしているのはその逆だ。圧力を加えれば、水は沸騰しづらくなる。その分水の温度を上げられるから、具材がよく煮えるというわけだ。

「こちらに、岩石を削り出した鍋がありますので、まずは具を入れていきます」

 出てきたのは恐ろしく形の整った鍋だ。もちろん、アトミールの作になる。そこらに転がっていた岩が古代剣によってサクサクと削られていく様は、手品を見せられているようだった。なんだか勿体ないことをしているような気もするけれど、鞘に入れておけば自然と研がれるらしい。

 一口大に切っておいた大玉根や肉、ウロコタケ、赤甘月などの具材が積み重ねられていき、そこに塩・香辛料・果実酒が加えられる。

「蓋の接触面は窪ませていますので、ここに気密のため穀物粉を練ったものを詰めた後蓋をして密封し、火にかけます」

 やがて沸騰が始まり、蓋にあけられた穴から湯気が吹き出し始める。

「料理長、これでは圧力が逃げてしまいます」

「ここは、こうします」

 おもむろに穴を指でふさぐ。彼女の指と鍋との隙間から小刻みに蒸気の音がする。

「クロエさんは真似をしない方がいいと思います。人体は水の沸点の九割程度までしか耐えられなかったと思いますからね」

 指に蒸気を浴びて平然としている人を見て平然としている自分に気がつくと、だいぶ私もアトミールに毒されてしまったなと思う。

 煮込み料理のいい香りが次第に立ちこめてくると、アトミールは鍋をかまどから下ろした。

「あとは圧力が下がるまで待つだけです」

 アトミールは身動きが取れないし、私も付け合わせを切る簡単な作業しかないので、なんとなく手持ち無沙汰な沈黙が流れた。

「料理もしてたの?」

「評価試験の中には含まれていました。私が作ったもので他の誰かが喜ぶというのは、とてもよいものでしたね」

 微かに陶酔がかった声だ。彼女が、誰かから好意を向けられることに弱いのだと話していたことを思い出した。

「ああ、でも、圧力制御には指より合理的な道具を使っていましたよ。単純な作業に私のように高度なシステムを用いることには合理性がありませんからね」

 隠しているつもりで全く隠せていない自尊心と、裏腹な畏れ、意外な弱点。愛着を持つな、人のように扱うなと幾ら彼女が言ったところで、どだい無理がある。その上、こんなに綺麗なんだから。

「圧力が安定しました。蓋を開けますよ」

 赤甘月の色に染まったスープは鮮やかに赤く染まり、なんとも食欲をそそる。はしたなくもよだれが出てきてしまう。ごろごろと転がるお肉や野菜もたまらない。

「味見……して、いいよね……。作ったものを確かめもせずにお出しするわけにはいかないもんね……」

「もちろんです。どうぞ」

 手早く盛り付けられたスープが目の前に突き出される。胸を高鳴らせながら、一口。

「おいしい!」

 考えてみると、この料理には一切水を使っていない。つまり、このスープは全て、果実酒と、野菜から出た水分だ。そこに肉の旨味が満ちているのだから、美味しくないわけがない。思わず笑みがこぼれてくる。でも、まだ具には手を付けてないんだよね。本番はここからだ。

 ごろんと転がる肉の塊に目を落とす。オニワタゲのすね肉といえば高級食材ではあるが、前日から丹念に煮込まないと固くて食べられたものではないと聞く。そのはずだが、フォークを刺すとあっさり端から端まで貫通する。これは期待ができそう。

 えいやっと口に運ぶと、旨味が爆発した。

「んーっ!」

 頬を自然と抑えてしまうような味。すっかり固さを失った肉を噛みしめるたびに脂とスープが渾然一体となったものがにじみ出てくる。

「幸せ……」

 言葉がこぼれる。アトミールも、そんな私を見て幸せそうにしていた。


 †


 全く未体験の一日はあっという間に過ぎ去った。料理を中心に好評を博したものの、主に私の不慣れが祟った不始末もいろいろあった。お客さんに入れるお茶を目の前でこぼしたとか、寝具の向きが滅茶苦茶だったりとか。でも、それももう終わった。彼らは早々に列車の方へ去って行ったし、私たちももうすぐこの宿を後にする。

「面白いもの見せて貰ったよ」

 私たちが慌ただしく立ち働いている姿は、宿の人からは丸見えだった。貴族が不慣れな商売をするというのは、出し物としては中々悪くないんじゃないだろうか。

「こちらこそ。いろいろご助力を頂きました。後片付けもきちんとできていませんし……」

「いいのさ。貰う物は貰ってるしね。それにしても、あの野郎の顔ときたら!」

 主人が笑うのに釣られて私も笑ってしまった。どうやらジュリフスさんは、私たちから代金を請求されることは想像していなかったらしい。

「そちらの宿の代わりを用意するというお話でしたからね。宿の代金を惜しんで他の貴族に縋り付く領主なんて言われたくないでしょうから、きっちり請求させて頂きました」

 貴族一人と随行者を泊められる宿を新たに作ることが、安く済むはずがない。私でも驚くような金額だったからジュリフスさんにも負担だったろうが、嫌味を言う程度できちんと支払ってくれた。もっとも、それだけの支払いをしているので、私の手元には殆ど残らないのだけど。

 本当はもう一日ゆっくりしていきたいくらいだけど、列車のほうが出発してしまう。疲労でぼんやりした頭を振って、私たちは宿を後にした。

「それじゃあ、また来ます。お元気で!」

 きっと、今日は車内でもよく眠れるだろう。

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