第19話「浴室にて」

 ティンさんが見つけてくれた宿は練岩造りの三階建てで、一部の窓には平滑で面積の大きな古代ガラスが使われている。今時貴族にだって手に入るものではない。こんなものが惜しげもなく使われている平民の宿だなんて、普通は考えられない。いかにも歴史がありそうだ。

「すごいねえ。高かったでしょう」

「いえ。思ったより安かったです。ただ、ご主人の眼鏡にかなった客しか泊めない、と。さ、入りましょう」

 そんな気難しそうな人を相手に話をまとめるなんて。どんな交渉をすればそんなことができるんだろう。ティンさんの頼もしい背中を追いかけて、私は宿へと足を踏み入れた。

 不思議な空間だ、というのが私の抱いた最初の印象だった。入り口は緩やかな上り坂になっており、その奥にはホールが広がっている。受付にはひっきりなしに人がやってきて何事かを話しているが、やがて肩を落として去っていく。私たちも駄目なんじゃないかと不安に思いながら受付に近づくと、主人らしい男の人が表情をほころばせた。

「おお、さっきの。準備はできとるよ。おおい、このお客さま方の荷物をお運びしてくれ」

 控えからすばしこい子供が二人出てきて、私たちの横に立つ。私とティンさんはそのうちの大柄な一人に荷物を預けたが、アトミールは戸惑っているようだ。

「遠慮しないで。この子たちの仕事なんだから」

 私たちの荷物を運ぶことで、彼らは日々の糧を得ているのだ。変な気の回し方をするのはかえっていけない。昔、私も父さまに注意されたな。

 おずおずと差し出された荷物を小柄なもう一人が受け取ろうとして、よろけた。アトミールの背嚢が床に叩きつけられ、鈍い音を立てる。

 冷たい隙間風が吹いて、誰もが顔を見合わせる。しまった。彼女は私たちの代わりに重いものを運んでくれているから、荷物がとんでもなく重いのを忘れていた。とてもきまずい。

「やはり私が持ちましょう。よろしいですか」

 うなずくと、彼女は背嚢をつかんでから腰を落とし、小柄な少年と目線を合わせた。

「怪我はありませんか?」

 少年は小さく首を横に振った。彼女は柔らかく瞼を閉じてうなずく。

「怖い思いをさせてしまいましたね。申し訳ありません。この荷物はあなただけでなく、たいていの方にとって過大な重量です。あなたに責任はありませんよ」

「お姉ちゃんは、力持ちなの?」

 アトミールは微笑む。

「ええ、とっても。あなたくらい片手で持ち上げてしまいますよ」

 大柄な少年が近づき、ティンさんの荷物を少年へと差し出す。

「フューリ。こっち運んで」

 主人が手を打った。

「なるほどなるほど、こりゃあ口上に乗って正解だった。だがね……」

 主人の視線の先には、私たちの後ろで待つ人たちがあった。かあっと頬に血が集まる。

「す、すみません……。部屋に行きます……」

 私たちは縮こまり、少年たちに従って部屋へと向かった。


 †


 部屋はさほど広くないが、清潔だ。アミリス・オナーの宿と比べて調度は素朴だけれど、部屋自体の作りがすごい。古術学者垂涎だ。

「うふふふふ……。こんなに綺麗に錬岩が残って……窓枠は樹脂かなー……こんなに綺麗で不純物がなくて……。ガラスもつるつるだあ……。あ、ここは割れちゃったのかな。樹脂になってるね……」

「古術学関係になると見境なくなりますよね。荷物くらいおろしてもよいのでは」

 引き気味のティンさん。恥ずかしいけど、仕方ないじゃない。こんなに素晴らしい建物が今も実用されているなんて。とは思いつつも、言われたとおりに荷物をおろしていく。背嚢はあの二人が運んでくれたけれど、身につけているものは私自身でやらなければ。物凄いお姫さまなら別なんだろうけど。帽子と上着を掛け、剣を外す。

「質感が隧道のものと似ていますね。同じ種類のものかもしれません。自己修復性硬化礫という技術がありましたから、それではないですか」

「ありそう。隧道も練岩の持ちが異常にいいみたいだから」

 練岩は、石灰などを混ぜた原料に砂や砂利を加え、水を混ぜて固めたものだ。アトミールによれば、古代風には硬化礫と呼ぶとか。それはそれとして、彼女は今、とても気になることを言った。

「自己修復性って、何?」

「材料自体が自身の損傷や欠陥を修復するんですよ。ある意味、私もあなたも自己修復性ですね」

 それじゃあまるで、建物がまるごと生き物みたいだ。アトミールのような存在を生み出すこともできたのだから、建物に命を吹き込むくらい簡単なことだったのかもしれない。

「業服も着換えちゃおうかな。ちょっと待ってて」

 寝室に移って残りを着換える。業服は野外用の服だから、ごわごわとして綺麗に畳みにくい。なんとかそれらしい形にまとめて棚の上にどさりと置くと、土埃が舞う。ううん。汚い。明日には出るのだから、早く洗濯を頼まないと。うん、すごいぞ私。リミーがいなくたって予定が立てられる。

 予定と言えば。一人きりになった機会に、私はこれからのことを考える。アミリス隧道はまだまだ長い。その最中に再びの襲撃はあるだろうか?

 ありえないとは言えないと思う。何しろ逃げ場がない。太古の技術を持つ彼らがその気になれば、隧道ごと私たちを生き埋めにしてしまうことだってできるかもしれない。そう考えたら怖くなってきた。隧道を調査した何百年かあとの学者たちに、隧道の崩落に巻き込まれた哀れな犠牲者の骨として拾い上げられるのはまっぴらだ。

 奇妙なのは、アルスパリアと名乗った彼女の動きだ。彼女は、許可のない限り人を傷つけることができないらしい。その態度からは、追っ手が随分と人間思いの存在であるかのようにも思える。そうかと思えばアトミールを狙ってヒンチリフへ戦いを仕掛けてきたように好戦的なところもある。わけがわからない。

 訳がわからない問題に立ち向かういくつかの方法のうちの二つ。問題を分割する、視点を変えてみる。

 個別の問題と考えて、それぞれの背景を考えてみてはどうだろう。追っ手を追っ手という一つのものと考えず、内部に複数の勢力があると考えてはどうだろう。アルスパリアは比較的好戦的でない派閥を代表していて、ヒンチリフを狙った海賊は、比較的好戦的な派閥の差し金。ありそうな解釈ではあるけれど、いまいち根拠が薄い。

 こうなると、方法の中で一番消極的な方法を取るしかないだろう。つまり、一端棚上げする、だ。業服のポケットに入れっぱなしだった手帳を取り出して、このことを覚え書きに書き加えておく。

「クロエさん。私も着換えたいんですが、まだ掛かりますか?」

 ティンさんの声だ。

「待って! もうすぐ!」

 返事をして、私は着替えを急いだ。


 †


 扉を開けると、涼しい風が肌をくすぐった。その風には、仄かな硫黄の香りが混じり、切り出した岩で作られた湯船には、湯気を立てる乳白色の温泉が満ちている。眼鏡を外したせいでぼやけた視界だけが残念だ。

「これが……」

 ティンさんが隣で息を呑んでいる。温泉なんて何年ぶりだろう。私も平気な顔をしているが、内心は今すぐにでも飛び込みたい気持ちでいっぱいだ。貸し切りだから、思う存分満喫できるに違いない。気持ちを抑えて洗い場を目指す。

「あれ?」

 振り返ったとき、着いてきた二人が着衣のままであることに気がついた。

「もしかして、硫黄は駄目?」

 アトミールが機械だということを忘れていた。金属は硫黄で駄目になってしまうから、彼女も苦手なのだろうか。

「そんなことはありませんよ。人の到達できない環境での活動も想定されている私がこの程度の環境で損傷するというのは過小な評価です」

 なんだか不機嫌そうだ。アトミールは自分の能力を疑われるとむきになるところがある。物腰は柔らかいけど、結構自尊心が強いんだよな。

「じゃあ、どうして?」

「ヒンチリフでの入浴は各自でしたから、そのような文化なのかと思いました。違うのでしょうか」

「うーん。それはねえ……。身分が違うから、人の目があるときはそうしないといけないんだよね。ティンさんも、それで遠慮しているんでしょ?」

 ティンさんが小さく頷いた。

「折角貸し切りで、誰も見てないんだから。どう?」

 しばらく迷ったようだったが、ティンさんは脱衣所に戻っていった。アトミールもやはり、その後ろについて行く。

 浴室には二つの浴槽がある。一つは大きく、温泉で満ちている。残りはそれぞれ洗い場に置いてある。小さくて、真ん中に椅子と柄杓が置いてある。ここに腰掛け、柄杓で湯をすくって洗う。身体をお湯が撫でるたび、土埃でざらついていたものが滑らかさを取り戻していく。私の身体というものは、本来こういうものなのだということを思い出していく。しかし、石鹸を泡立てて身体を擦れば、それすらもまだ垢と脂によって汚れたものだったということがわかる。ああ、こんなことが毎日できたなら、どんなにか幸せなことだろう。

 夢中になっている間に洗い終わってしまった。誰かを待たせているかと振り返ると、アトミールと目が合った。隣の洗い場から水音がするから、ティンさんが使っているのだろう。

「ごめん。お待たせ」

 栓を抜いてお湯を捨てる。脇にある蛇口の栓を抜けば、宿の人が溜めてくれたお湯が代わりに流れ込んでいく。

「いえ。私はすぐに終わりますから」

 なんとなくそんなことを言うような気はした。彼女のことだから、目にも留まらぬ速さでやってしまうことだろう。それを傍観しているのは、なんだか悔しい。

「手伝ってあげる」

 私は洗い場に足を踏み入れた。


 †


 待ちに待った温泉に身を浸す。身体中の凝り固まったものが解されていく感覚。先程清めたのはあくまで身体の表面だけだったのだと直感する。

 向こうにはティンさん。隣にはアトミール。思わずため息をつくと、アトミールが私の方を見た。

「快適ですか?」

「もー、凄いね。アトミールは?」

 彼女は人ではないから、きっと感じ方も違うだろう。

「不快ではありません。興味深いですね。水とは感覚が違います」

「ちょっとぬるっとしてるよね。どうしてなんだろう」

「粘度の違い……でしょうか。私もさほど詳しいわけでは」

「ティンさんは何か知ってる?」

「知らないですね。流体は応用が難しいのでうちの教室では盛んではないですし」

 確かに、メトノル先生は基礎研究に興味が薄そうなイメージはあるな。

 話が途切れた。湯気と近視でぼやけた視界ごしに二人のシルエットを見る。ちょこんと座るティンさん。もともと小柄だから違和感はない。一方のアトミールは相当背が高いはずなのに、そのイメージよりは小さく見えた。たぶん、座高が低いのだ。言い換えれば、足が長い。凄いな。見た目的には平凡な私が隣にいるから、ティンさんの方から見れば尚更引き立つだろう。

 こんな人が私の従者だなんて。本当にそんな資格が私にあるんだろうか。

 余計なことを考えてしまうのは、のぼせたからに違いない。

「ちょっと涼むね」

 そう告げて、湯船から腰を上げたとき、ティンさんの口からとんでもない事実を聞かされた。

「そういえば、夕食の時には主人やお客の前で一芸を披露することになっています。そろそろ何をするか考えておいてくださいね」

 え? 聞いてないんだけど?

「どんな手を使ってもいいから良い宿を抑えて欲しいということでしたので。言うのが遅れてすみません」

 さほど悪びれた様子もない。優秀な調査助手に全権を与えるということの意味を、私はこのときはじめて思い知らされた。

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