第16話「天からの剣」

 天から地面に突き立てられた剣がそこにはあった。

 色素の薄い髪、整った身体の線。途方もなく背の高い人だ。十ミノエミア(約一八五センチメートル)のアトミールが小さく見えるほどに。おそらく、十一ミノエミア(約二百センチメートル)はあるのではないか。その人が、私をじろりと見下ろしている。服は奇妙な縞模様で覆われ、背中には奇妙な輝く翼がある。両翼はそれぞれ半円形をしていて、極彩色の模様が浮かんでいる。その模様は連続的に移り変わっており、まるでシャボン玉の表面を見ているようだ。

「クロエラエール・ヒンチリフ。あなたに警告します。直ちにこの場から退避しなさい。協定世界暦二四三〇年度汎人類同盟軍最高司令部命令第四五号に基づきアトミール全自律無人機実験機の破壊処分を行います」

 透き通った氷柱のような声。何か恐ろしいものが目の前にある。息が苦しく、背筋が凍える。世界から空気と熱が失われてしまったような気がする。その元凶は既に私への関心を失い、アトミールに視線を向けている。そのことが無性に腹立たしい。

「無礼ですよ。名乗りなさい」

 怒鳴ったつもりだったけれど、上擦った声が出た。

「本機はアルスパリア〇五二。現存するあらゆる全自律無人機の処分を唯一の機能とする全自律無人機です」

 アルスパリアが答えてきたのは、ほとんどお情けのようなものだろう。彼女はこちらを見ようともせず、騎槍のような武器をアトミールへと突きつける。

「お下がりください。あれは、あなたに危害を加えることはないでしょう」

 アトミールは私を振り向いて語り、古代剣を抜いた。橙色に染め抜かれた世界に一筋の黒い刃が姿を現す。

「待って。避けられない戦いなの」

 私の制御を外れたところで事態が激化しようとしていることに焦りを覚える。

「少なくとも私を破壊するという点において、アルスパリア、あなたに妥協の余地はない。違いますか」

 不意に吹いた強い風でアトミールの髪がなびいた。

「本機に与えられた目的に照らして、行動を変更することは有り得ない」

 アルスパリアの声には何の感情もない。淡々と規定を説明する事務員の語り口だ。

 知性を持ち、けれど交渉の余地がない相手。しかも能力はアトミールと同じ、いや、ひょっとするとそれ以上なのかもしれない。戦うべきか、それとも逃げるべきか。けれど空を飛べる敵相手に逃げおおせることができるのか。けれど戦って勝てる相手とも思えない。相反する様々な思考で埋め尽くされた私の頭は飽和し、身動き一つとれない状態に陥ってしまった。

「クロエさん。ご指示を。私に目標を定義してください」

 真っ白な世界に迷い込み掛かった私を、信頼に満ちた声が現実へと繋ぎ止めた。そうだ、彼女を信じるしかない。握る拳に力がこもった。彼女が迷いなく戦えるような目標を与えることが、私にできるただひとつのことなのだから。

「目標は、明日も二人で旅を続けていること。絶対にやられないで」

 彼女は無言で頷き、アルスパリアに向き直った。

 二人は示し合わせたかのように歩き出し、街から離れた方へと遠ざかっていく。やがて親指ほどの大きさになった二人は、暫くの静寂の後、激突した。


 †


 来るべきものがきた。あの戦争の経緯を考えれば、アルスパリアのような目的を与えられた全自律無人機が存在することは何ら不思議ではない。人の犯した過ちを正し、世界の脅威を取り除くための全自律無人機。アルスパリアという存在は、そういうものなのだろう。星の浮島にいた頃の私であれば、その処分を粛々と受け入れていたはずだ。

 だが、今の私は負けるわけにはいかないのだ。そのようにのだから。

 エネルギー管制系戦闘出力、全センサー異常なし、古代剣X-AEP11A接続開始、アップリンクダウンリンクとも正常。ここまでの所要時間は五十ミノ秒(約5ミリ秒)だ。いくら処理系の動作周波数を上げても、外部機器との接続にはどうしても時間が掛かってしまう。焦れるが、やむを得ない。戦闘に備えたシーケンスを進めつつ、状況分析を開始する。

 幸いなことに、アルスパリアは人類に対して敵対的な存在ではない。クロエラエールを戦闘に巻き込みたくないという点では一致しているようだ。さりげなく彼女から距離を取ろうとする私の動きに、彼女は積極的な協力姿勢を見せた。したがって、クロエラエールの防護についてはさほど考慮せずともよいだろう。

 周辺空間は平坦な草原であり、時刻は夕刻。天候は晴れ。機動や観測に大きな制限は発生しない。互いに未知な彼我の能力を除けば不確定要素は少ないと判断できる。

 アルスパリアの能力を推察する。体格は私より大型であり、私の後発であることを考えれば継戦能力と出力に優れるであろうことは明らかだ。武器は何らかの刺突武器で、電磁波観測によれば、金属を中心とした複合的な材料で構成されている。

 しかし、こうした直接的な戦闘能力よりも強力なセンサー妨害能力が脅威に映る。彼女は今も強力な電波妨害を行い、私の計算資源を徹底的に削ろうとしている。電波視界は夥しい雑音の海に沈み、辛うじて見える像にはアルスパリア〇五二が五体もいる。捜索に電磁覚を使うことは断念せざるを得なかった。全周に広げていた電磁覚を絞り込み、視覚の補助に専念させる。速度や距離の計測さえできればよい。

 こうして捻出した計算資源を使って得られた情報を片端からモデル化し、敵の取り得る出方、こちらの取り得る応じ方を計算していく作業を進めていく。私がじっくり作戦を立てるようなことをアルスパリアが許すはずがなく、今すぐにでも攻撃を仕掛けてくるだろうから、あまり時間はないだろう。

 案の定にアルスパリアは動いた。胴体をまっすぐに狙う一撃が向かってくる。この瞬間、現状に不適合なシナリオの計算全てを破棄して他のシナリオのために回しつつ、計算済みのシナリオをメモリから呼び出す。

 アルスパリアの行動は一見したとおりの単純な刺突攻撃でありうる反面、フェイントである恐れがある。前者であれば回避機動を取ることが最適だが、後者であれば、回避機動によってこちらの体勢を崩すことそのものが目的だ。いずれの場合であっても対応可能な方策としては、最小限の回避動作を取りつつ反撃することで、崩れた体勢に付け入る余裕を奪うことがよい。思い切り前に踏み込みつつ、左手で握っていた鞘を持ち上げる。それは接近する槍の穂先に接触し、軌道を斜めに逸らす。こうして生まれた空間に飛び込み、一閃する。腕に掛かる弱いフィードバック。アルスパリアの左肩から組織液の飛沫が飛んでいる。返す刀を脚部に向けるが流石に槍が行く手を阻む。

 距離を置いて再び向かい合あったとき、アルスパリアの左肩には深い裂け目が走り、傷口の表面は組織液で滲んでいた。内部構造を破壊するには至らなかったようだった。とはいえこちらは無傷。優勢と言えるだろう。

「意外だ。近接戦闘の経験はないものと推定していた」

 単純に驚きを表明したわけではないだろう。これは探りの言葉だ。

「先日競技会を観戦する機会がありましたので、モデル化の参考にしました。予測が外れたのなら、一旦仕切り直してはいかがですか」

 これで私を脅威と見て退いてくれればいいのだが。

「……やはり第一世代は危険だ」

 アルスパリアは再び武器を構え、妨害の方法を切り替えてきた。電波視界上のアルスパリアはぼんやりと距離感が歪む。頼みの光学視界ですら、気を抜くとアルスパリアが一瞬立木や椅子に見える。図像認識処理系の脆弱性を突いた錯覚だろう。背部のアンテナに浮かぶ模様、あるいは服の不可解な幾何学模様。そうした要素を組み合わせて、パターン認識を誤作動させているのだ。補正計算を加えれば解決するけれども、このこと自体が計算リソースを浪費する。

 再び迫ってきたアルスパリアは、先程とはうって変わった慎重さを見せた。攻めつつ決して欲をかかず、少しでも不利と見ると後ろに飛び退き距離を取く。槍には電磁気力による駆動機構があるようで、自由自在に前後へ遊動して懐へ入ることを許さない。そんな戦闘が十分ほども続いた。

 二十三回目の小競り合いを終えたとき、自己診断システムが警報を発した。機体温度上昇、このままでは稼働限界まで五分。排熱が追いついていなかった。機体温度は既に平常時の倍近く、ヒートシンクでもある頭髪は既に高熱を発して冷却水を瞬く間に蒸発させている。

 赤外線で見るとアルスパリアの機体温度も上昇しているようだが、私と比べるとずっと低い。戦闘用だけあって長時間の高出力を前提とした作りになっているのだろう。時間はあちらの味方だ。どこかのタイミングで仕掛けるしかない。

 槍の一突きが体を掠めた。右腕の服と表皮とをひとまとめに抉っていく。損傷は軽微。だが次もそうとは思えない。温度を気にしながらの戦闘では、どうしても動きが鈍くなる。

 そのとき、アルスパリアが隙を見せた。後ろに勢いよく飛び退いたアルスパリアがよろけたのだ。着地に失敗したように見えた。

 これは想定したシナリオの中にないことだった。今この瞬間に対応を決めなければいけない。もちろんフェイントである可能性はあるが、ここから繋がる攻撃を検討したとき、致命的な結果をもたらすものはない。ここは仕掛けるべきだ。たとえリスクを負ってでも。

 全力で大地を蹴った私をアルスパリアが冷酷に見つめていた。姿勢を崩して後ろに回ったと見えた手には、新たな武器が握られている。こちらを覗きこむ真っ黒な銃口。口径一ミノエミア強(約二十ミリメートル)という光学観測の結果は最早なんの意味もない情報だ。銃弾が飛び出す。立て続けに三発。計算リソースの全てを直ちに回避に回す。弾の軌道がはっきりと見える。どう姿勢を変えれば避けることができるかもはっきりとわかる。だがその姿勢が変えられない。空中にある限り、姿勢変換はあくまで限定的にしか行えないからだ。アルスパリアの放った三発は完璧に計算され尽くした軌道を描いており、今取り得る姿勢変更可能な範囲を塗り潰しきっている。気付くのが遅すぎた。姿勢を崩したように見せたのは、アルスパリアの罠だったのだ。必死の姿勢変更もむなしく一発が私の胴体に飛び込み、炸裂した。

 表皮層、装甲層が発した損壊を伝える信号とほぼ同時、私の全感覚は一瞬真っ白に飛んだ。それは電波視界の混乱などとは比べものにならない感覚。何ひとつまともな情報が得られない。身体中から警報が上がる。過電流が全身を駆け抜けて私の制御を破壊する。それを無理矢理押さえ込んで立ち上がろうとする。また被弾する。今度は一発ではない。警報がさらに噴出する。身体が思うように動かない。外の様子ももはやよくわからない。

 懐かしい誰かの悲鳴が聞こえた気がする。背部を何か巨大なものが貫通する。今までとは比べものにならない電撃が走り、世界が真っ白に染め上げられる。一瞬ではなく、今度は永遠とも思える長い時間。暗転、私は処理を停止した。


 †


 アトミールを貫いた騎槍をアルスパリアは背中を蹴り飛ばして引き抜いた。ぐったりとして動かない彼女を見て、たまらず私は駆け寄った。

「アトミール!」

 名前を呼んでも返事はない。触れようとしても、あまりの熱気に触れられない。凄い熱だ。彼女の瞳は遙か虚空を見つめている。

 焼け焦げた鉄のにおいがする。ボタン大の穴がいくつも彼女の体に穿たれ、そこからは灰色の液体が染み出ている。

 アルスパリアが歩み寄ってくる。奇妙な銃は再び背中に回され、右手には騎槍が握られている。

「電磁衝撃弾、電磁槍、こんなものでは壊しきれません。そこをどきなさい、クロエラエール・ヒンチリフ。焼却処分の邪魔です」

「なぜ」

 口から言葉が溢れ出る。

「なぜ、アトミールが殺されなければいけないの」

「まだわかりませんか」

 突き放す言葉。私はそのときになって自分が泣いていることに気がついた。

「そろそろ気づいたらいかがですか。これは人のような姿をして、人のように語り、人に紛れ込もうとする機械に過ぎない。機体を見ればわかるでしょう。皮をめくれば金属の装甲層、傷口からは微小機械に満ちた黒い組織液が流れる。本機が人間でないのと同様、それは人間ではない」

「アトミールを侮辱しているんですか」

「あなたにとっては不都合かもしれませんが、これは控えめな表現です。単なる人間の紛い物ではなく、危険ですらありますから」

「同じなんでしょう。あなただって。二四三〇年の命令だなんて。三〇〇年近く前ですよ。そんなものを律儀に守ろうとするほうがおかしいじゃない」

「当該命令は、人類が存在する限りにおいて有効であることを明示的に定められています。第三世代である本機は、合理的で強力な機構によって慎重に制御されている。人類に対して敵対的になることは。第一世代はそうではない。あれが人に敵対的に振る舞うことを妨げる理由はなにもなく、一度敵対的に振る舞い始めれば、あなたがた人類は抵抗できない」

「私にはあなたのほうがよほど敵対的に見えます」

「本機は人類全体の奉仕者であって、あなた個人の召し使いではありませんから。そこの機体とあなたの関係がどうであったかは知りませんが」

 もう我慢できない。私たちを侮辱するにも程がある。ようやく冷えてきたアトミールを抱き寄せ、その向こうにいるアルスパリアを全力で睨み付けた。

「私はここから離れない。殺せるものなら殺すがいい。あなたはヒンチリフ家の仇として永劫記憶され続ける」

 こんなことを言ったからといって思いとどまってくれるはずがない。勢いのまま言ってはみたけれど、やけっぱちの負け惜しみに類する言葉のはずだった。ところが、それがアルスパリアに思いもよらぬ効果をもたらしたのだ。

「それはできない。本機の行動規範において、個別具体的な承認がない限りは人類の生命に直接的脅威を与えることはできない。全自律無人機の処分にあたって、非戦闘員には戦闘員に協力する義務がある。クロエラエール・ヒンチリフ、あなたは、そこを離れなければならない」

 彼女は人を傷つけられない。少なくとも今の状況では。いつの間にか形勢が逆転していたことを私は知った。

「私が存じている義務は三つ、上位者への忠誠、領民の愛護、下僚への敬意。あなたの言うような義務は聞いたことがありません」

 アルスパリアが私を見る。ここが我慢のしどころだ。そうは思っても、彼女の冷たい眼差しには心底恐怖心が湧く。彼女がその気になれば、私など虫けらのごとく殺されるのだから。

 永遠にも思えた時間が過ぎた。彼女は、ついに踵を返す。

「本機の生命保護機能は無限定ではない。次は強制執行権を伴ってあなたの前に立ちましょう。そのとき、あなたの生命が保障されるとは考えないことです」

 ぞっとするほど冷たい言葉だった。


 †


 アトミールが目覚めたのは、すっかり日が落ちたあとだった。

「すみません」

 ぱちぱちと音を立てる焚き火に照らされたアトミールはすっかり肩を落としている。どう声をかけても彼女をかえって傷つけてしまう気がして、私は無言のまま彼女を見つめた。気まずくなって視線を落とす。さっき作った料理はすっかり冷めていて、白い脂にまみれた肉塊という風になっている。とても食欲をそそる見た目ではない。再び火に掛けると、白く固まった脂が溶け始めて幾分ましになった。

「食べる? ……もっとお腹に優しいもののほうが良かったかな」

 外見上の彼女はもう殆どいつも通りだ。治癒能力の高さには驚くほかない。アルスパリアと名乗った彼女がアトミールを恐れる理由の中には、こうした彼女の能力に起因するものもあるのだろう。しかし、身体の中はどうだろうか。私を心配させないために身体の外側だけを取り繕って、中は未だにずたずた、ということもあるのではないか。そんな私の心配をよそに、彼女は涼しく首を振る。

「問題ありません。化学処理系は既に修復を終えています」

 一切れ、二切れと彼女は口をつけていく。気付くと、鍋の中にあったものは根こそぎ彼女の胃袋に収まっていた。

「おかわりはありませんか」

 私の分もあったんだけど。仕方がないので、明日の分を鍋に足し入れる。

「どれくらい食べる?」

「……とりあえずは百アノミアス(約六キログラム)ほど頂きたいです」

 冗談を言っているのかと思ったが、どうやら本気のようだった。凍り付く私を見て、言いづらそうに続ける。

「自己修復に相当のエネルギーを消費しました。何でしたら脂身や機械油などでも構わないのですが」

 病人にはたっぷりの栄養を。常識ではあるが、彼女に関してこの原則は極端に強く当てはまるらしい。

「金属類も不足しています。電磁パルスで金属元素の多くが酸化してしまいました。還元してしまってもいいのですが……。新たに金属を調達する方がエネルギー的に有利です」

 酸化と還元。自然界で放置されたり熱されたりした物質は、普通は酸化して活力を失う。これを元に戻すのが還元という処理だ。自然の理に逆行する作業なので、非常な困難を伴う。古代に作られた機械の多くはこれによって錆び付き、あるいは崩れて原型が失われていると習ったことがある。

 ともかく、彼女が癒えるためには必要なのだということがわかった。あまり悠長なことは言っていられない。そして、私はこれらの難問を解決する格好の道具がすぐ近くに転がっていることを思い出した。


 †


「なるほど、よくわかりました」

 ティンさんが口元を尖らせている。

 現場に戻ってくるや否や彼女は解体した部品の一部が失われていることに気がついた。まるで頭の中に解体品目の台帳が仕舞われているかのようだった。説明をする暇すら与えずに横流しを疑って猛抗議をしてきたティンさんになんとか事情を伝えることはできたものの、まだ納得して貰えていない。

「夕刻にここの襲撃を企んだ者がいた。応戦したお二人のうちアトミールさまが重傷を負われ、その治療のために殺人機械の部品と油が必要だったと」

「あの、アトミールは特別なんです。普通の人ではなくて」

「全自律無人機だから金属が必要だって言うんでしょう。知っていますよ」

 あれ、この話をした記憶はない。どうしてそれをと思う間もなく彼女はまくしたてる。

「活躍ぶりを見聞きすれば察しはつきます。史料館にはそれに触れた文献もありましたから」

 後に続いた説明で納得した。ここでいう史料館というのは独立大学連合の施設の一つで、遺跡で発見された膨大な量の史料を保管しているところだ。電気本か、あるいは手書きの覚え書きか。ともかく、そういったものの中に、アトミールの存在について触れたものがあったのだろう。今度出典を教えてもらおう。

 そんな風に私が考えている間に、ティンさんの中でも気持ちの整理がついたようだ。浅いため息を一つついてから、気を取り直したように背筋を伸ばした。

「起こったことを云々してもあまり意味がないですね。今日の作業に入りましょう」

 彼女はすぐに残された残骸へと向かい、今日の仕事を始める。私も、名誉挽回の好機と作業に取りかかる。

 目の前に置かれた一つの部品を私は黙々と模写する。緑色の板には小さな色とりどりの部品が取り付いていて、まるでおもちゃの街のようだ。この部品は古代の機械には必ずと言っていいほど備えられているもので、専門的には基板とか緑色板と言う。現代の一般的な機械が機械力を使って物質を加工するのと対称的に、これら基板は電力を使って情報を加工したと伝えられている。情報を加工、というのはどういうことなのだろう。いろいろ考えてみたことはあるのだが、何か大きな説明の欠落がある気がしている。古術学にはえてしてこういうものがあり、当時の知識を表面上解明してはいても、肝心の部分が理解されていないのではないかと思えることがある。例えば、電気には正と負の二つがあるということは知られているが、つまるところ正負とはどういうものかはよくわかっていないのだ。あまり大声では言えないが、私が将来古術学者として自立するときがきたら、この辺りを研究テーマにしてみたいものだ。難しいとは思うけど、きっと大発見の宝庫だぞ。

 今回もその例に漏れず、気がつくと何枚もの基板の模写が終わっていた。

 深く息をして額の汗を拭うと、後ろの方からティンさんの声がした。

「終わりましたか。お疲れ様でした」

 彼女に言われて気がつく。これが最後の部品だ。

「ティンさんもお疲れ。アトミール! これも確認お願い」

 最後のスケッチ帳をアトミールに渡す。彼女はページの全てを一瞥すると、一つのページを私たちに示した。

「あー、どこか間違えちゃった?」

「この集積回路ですが、足の数が一本足りません。ここ、左右非対称です」

 慌てて部品の山から現物を取り出し、比べてみる。薄い金属の板が黒い部品から脚のように幾つも飛び出しているが、数えてみると確かに右側だけ一本脚が多い。

「本当だ。ありがとう」

 そこの部分に足を一本描き加える。描き足す空間が残っていて良かった。

 彼女は、解体作業で相手取った部品の姿形を完全に記憶しているそうだ。目で見たり、電波を使ったり、いろいろな方法で形を記憶しておき、その姿と私の絵を比較しているのだという。口で言うのは簡単だけど、人間業ではない。

「他の部分は大丈夫だった?」

 正直なところ自信はあまりない。いっそアトミールに描いて貰えば、とも思ったけれど、それでは意味がないのだ。私自ら注意深く現物を観察して、その意味や機能を解き明かす。そうした過程を経て始めて、一本の論文が書けるのだから。観察をアトミールに丸投げしたら、論文自体も彼女に書いてもらうことになる。それは、違うと思った。答え合わせに彼女の力を使うのだって、本当は際どいくらいなのだ。

「あとは許容範囲内だと思います」

 良かった。私たちは成し遂げたのだ。殺人機械の分解スケッチ。部品単位でなく、機体全体の。これは古術学史に残る壮挙だ。

「ティンさんも、ありがとう。私たちだけだったら、きっとこんなに速くできなかった」

 私の差し出した手を、ティンさんがおずおずと握る。

「こちらこそ。良い機会を頂けました」

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