第2章「未知敵対者」

第10話「二つの港湾都市」

 電波事件は私たちを大いに緊張させたが、翌日以降特に何かが起こるということはなかった。二週間の航海を終え、船は無事アミリス・オナーの沖合に錨を降ろした。

 艀からは市街の様子が一望できる。大通りには市が立ち、人々が盛んに売り買いをしている。市場の活気に関してはヒンチリフもここには遠く及ばない。その活況がよほど物珍しいのだろう。アトミールの視線が目まぐるしく動き回る様子は、まるで初めて海に出た人のようだ

「面白い?」

「意外です。こんな規模の港湾都市があちこちにあるんですか」

「ううーん。連邦西岸だとヒンチリフとアミリス・オナーくらいだよ。他はずっとちっちゃい」

 つい最近までヒンチリフもの一角に過ぎなかったのだ。彼女にもっとヒンチリフのことを知ってもらいたい。そのための問いかけを口にしようとしたとき、先んじて彼女が私を見た。

「ですが大型船は入港できなさそうですね」

「え」

 思わず変な声が出た。

「海峡部であるようですから海流が早そうです。それにあの茶色い川、随分と土砂を運んできているでしょう。水深が浅いのではないかと思いまして。……当たっていますか」

 答え合わせをする彼女を見て私はケイレア湾よりも深いため息をついた。

「当たり。言おうとしてたこと全部先越されちゃった」

 彼女の瞳が揺らぐ。岸壁で私の言葉を先回りしたときのように、また私が臍を曲げると思っているのかもしれない。でも、ちがう。こんな話ができる相手が目の前にいるという事実を前にして、胸の内に熱いものがほとばしる。

「この街はヒンチリフよりずっと古い街なんだ。崩壊戦争よりも前、その前の戦争よりも、前の前の戦争よりも前からあって、港町として栄えつづけてる。そう伝わってる」

 小さく頷きを返されて、伝承に誤りのないことを知る。

「だけど底がすごく浅いんだ。ひどいとこだと足がつくくらい。だから外洋向きの船は入れなくてね。ほら、ああいう船になっちゃうんだよ。オナー船って言うんだけどね」

 オナー川の河口に浮かぶ船を指差した。その船はずんぐりと太く、城のように背が高い。喫水を深くできないから、その分上に伸ばして荷を積んでいる。外洋の大波を横から受ければひとたまりもないだろう。大河を往来したり、岸間近を航行して荷を運ぶことにのみ特化している」

浚渫しゅんせつは困難なのですか」

 航路上に視線を走らせる。

「やってはいるよ。でもね、大型船を安全に入れるには人手が全然足りないんだって」

 これは以前この街を訪れたとき聞いた話だ。浚渫工事は年中行われ続けているものの、現状維持がやっとだという。

「あなたならどうやって解決する?」

「そうですね」

 彼女は軽く首を傾げて、小さく微笑んだ。

「そもそも土砂の流入が問題なわけです。川を付け替えてしまうというのはどうでしょう」

「この幅の川を?」

 もう何を言われても驚かないぞと心の準備をする。

「古典的ですが、再帰製造法で自律建機を量産するのがもっとも高速でしょう」

「つまり、どういうこと」

「自分自身を作ることのできる工場を建設します。例えば十日間で自分自身を作れるとすれば、一ヶ月後には十六の工場が完成します。あとはこうして増殖させた工場の一部に自律建機を製造させればよいです」

 まるでオカモグラが殖えるように工場が殖えていく様子を思い描いて、覚悟していたとはいえ頭が痛くなった。ともかく、理屈はわかる。理屈はわかるけど、そんなことが本当にできるのか。できるんだろうな。彼女なら。

「工場を作るための材料や燃料はどうやって用意を――それも工場が作ればいいのか。なんだか目が回りそう」

「問題は真独立型微小機械の無制限使用許可が必要なことですね。現実的ではありません」

「真独立型……ええい、それを使うのって、どうしてそんなに難しいの?」

 彼女の眉が微かに動いた。

「問題は制御の困難さです。真独立型微小機械とは、一切人の介入なく増殖し、かつ自分を変化させることができるような微小機械です。これで理解できますか」

「ええと……」

 考えてみる。微小機械というのは、人の目に見えないようなとても小さな機械だという。それは人とお構いなしに数を増やすことができて、しかも姿を変える。それは、まるで――。

 生命を司る女神イオミアは底意地の悪い神で、生き物たちを互いに争わずにはいられないように作った。大は海獣たち、小は目に見えぬほどに小さな微生物まで、例外はない。草花のように積極的に他者を襲わない者もあるけれど、それでも無防備なわけではない。毒、棘によって、あるいは蜜という対価によって雇われた同盟者がその身を守る盾となっている。さて、微生物がその人やその他の獣たちのように大きな生き物を相手に戦いを挑むとき、どのようにするか。体内に潜り込み、内側から急所を狙う。斃れた者の肉を食らって増え、武装を強化し、次なる犠牲者を目指す。これこそ疫病の根源だと言われている。現代の技術では実際にこの伝承を確かめることは殆どできないが、現に微生物を体内に入れないような工夫をするとお腹を壊したり風邪を引くようなことが減るようだから、大筋では古代の正しい知識を伝えているのだと思う。

 真独立型微小機械というのは、疫病の源となるような微生物と特徴がよく似ているようだ。とても小さく、増え、より強くなる。もし、イオミアの呪いが命あるものだけではなく、命があるように振る舞うものをも捕らえるのだとしたら。

「疫病? 体に入って悪さをするの?」

「そのようになる場合もあるかもしれませんし、ならないかもしれません」

 なんとも歯切れの悪い答えだ。そんな私の顔色を察したのか、していないのか。彼女は話を続ける。

「この予測不可能性こそが問題なのです。複製時のエラーが蓄積すれば、やがて周囲にあるものを見境なく分解して自分の複製を作るようになるかもしれません。そのようになったとき、これを滅することは前崩壊文明にあってすら困難を極めます。もし現代にそれが起これば、エミーラこの惑星は長い黄昏の時を迎えることになるでしょう」

 それは、あのときミューンを救ったが世界を埋め尽くす未来図だ。あまりにおぞましい光景と言っていいだろう。

 こうして、私は彼女が真独立型微小機械なるものに対して慎重な理由を理解した。けれど、そうしてみると新しい疑問が湧く。

「ねえ、アトミール。聞いてもいい?」

「どうぞ、なんなりと」

 小首を傾げたアトミールに促され、浮かんだ疑問を口にする。

「二つあるんだけどね……まず一つ。その真独立型微小……言いづらいね」

真独NELULという略称があったようです」

 助け船がありがたい。早速使わせて貰うことにする。

「そのネラルなんだけど、あなたの体もそれでできているんだよね。どうしてさっき言ったみたいなことにはならないの」

 彼女には珍しく即答しない。深く腰掛け直してから、私に向き直った。

「何重もの安全機能によって封じ込めています。私に使われている安全機構が破綻する危険性はおおよそ構成している微小機械数、つまり体積の二乗に反比例し、私の場合の危険性に関しては百年間で十の二十五乗分の一程度の確率と説明を受けました。無視して構わない水準です」

 古代の学術書などを読まないと到底登場しないスケールの数字だが、もうこの程度では驚かない。

「私から分離した微小機械に警戒が必要なのは、構成する微小機械の絶対数が少ないからです。私の監視範囲であれば一体として計算できますが、監視範囲から外れた場合、構成数が少ない個体ほど急激に危険性が高まります」

 体積の二乗に反比例する。つまり、彼女の背丈が十分の一になれば、危険性は百万倍だ。「這う泥」は十分の一のそのまた四分の一くらいだったから、つまり四億倍だ。

「実際にはネラル一つ一つの危険性も掛かるんだよね」

「その通りです。ですが安全のため、係数は一としても安全を担保できることが要求されていました」

 思った以上に慎重。万一の場合の危険性が段違いだからもっともなことかもしれない。

「ありがとう。よくわかった」

 彼女の顔がほころぶ。

「いえ。お役に立てたなら何よりです」

 きちんと彼女にお礼をしたのはそういえば久しぶりだったかもしれない。どたばたしていたものだから。もちろん私とミューンを助けてくれた件については私からも父さまからもきちんとお礼をしたけれど、今までの旅路で何度も助けて貰ったことについては、軽く流してしまっていた。

「どうかされましたか?」

 急に立ち止まった私を振り返った彼女の赤い瞳を見つめる。お礼は船を操るのと一緒。行き足がついていないと思ったようにできない。だから、思い立ったときにしておくのがいい。

「いままで、ありがとうね。私もミューンもあなたがいなかったらもう駄目だったし、そのあとも付き合ってくれて。模擬戦のときだって、あなたがいなければきっとあそこまで父さま相手に粘れなかった。旅支度の時だって……ほら、私、気がついてると思うけど……ああいう準備苦手だから、ちゃんとするのが上手いあなたがいて本当に助けられたよ」

 少し恥ずかしくなり、ちょこんと頭を下げる。その顔を再び上げたとき、彼女の顔は真っ赤になっていた。

「い……いえ。それは……あなたを使用者とする全自律無人機にとって当然のことです」

 こんな彼女は見たことない。そんなに? そんなに照れちゃうの?

 彼女はついと視線を逸らし、私の疑問に答えるように呟いた。

「皆さんにとって死活的な食欲、睡眠欲、性欲のような生理的欲求は私には重要ではありません。ですが、誰かに喜ばれるというのは……いけません。私の本質的な機能に直結していますので、とても刺激的なのです。……予測可能な状況ならともかく、先程の振る舞いはクロエさんの行動モデルを逸脱していました」

 いきなりだから驚いて素が出てしまった、というほどのことか。こうしてたじたじになっている彼女の姿は、普段の涼やかな印象との対比も相まってどうしようもなく愛らしい。彼女がお人形だったなら、きっと抱きしめてしまっていただろう。

「失礼しました。それで、もう一つご質問があるとのことですが」

 平静を取り戻した彼女が話題を引き戻しにかかる。このまま彼女を困らせるのも可哀想だ。

「ええっと、そうそう。私に案を出すとき、危ないものも全部出してくるのは何でかなって思って。黙ってようとは思わないの」

 ああ、と彼女の口から声が漏れた。

「使用者に諮らず道具が善悪を独自に判断して情報を取捨選択することは、むしろ危険ではありませんか?」

 折角血の通った彼女に触れられたと思ったのにすぐこれだ。私は胸の内でため息をつく。

「それに――人道上高リスクな選択肢も含めてあなたに提供することにはリスクを感じていません。信じていますから」

 いたずらっぽく笑う彼女。こんなタイミングで不意を突いてくるなんて。どうやら、手痛いを受けてしまったようだ。艀の行く手を見る。もうすぐ接岸だ。



 内宿場をしばらく歩いて宿を探す。十五分ほど歩くと小綺麗な宿が見つかったので、二間の部屋を借りた。値段はペクル軽銀アルミニウム貨で五枚。荷物を置き、夕食を求めて市へ向かう。目指すのは市壁の外、郭外に広がる屋台街だ。焼ける肉や香辛料の香りを楽しみながら目当てのものを探し回る。店の配置に秩序という概念はなく、まるで魔獣を閉じ込める迷路のような道のりを私たちはさまよう。

「宿で食べても良かったのではないですか」

 散々連れ回した末、アトミールの口から控えめな抗議の言葉が漏れた。

「ごめんね。折角来たからさ。外歩かないのは勿体なくて」

 私が弁解をしている間にも客を呼ぶ声が飛び交う。夕食を求める商人や船乗りたち、そして沖仲仕おきなかせたちがその声とにおいの源へと目掛けて群がっている。屋台の軒先に立つのぼりや看板には鮮やかな絵の具が駆使されていて、自慢の商品を力強く強調している。

 実のところ、当てもなくこの庶民的な市を徘徊しているわけではない。一つ、目当ての品がある。何年も前の記憶を辿って歩き回った末、ついにその品は見つかった。屋台幅一杯の看板狭しと描かれた円筒形のフォルム。私は今、火に引き寄せられる羽虫だ。

「二つください」

 言って初めて品物を見る。すすけた金網の上にごろごろと転がされているのは、串を刺された腸詰め焼きだ。ああ、あのとき食べたものに違いない。

「六トアムだよ」

 財布を開けて穴の空いた軽銀アルミニウム貨を探し、私は失敗に気付いた。トアムが一枚もない。穴のないペクルならあるけれど、これではお釣りは九十四トアムにもなってしまう。お店の人には大変な迷惑だろう。

 どうしたものかと迷っていると、じれったそうな声が頭上から聞こえた。

「お代がないならあげられないね」

「いえ、お代はあるんですが、その」

「じゃあ何だい。後ろがつっかえてるんだ。早くしとくれ」

 ええい、仕方がない。私はペクル硬貨を店主に突きつけた。

「後ろの人の分も出します!」

 店主はのけぞるようにして受け取った後、疑わしそうな目であらためはじめた。目の前でお金を検めるのは私鋳を疑われているようで気持ちよくはない。でも、庶民にとってペクルは安い金額ではないはずだ。私たちのような余裕のない彼らにとっては、仕方のないことなのかもしれない。

「確かに本物だ。いいよ、持ってきな」

 ようやく店主は口元を緩めた。差し出された腸詰め焼きを受け取り、私は意気揚々と近くの広場を目指す。

 多くの市がそうであるように、この屋台街もまた水運に頼っている。そのための小さな運河のほとりに、私たちの目指す名も知らぬ広場はあった。川に沿って点々と置かれた簡素な木の椅子には人々が腰掛けて食事を摂っている。私たちもその仲間に加わろう。なにしろ、持って帰っていたら冷めてしまって美味しくない。見つけた空席に腰を下ろすと、アトミールもそばの椅子に座った。腸詰めの一方を彼女に手渡す。もう待ちきれない。私は手短に食事の祈りを捧げてかぶりついた。

 美味しい!

 腸詰め焼きを食べたのはこれで三度目だ。最初に食べたときもこの街。用向きはよく覚えていないけれど、多分父さまの名代としてだったと思う。あの時は受け入れ側の手違いで商人向けの宿に泊まったのだけど、最初の日の夕食がこれだったのだ。内臓肉を使った下賎な料理なので、貴族の食卓に並ぶことは決してない。あのときは血の気が引いたものだったが、出された料理を口もつけず突き返すのは大変な失礼だ。せめて一口と思いきって食べたら、これが美味しかった。張り詰めた腸が噛みきられた瞬間弾ける肉汁、香草と塩の程よい味付け。

 庶民はこんなものを食べていたのかと思った。一瞬ずるいとすら思った。もちろんこれは理不尽で、逆に庶民は普段きちんとしたお肉を食べることなどめったにないだろう。彼らが手に入れることのできる範囲の食材で最大限工夫を凝らした結果なのだから。以来、私はこの街を訪れるたび機会があればこれを求めてさまよっている。

 夢中になって平らげてしまった。前に食べたときより辛めの味付けだった気がするけど、これはこれでいい。さて、アトミールは気に入ってくれただろうか。ぺろりと綺麗に平らげている。喜んでくれたようだ。そう安心したのも束の間、小さな違和感を覚えた。

「ねえ、変なことを聞くようだけど……串はどうしたの?」

 私の質問の意味をはかりかねたような間の後、手を打って言う。

「木質は不可食部でしたね。忘れていました」

 ああ、食べたんだ。そうか。

「……大丈夫なの」

「私の化学処理系なら問題ありません。時間は多少掛かりますが」

「……私のも食べる?」

 生き残りの串も哀れ口の中へと消えていった。彼女が人以外の何かであると思い知らされるのは力が強いとかとかよりもむしろこういうところだ。思いもよらず、私たちが当たり前に思っていることが当たり前じゃない。

「他の人の前ではやめといてね。面倒なことになりそうだから」

 空を見上げればもう夕暮れだ。早くも姿を現した速月は、すでに一度目の天頂に達そうとしている。そろそろ宿に戻ろう。市壁の方へと私たちは歩き出した。


 †


 宿に戻った私たちはベッドに腰掛け足を伸ばす。板張りの床には絨毯もなく、全体に飾り気のない部屋だが、調度はかなり上等なようだし手入れも行き届いている。元々貴族向けの宿だったものが、古びてきて払い下げられたものだろう。

「んーっ。十分十分。いいとこだね。ほら、座って」

 机の椅子を引いて私に向き合うように座る彼女をぼんやりと見つめながら、久々の揺れない拠点を楽しむ。目を閉じると感じられるゆったりとした揺れ。船乗りたちが陸酔いと呼ぶものだ。

「どう。これまでの旅は」

 こちらから水を向けると、彼女の目が輝く。

「これほど高密度の学習ができるなんて予想もしていませんでした。実環境では相互作用が途方もなく複雑になると聞いていましたが、まさかここまでとは」

「遺跡の中より物事が入り組んでるってこと?」

 あの真っ白で清浄な部屋を思い出す。あそこと比べたら屋台街なんて混沌の極致だろう。

「そうですね。遙かに多くの要素が登場しますし、振る舞いも複雑です。天体や空気のような自然環境、動植物類や道具、人々、それに、あなた」

 まじまじとこちらを見るものだから、恥ずかしくなって視線を逸らした。片隅の鏡台に私の姿が映っている。

「私って……別枠なんだ。その、他の人たちと」

 冗談めかして誤魔化す。返事はない。不安に思って視線を戻すと、先程と変わらぬ彼女の瞳があった。

「使用者であるあなたは、最も信頼性の高い教師データの供給元です。……あなたをそう判断したからこそ、私はここにいます」

 何を思っての言葉なのか。わからなくて、私は途方に暮れた。逃げ場を求めている私の耳に、階下からの喧噪が届いた。夕食の時間か。

「ご飯にしようか。下行こ」

 扉を開けると、隔たれていた賑わいと料理のにおいとが堰を切ったように流れ込んでくる。もともとホールだったのであろう一階部分はまるごと食堂になっていて、みっしりと並べられた無数の食卓で人々が料理を囲んでいる。神妙な顔をした外国風の男女が黙々とパンをかじっているグループがあると思えば、互いの肩を抱きながら高歌放吟している高級船員の集団もいる。階下に降りた私たちは、そんな人々の間をすり抜けながら、その一角に四人掛けのテーブルを見つけて滑り込むように座った。

「ご注文は?」

 中年の女性店員がいつのまにか私たちを見下ろしている。まるで最初から立っていたかのよう。テーブルには実に大雑把なお品書きが描かれた木の板が置かれている。魚、肉。料理そのものの選択肢はこの程度だ。パンとメインとスープ程度のシンプルなコース料理で、メイン料理だけをおおまかに選べるという趣向なのだろう。他に客に与えられた選択肢は、酒を飲むかどうか程度のもの。

「魚でお願いします」

「私も同じものを」

 店員は私たちの注文を聞くが早いか厨房に何か合図をした。

「お代はかごの中に入れておいて。料理を持ってきたときまでにね」

 テーブルの上に吊られた小さな編みかごを指差して彼女は風のように去っていった。あの身体の幅でどうしてこの狭い通路を難なく抜けられるのか。それはまるで手品のように見えた。

「凄いね。あの人」

 世に幾万の一芸ありなどという慣用句があるのを私は思い出していた。

「見てください。通路突出部との距離が百クロメミア(約一・八五ミリメートル)オーダーです。麦粒一つ分ですよ」

「そこまでは見えないよ……」

「あ、そうですね。すみません」

 しゅんと肩をすぼめるアトミール。体の大きさとちぐはぐな仕草が愛らしい。

「面白いからいいけどね。でも、それって疲れない?」

 アトミールは首を傾げた。

「何がでしょう」

「今の距離とかもそうだけど、私たちよりいろんなものが見えているんでしょ。なんだろうな、私たちより世界が見えているんだと思うんだよね。私だったら胸焼けしちゃいそうだなと思って」

 私は、世界の全てに数字が埋め込まれているのを想像した。例えばこの部屋にある全部のものの寸法が、距離が、色が、あるいはその他私の知らないような指標が視界を埋め尽くしている。それに、私たちには知覚できない電波のようなものについても同様なはずだ。情報の海に溺れてしまいそう。

 アトミールは何度か頷いてから言う。

「クロエさんは、張り紙の文字や壁の模様、すれ違う人の顔や服装、そうしたものを全て意識していますか?」

 そんなことはない。ざっと眺めて、興味があればもっとよく見る。興味がなければそのままだ。そう答えると、彼女は壁に吊るされた灯りを指差した。眩く輝くガス灯だ。生ゴミの腐敗を利用して作られる気体を使ったこの強力な人工灯火は、古術学に基づく技術革新の精華として名高い。

「同じ事です。例えば、あの光に注意を向けます。おおまかな形状が認識されて、それがガス灯であるとわかります。放たれる光の周波数、微細な構造、寸法のような詳細な情報も、さらに注意を向ければ認識することができます」

 試しにガス灯を見つめてみる。最初に光が意識に登り、次にはその形。大まかな情報から詳しい情報へ。おお、本当だ。彼女と私の意外な共通点に感心して私は思わず小さな拍手をした。

 テーブルの上に吊られたかごが、何かを催促するように揺れる。それを見て、肝心なものを忘れかけていたことに気がついた。

 今度はきちんとお金を崩しておいた。三〇トアムが軽い金属音と共にかごの中に流れ込むのを彼女は興味津々という風に見つめている。

「興味深い精算方式です」

 今度はこちらが教える番だ。張り切っていこう。

「吊りかご勘定って言うんだ。庶民の店ではよくあるの。ほら、さっきのおばさんが来るから見てて」

 例の軽やかな足取りでこちらに向かってくる。両手には別々のトレイが乗っていて、腰には大きな袋を吊り下げている。

「はい、お待たせ」

 無造作な動きで皿が並べられていく。その乱雑さとは裏腹に汁一滴こぼれない。そうして自由になった片手で吊りかごの中身を鷲掴みにして、腰の袋に突っ込む。やはり風のようだった。その後ろ姿を見送っていたアトミールが、こちらを振り向く。大発見を報告する子供のような表情だ。

「古典的なトランザクション処理ですよクロエさん。つまりですね。料理の提供と代金の授受という二つの処理を一体で管理しているんです」

 私も、この方法を知ったときには感心したものだった。かごにお金がなければ決して料理は出てこないし、逆にお金を払ったのに料理が出てこないということもない。彼女の口ぶりからすると、古代にも同じようなものがあったようだ。

「古代にもあったの?」

「そうですね。いくつかの手続きの間で整合性が強く求められるときに使われていました。私は苦手でしたが」

「苦手なんて、あるんだ」

 彼女にそんな概念があることが意外だった。アトミールは小さく頷く。

「トランザクション処理は……待ち時間が長くて退屈なんです。自分が受け持ってない部分も含めて全ての処理が終了するまで待たなくてはいけませんから」

 頭の回転が極端に速い人が、周囲の人の愚鈍さにイライラしてしまうようなものだろうか。だとするなら、私とのやりとりも? そんなことないはず。だって、お話をしているときに浮かべている彼女の微笑みが、嘘だとは思いたくないから。


 †


 クロエラエールが安らかな寝息を立て始めてから三〇分ほど経った。再起動とメンテナンスを済ませた私は、電波、音響その他、全センサーのもたらす情報に注意を払いながら、体を寝台に横たえている。

 隣室では配偶関係にあるらしい男女が個人的な会話を楽しんでいる。電磁場は平穏そのもの。彼方の恒星光とその月面からの反射光を除けば、わずかな電磁雑音が観測される程度だ。処理速度を落とした省エネルギー状態に遷移すると、一気に世界が加速する。お構いなしに流れ込んでくるセンサーからの情報は知能化フィルターで一端せき止めて、異常値があったときだけ通すようにする。

 この状態での自分は、もやのかかった世界に浮かぶ一つの風船のようだ。時折吹く情報の風に揺さぶられながら、私は思索に耽る。

 私の判断が果たして適正だったのかはわからない。長い眠りから目覚めたあの日の私は、自主的な封じ込めの継続と自己破壊の二択を考えていた。クロエラエールとミューナルトが私の部屋を訪れたのは、まさにそんなときだったのだ。

 彼女からの魅力的な提案を受け入れて私は施設を去った。この選択は私自身と彼女の資質に成算を依存している。私自身を無害なものとして封じ込め続けるという観点から見れば最適なものではなかったろう。封じ込めるだけなら、隔壁を溶接でもして無期限休眠を行うだけでよかった。けれど、あのときの私には、彼女を拒んで再び封じ込め状態に入るということが非常に大きなリスクであるように感じた。

 二度とこんな機会は訪れないのではないか。

 こんな機会とは、一体何か。それすらもあいまいな、不可思議な推論。ネットワークが失われた現代に、照会する先もなく。

 いつもと同じ夜が過ぎていく。

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