第9話「穣海の夜」

 ヒンチリフ新港で舫いを解いた本船はいよいよ東浮島水道に差し掛かり、舷窓から見える夕陽に照らされた街並みもずいぶんと小さくなってしまった。今頃、私を乗せたことになっている蜥車が屋敷に向かっているはずだ。敵が何者かわからない今、私が出発した日付は極力誤魔化したい。それにしても――。

「乗せられてない? 私」

 アトミールが本から顔を上げる。

「船の話ですか?」

「そうじゃなくて……」

 とぼけているのか、本気で言っているのか。

「どこまでがあなたの計画の内?」

 私の旅には諸国調査のための外遊という名目がついた。彼女はその随行員だ。見ようによっては、ここまでの流れの全てが彼女の誘導に乗った結果のようにも思える。

「私は個々の課題について最適解を推薦しました。その総体が巨大な陰謀のように解釈されるのは心外です。そもそも戻ろうとした私を引き留めたのはクロエさんではないですか」

 出発の準備のためにしばらく過ごしてきてわかったのだが、彼女は案外といい性格をしている。勤勉でよく気がつくし、事務能力も高い。彼女が私のために働いてくれていることには疑いの余地がない。ないのだが。宝物庫で武器などを調達したときの一幕を思い出しながら、私のとなった一挺の拳銃を弄ぶ。

 受け取ってしばらくは傷を付けまいとおっかなびっくり扱っていたのだけれど、馬鹿らしくなってやめた。護身術のおさらいをするから来いとファル兄さまに言われて行ってみれば、剣を拳銃で咄嗟に止める術などを実地に教えられた。何も現物でやらなくともと抗議した私を、兄さまは窘めるようにこう言ったのだ。

「お前な。溺れた者が息継ぎを惜しむようなことだぞ。宝物庫は珍しいものの飾り棚じゃあないんだからな」

「家宝惜しんで家名すたるる、かあ」

「今のはどういう意味ですか」

 思わず口にしてしまった。彼女の時代にはなかった言葉なのかと意外に思い、すぐに納得する。当時は世間と個人が直接繋がっていて、家というものの存在感は実に希薄だったと聞く。家名を大切にするという発想があったかすらも怪しい。

「貴重なものを勿体ないからって出し惜しみしてると、結局もっと大切なものを失うことになるっていうことわざだよ」

 珍しい回転式の機関部に彫り込まれた東星谷重工の文字と七芒星の文様。古の時代に栄えた企業と呼ばれる集団の一つが産み出した製品であるということを示している。東方戦役の戦利品として三代前の当主、キシュトルさまが代統領陛下から賜ったものだ。つい数年前まで問題なく稼働していたことは間違いなく、現に試射しても問題なく撃てた。使わないのは勿体ないというのもわかる。だが、これは伝来の古代銃の中でも別格の由緒がある。何しろ、この銃の本来の持ち主は、この国をあと一歩のところまで追い詰めたのだから。

 連邦は古くから東部諸州への進出の機会を虎視眈々と窺っていた。これらの土地は小国に分かれていたけれども、人口は多くて技術は高い。これらは湖群同盟を名乗って連邦の拡大に対抗しており、幾度かの衝突を経て尚一歩も引かない戦いを繰り広げていた。

 二五一五年、夏の気配が感じられるころのことだったという。いよいよ東部諸州を平らげようと大軍を発した連邦は国境線でもあるティリア川の渡河が完了するまさにその直前に攻撃を受け大敗した。偽装退却に釣られて懐深くまで入り込み、包囲された末のことだったという。川があるから逃げることすらままならず、むしろ渡河中の部隊と敗走する部隊が渾然一体となって手が付けられない混乱が全軍を襲った。虎の子の大統領親衛隊まで失ったというから並大抵の負け方ではない。勢いに乗った同盟軍は逆襲に転じ、一時は大統領府のあるケイレアが見えるところまで迫った。

 国家存亡の危機にケイレアもなりふりを構ってはいられなかったらしい。総動員は西の辺境、ヒンチリフ家にまで及び、キシュトルさまを中心とした軍勢が東征の途へついた。キシュトルさまは並大抵の方法でこの軍勢を食い止めることはままならないと考えられ、伝来の古代小銃を携えての狙撃を決心、わずかな供回りを連れて六日七夜の追跡行の末、ついにその将を古代銃による狙撃で討ち取った。当時の代統領陛下はこれを大変お喜びになられて、戦利品として得たその軍勢の指揮官の持っていた銃を褒美として下賜されたのだとか。それこそがこの流星銃。ヒンチリフ家の家宝だ。

「回転式拳銃は整備が容易ですから」

 彼女らしい具体的な理由に私は納得するしかない。けれど、と思い返す。あのときの半ば私を人質に取るような要求の仕方。温和で冷静そうな彼女が、そんな印象を崩さないままに異例の要求を繰り返したことには今でもひやりとする。

「……よくあんな言い方できたよね。私、父さまにあんな要求できないよ」

 思わず彼女の胸元に目が行く。豊かな胸によって持ち上げられた胸ポケットに差し込まれた身分章は朱色。。朱塗りの木板は吏員補の位階を表すもので、政務官に代わり一つの部署を差配する権限を持つ。平民だがいわば現場の顔なので、上司と部下という線を越えない限り貴族にもある程度進言を行うことができる。下っ端政務官である私と二人きり、対等に振る舞っていてもさほど不自然でない最低限度の職位として父さまが用意したものだ。

 彼女の位階はつまるところ、貴族とはいえ見習いに近い私と接するための最低限度に過ぎず、地方政務長官の位階を持つ父さまへ強く進言するようなことなど本来あり得ない。

「父さまの機嫌を損ねるとか、思わなかった?」

「いえ。アストフォルトさまのご性格や息女であるあなたを保護するための行動であるという性質を考えたとき、そのような懸念は不要と考えました」

「それは、そうかもしれないけど……」

 なんて綱渡りだ。アトミールのことがわからない。自分が世界にとって危険かもしれないというような地に足の着かない危険を恐れる一方で、こんな身近な危険には全く頓着しない。何か彼女なりの基準があるのか。

 私の質問はもう終わったと思ったらしく、彼女は読書を再開した。といっても並大抵の読み方ではない。机の上に二冊の本を置き、目にも留まらぬ速さでめくっていく。これらの本は我が家の図書室から運び込まれたもので、私と彼女の船上での無聊を慰めるために用意されたものだ。

「紙の本は……読んだことなかったんだっけ」

「はい。同じ自然言語による情報だと軽視していましたが、紙媒体の読書体験は全く違うものですね」

 ページをめくる手は止まらない。

「どんな風に違うの?」

「紙媒体での読書はとてもゆったりとしていて、より解釈に時間を掛けることができるのが特徴ですね。電子書籍は――私の場合ですが――文書データを直接受け取って解釈するので、データを処理すればするほど次の文書が現れます。ですが、紙媒体はページをめくるという物理的作用と紙上の文字認識という低レイヤーの処理が挟まりますから、待ち時間が極端に長いです」

 信じられないが、思索に耽りながらのんびり読書を楽しむと、二つの本を同時にめくるような読書になるらしい。

「図書室の本なんて半月で全部読み終わっちゃったりして」

 一瞬彼女の手が止まり、私の方を見た。

「五百冊程度でしたね。電子書籍なら三十分程度で十分かと。紙媒体なら、一日は掛かってしまうでしょうか」

 へ、へえ。一瞬心が理解を拒みかけたが、無理に飲み込んだ。

「話は変わりますが、クロエさんは日記を付けておられますよね」

 日記は貴族のたしなみだ。八歳の誕生日に分厚い革張りの日記帳を渡されて、毎日欠かさず記録を残すよう言いつけられた。以来十一年、どんな日でも少なくとも何かは書いている。

 ここまで貴族の世界で日記が重要視されるのは、日記が前例の宝庫だからだ。何事も前例通りにやるのがいいとは限らないけれど、これまでの経緯が残されていれば、政策の説得力がぐっと増す。例えば、私が担当した水車小屋の件だってそうだ。将来、また集落の人口が増えて水車が足りなくなったとしよう。ただ漠然と今のものは規模が足りないから建てますというのでは、そのときの当主が予算の支出に懐疑的なら説得しきれない。でも、私は日記の中で、どうして今水車を新たに建設するのか。その規模はどのようにして決めたのかを記録した。そうすれば、将来水車を増設しようとする人は、紛争を予防するためにこれだけの規模の水車を作りましょうと提言することができる。説得の目は大いにあるだろう。貴族の日記とは、自分自身のためだけならず、将来この地の統治を担う誰かのためのものでもあるのだ。

「読ませて頂けませんか。解析すればお役に立てるかと」

 日記を貸し出すことは決して珍しくない。けれど普通は必要に迫られてやることで、自由時間に自ら進んで読むようなものでもないと思う。でも、読書の速度が段違いな彼女にとっては事情が違うのだろう。

「学習データとして非常に有用です。どこまで解析を許可されますか?」

 アトミールが特にそうなのか、前崩壊文明がそうだったのか。彼女が何かするにあたってはやたらと権限の話が出てくる。

「昔の人っていつもそうだったの?」

「と、いいますと」

「何でもかんでも権限権限って」

 少しの間考え込んだ後、彼女は答える。

「考えたことがありませんでした。ですが、そうですね。そこは大きく文化が異なるようです。現代は分業化は進んでいる代わり個別の業務についての権限管理は緩やかなようですから」

 一つ一つの言葉の意味はわかるけど、その中で大前提となる事柄が噛み合っていない気がする。まさに文化が違うのだろう。

「時向こう、だもんね。海向こうどころじゃない」

 古術学者を悪魔の使いとか言うくせに古代の技術を使いこなす程度ではこちらの大陸を遙かに超えるアーティブ大陸の人たち。彼らとの間の距離ですら、三百年の時の流れが作った距離と比べたらお隣さんと言うべきだろう。私の言葉を不思議そうに聞いていたアトミールは、やがて気を取り直したように言葉を続けた。

「情報は力です。物理現象を制御する技術が頭打ちになっている時代は特に。そのような時代、情報を与えるか否かというのは個人と集団とを問わず重大な決断だったのですよ」

「隣の国の内情とか、そういうののことだよね。でも私の日記からそういうこと、わかるかなあ」

 彼女は優しく微笑んで人差し指を立てる。

「直接わかるかどうかというと疑わしいですね。でも、大量の情報を集積して、適切に処理できればどうでしょう。例えば私は、この中の情報からクロエさんの判断の傾向を推定できるかもしれません。許可を頂ければ試してみますが、よろしいですか」

 私はその手品に心を惹かれた。二つ返事で許して日記を貸すと、彼女は目にも留まらぬ速さでページをめくっていく。いっそ曲芸じみていて、私は飽きもせずにその様子を眺めていた。三分の一ほどを読み進めた後、彼女の手が止まった。

「どう?」

「月末は拙速な判断に飛びつく傾向がありますね。締切が月末や月初に集中しているためでしょうか。二者択一を迫られると第三の選択肢を探す傾向がありますが、選択肢が三つ四つであればその中から選ぶことが多いようです。また、雨天時には判断が否定的な方向にぶれやすいです。従って、クロエさんの判断を誘導したい場合はこれらの要素を制御すればよいでしょう。それから体調ですが――」

 どれもこれも身に覚えがあるので悲鳴が出そうになり、慌てて彼女を止めた。わかった。悪かった。確かにこれを勝手にやられたら大変だ。

「日記のような非定型なデータを整形して解析することは標準的な汎用自律無人機では大きな困難が伴うのですが、私にとっては容易いタスクです」

 背の高い美人が子供っぽく胸を張っている。言い知れぬ愛嬌があり、覚えず笑いが漏れる。

「あ、笑いましたね。本当に凄いんですよ。普通なら一つの課題に対して専用自律無人機を仕立てないといけないんですから。この日記の解析だけで一つの研究プロジェクトです。それを一瞥で実現できるということは――」

 前のめりになって抗議され、ついに私は耐えきれず噴き出してしまった。

「ごめんごめん。馬鹿にしてるんじゃないから。そういうアトミール、はじめて見たよ」

 私の言葉に不意を突かれたようで、彼女は目をぱちくりさせる。

「ああ……」

 おもむろに顔を覆う彼女を見て今度はこちらが驚いた。そんなにショックを受けることだろうか。

「すみません。情緒が不安定になっていたようです」

 顔を上げたとき、彼女の表情は見慣れたものに戻っていた。


 †


 床の軋む音で目が覚めた。眠い目を擦りながら枕元の眼鏡を探す。誰かの気配。私でなければ、彼女か。眼鏡を掛けて入口の方を見る。居間に差し込む月明かりに照らされて、すらりと伸びた影が浮かび上がっている。

「お休み中すみません」

 私たちの使っている貴賓室は続き間だ。船尾楼の二階にあり、船外から直接入れる居間と、奥の寝室とに別れる。彼女は居間で休んでもらっていた。こんな夜更けにやってくるのだから、何かあったに違いない。

「私たちは電波の照射を受けています。波長は約一八〇クロメミア(約三ミリメートル)、照射周期は十五秒。接近中です」

 アトミールは何を言っている? まだもやの掛かった頭の中で、彼女の言葉から理解のできる部分を繋いでいく。電波を受けている。電波は気軽に出せるものじゃあない。こんな海の上でなら尚更だ。

「……追っ手? 見つかった?」

「恐らく。ですが電波プロファイルから推定しますと発見はまだでしょう」

 今すぐ逃げなければいけないような話なのか。それとも黙って大人しくしているべきなのか。事態の深刻さを判断しきれずに私は立ちすくんだ。でも今日の私は運が良い。ちょうど今、こうした問題について当代最高の顧問を抱えているのだから。

「どうしたらいいと思う?」

「様子を見るほかありません。積極的な手段はただちに我々の存在を露見させます。襲撃者の詳細が不明である以上はやり過ごすのが最適です」

 彼女はそのまま部屋に入ってくると、私の目の前に立った。

「照射源はまだ遠いようですが、接近されると金属を含む私は目立つでしょう。……遮蔽のため協力を頂けませんか」

「いいよ。何をすればいいの」

 アトミールは少し困ったような顔をしてから、ごまかすように笑う。私はなんだか嫌な予感がした。

「現在受けているような高周波を目立たずに遮蔽するには水が有効です」

「……海に飛び込む?」

 彼女が笑う。思った通り的外れだったみたいだ。

「別の意味で目立ちますね。ところでご存じですか。人体のほとんどは水なんですよ」

 まさか。彼女の結論に気がついて私は凍りついた。これは困る。邪な考えで言っているわけではないことはわかる。そもそも彼女に欲求があるのかもわからないし。でも、さすがに寝床を共にするとなると躊躇してしまう。

「やはり代替案を検討します。失礼しました」

 私の顔色を察した彼女は一歩下がり、小さく礼をして踵を返そうとした。

「待って」

 理由のわからない衝動が、声になった。彼女の足が止まり、怪訝そうにこちらを見る。胸が早鐘を打つ。アトミールを行かせてはいけない。なぜ? 自分自身ですらわからないまま、行き足のついた大型船のように口が動く。

「入って良いから。ここにいて」

 少しの間はためらいがあったようだが、やがておずおずと床へと入ってきた。船の揺れを吸収するため吊られたベッドが重心を狂わされて揺れる。横たわる彼女の作る風が布団の中を吹き抜けて体をくすぐり、吊りロープがみしりと軋んだ。二人程度なら余裕の筈だけど、彼女を支えるのはやや重荷らしい。

 会話は途絶え、聞こえるのは船の波を掻き分ける音と、風を受ける帆の音。いたたまれなくなって寝返りを打ち、背を向ける。背中越しに伝わる彼女の体温はひやりと冷たい。

 こんなところを父さまが見たらどう思われるだろうと考えたら笑いがこぼれた。今の私、悪い子だな。

「どうかされましたか」

「なんでもない」

 少し冷たすぎたかな。何か、他に話題はないだろうか。

「この体勢で大丈夫なの」

「そうですね。電波の到来方向からすれば十分でしょう。徐々に遠ざかりつつあるようです」

 安堵のため息が漏れた。不思議なもので、こうして一安心してみるともっと色々な話題を思いつく。私は、以前から気になっていたことを訊ねることにした。

「夢、見たことある」

「三十分ほどの日時メンテナンスのとき、私は予備系を動作させています。そのときの出来事は現実感がありませんが、記憶しています。厳密な意味で人の見る夢と同一なものではないでしょうが、類似したものとは言えるのではないでしょうか」

「予備系?」

「機体機能を最小限維持する程度の性能を持った系統です。自律的な行動はほとんどできませんが、自己保存のための行動を取ることができます」

 わかったようなわからないような。

「私がもう一人いるわけです。眠っている僅かな間私を動かすような。粗いアナロジーですが」

 誤解を頭を半分ずつ眠らせることで限りなく泳ぎ続ける魚がいるというもっともらしい伝説があるが、アトミールはまさにそれをやっているらしい。

「正確ではありませんのでご注意を」

 几帳面な忠告がいかにも彼女らしいと思った。体を捩って海に背を向けると、仰向けに寝そべっている彼女の姿がある。何を見るでもなく天井を見つめていた彼女がこちらを見る。

「今も何か聞こえるの?」

「電波のことですか。先程の捜索波と……背景雑音に紛れて微細な他の電波を感じます」

 この時間は定時放送の時間ではない。とすると、その電波はどこから来るのだろう?

「それって何かよくない話?」

「そうではありません。どこかしらで電子機器が動作しているのか、私自身が放射しているのか。静かな空ですよ」

 電子機器があれば電波がある。それなら遺跡の中はさぞ賑やかだったのだろう。活気を懐かしく思うこともあるのかもしれない。

「さっきの夢の話なんだけど」

「はい」

「じゃあ……夢って、あるの」

「それは先程も――」

「ごめん。そっちの意味じゃなくて。例えば私は古術学者になりたい。なって何かしらを残したい。だれそれの娘とか、だれそれの妻とかじゃなくて、クロエラエールとしての何かを。そういう意味での夢を」

 この話をしたのは初めてかもしれない。私と同じ時代を生きる人には、とても。私はつばを飲み込んだ。こんな考え方はわがままではしたないものだ。貴族の家の女として生まれたからには、家と家とを繋いで子孫を残す義務がある。誰もがそう言うし、納得もする。それが今の世の中を保っているのだから。でも、昔はそうではなかったらしい。立場あっての人ではなく、人あっての立場だった。社会はそれを許せるだけの豊かさがあったし、許し続けるために人々は努力していた。現存して解読のできる古文書は物語が多い。そうした物語の中には、作り話を通じてそうした努力を讃えるものが数多くあった。一度知ってしまったからには、今のあり方が当たり前とはもう思えない。

 こんな気持ちは、アトミールには伝わるだろうか。これもまた、過去を美化しすぎているのだろうか。

「自発的に生じる自己存在に対する目的設定ということですか。それは無意味な質問ではないでしょうか」

 そうだとも違うとも言わず、問いが不適切だと彼女は言う。それは予想外のことだった。

「なぜ?」

「あなたは生命です。存在が目的に先立つ以上あなたのあり方はあなたが決めるものです。私は人によって作られた道具ですから、目的が存在に先立ちます。そこに自律性の余地はありません」

 なんだかもやもやする。人だって何かを望まれて生まれてくることもある。そういう人は、その望みのままに生きなければいけないんだろうか。

「じゃああなたはどんな道具なの」

 詰問するような口調の自分に驚く。

「人にとって危険であったり、苦痛であったり、不可能であったりすることを代行することです」

「わからないよ。笑ったり困ったりすることが道具に必要なの」

 彼女はついと視線を逸らして前髪に触れた。

「……人と対話する道具には必要なものです。人は人のように振る舞うものに親近感を覚えますから」

「人を喜ばせるために笑ったり困ったりしてるって言うの。あなたの笑顔は作り物なの」

 船が波頭にぶつかる衝撃が部屋を揺らした。その揺れが収まりかけたとき、彼女は呟いた。

「わかりません。しかし――」

 その先はあまりにか細く聞き取れない。聞き返すのもはばかられて、私のもやもやは消えてくれない。再びの沈黙。なんだか頭がぼんやりとしてきた。寝起きの頭には難しすぎる話題だったのかもしれない。

「ごめん。寝ても大丈夫?」

「ああ、すみません。気がつきませんでした。午前二時三十二分。深夜ですからね。私が警戒していますので、クロエさんはお休みになられてください」

 目を閉じる。意識が闇に引き込まれていく。微かに聞こえる船員たちの声。上の甲板では今も操舵手や航海士たちが立ち働いているのだろう。今夜の夢は、おかしなものになるに違いない。

「良い夢を」

 最後にそんな言葉が聞こえた気がした。

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