第8話「門出」

 重苦しい錠前の音。扉が開き、隙間から差し込んだ光が闇を切り裂く。

「棚卸し以外で開いたのはいつ以来だろうな。クロエ。わかるか」

「いえ、私も……」

 完全に開け放たれた部屋の中には窓一つなく薄暗い。部屋にはいくつもの戸棚がしつらえてあり、その扉は嵌め込まれた玻璃ガラスによって中が見えるように作られており、中には眩い宝石や一見して古代のものとわかる銃器、玻璃を挟み込んだ真っ黒い板、鮮やかな黄色の樹脂で作られたねじくれた輪のようなもの。その他用途も知れないものたちが静かに横たわっている。

「好きなものを持っていきなさい」

 この宝物庫には、ヒンチリフ家三百年の歴史が詰まっている。父さまの声は穏やかだ。

「敵の襲撃はいつ、どこで起きるかわかりません。威力はもちろんですが、何より長期間の無補給に耐えられる武器が必要です」

 出発の許可を取り付けたアトミールは、あらゆるものを要求した。提案という形を取ってはいたが、実質的には私の命を人質にした脅迫に近い。父さまの性格を考えれば一顧だにしなくてもおかしくない。けれど父さまは思いのほかあっさりとその要求を受け入れたのだった。

 微かな靴音を立てながらアトミールはゆっくりと通路を進み、時折窓の向こうの収蔵物に視線を向けて立ち止まる。それが何度か繰り返された後、彼女はついに戸棚の一つへと手を掛けた。

「よろしいですか」

 私が頷くと、彼女は細長い扉を開き、中に収められていたものを取り出した。それは燻された軽銀アルミニウムのような色をしており、おおむね角ばった棒の形をしている。側面には古代の小銃に見られる持ち手のような構造が取り付けられている。

「父さま。あれは?」

「見せたことがなかったか。なんでも剣が中に入っているらしいのだが、よくわからんのだ。そもそも開け方すら――」

 がちゃん、というバネ仕掛けのような音が父さまの声を遮った。箱は半ばから折れ広がり、秘められていたものを露わにする。剣だ。真っ黒な。

「オリアレード刀身の特殊長剣。覚えがあります。仮想環境での試験で私はこれを使っていました」

「それってどんなものなの。教えて」

オリエスジルコニウム基金属硝子ガラス劈開へきかい面を刃先として貪銀タングステンによる表面処理を施しています」

 目眩がしそうだ。金属の硝子ガラスって何だ。劈開へきかいって何。私の疑問に答えることのないまま、彼女は続ける。

「登録された端末がなければ開かないようになっていました。おそらく、私のために作られていたのでしょう。アストフォルトさん。これを持っていってもよろしいですか」

「構わんよ。もとよりそれは家祖が正規軍から預かったものと聞く。貴殿がしかるべき持ち主だというなら返すのが道理だろう。しかし、それで本当に大丈夫か。古代の戦で剣の類は使われなかったとか。それは宝剣の類で、手入れや威力の面では見劣りするのではないかな」

 新発見に気を取られる私をよそに父さまは父さまらしい質実剛健とした意見を出された。どう答えるのかと思って見ていると、彼女は剣を再び仕舞いながら父さまを見る。

「これは私によって運用され、軽装甲の戦闘無人機を近接戦闘において撃破することを目的とした実用武器です。鋼製刀剣など問題にならず両断するでしょう。メンテナンスも、この格納容器と対で運用される限りは心配ありません」

「ほう。面白い」

 父さまの声が弾んだかと思うと、一振りの小刀を懐から取り出した。

「これで試してみてはくれまいか」

 鞘を掴んで父さまは彼女へと差し出す。

「わかりました」

 受け取ったアトミールはそれを左手で掴み、出し抜けに頭上へと放り上げた。僅かな間を空けて古代剣が一閃する。

 剣戟の音をより甲高く切実にしたような音が宝物庫に響き渡る。それから僅かな間があって、薄い金属が床に転げる音。

 私はそのあとに、古代剣の鞘、つまり彼女が格納容器と呼んだものが落下する音を予期したけれどその瞬間はいくら待っても訪れない。見れば、鞘は彼女の左脇腹あたりに取り付いていた。彼女の腰には剣帯などない。まるで吸い付いているかのようだ。

 そして、驚くべきはそればかりではない。落下した剣の半ばは彼女の足下にあり、柄は彼女の左手にある。そして、彼女の首元には小さな傷があった。彼女はあの一瞬で剣の柄を掴み、それに対して刃を上向きに当てた。切り飛ばされた破片は彼女の体に当たり、そして床に落下したのだ。そのことを理解したとき、思わず声が出た。

「大丈夫!?」

「十秒以内に修復できます。問題ありません」

 彼女が話している間にも傷口は塞がっていく。

「それは……そうかもしれないけど……。だいたいどうしてそんな斬り方をしたの」

「我々にも部屋のものにも傷を付けないため、だな」

 アトミールは小さく頷いた。

「ご依頼を受けたとき、この空間での切断操作は危険だと判断しました。破片があなたたちに命中すれば生命の危険もありますし、それ以外の家具類その他に直撃することも避けたかったのです。この場で損傷が最も問題にならない対象は私ですので、破片を受け止めて緩衝し、石造りの床に落下させれば被害なく依頼が達成できるものと」

「まさかこの場で剣を振るうとは思わなんだ。私は場所を改めるつもりだったのだが」

「ご心配をお掛けしたことは謝罪します」

 彼女は本当に信じられないことばかりが起こす。彼女がすまなそうにちょこんと頭を下げるのを、胸を高鳴らせながら私は見ていた。


 †


 旅立ちの日を祝うように空は雲一つなく、海原は凪いでいる。どんなに大きなお屋敷も、お城や街さえも、この世界そのものと比べたらちっぽけなものだ。一陣の風が窓から吹き込み、この部屋の中さえも人間たちのだけの領域などではないのだぞと言わんばかりにいずこかへと消える。物思いに耽っていると、後ろから声がした。

「おはようございます。クロエさま。アトミールさま。本日の予定を確認いたしましょう」

 声の主はリミーだった。彼女にもついてきて貰うべきか丸二日悩んだけれど、結局やめた。

「まずはミルボール商会で会談。路銀の立替払いにつき最終確認をいたします。続いて北部共用新水車の利用協定調印式に出席いただきます」

 思えば短い公務だった。

 貴族の一族の成人は何かしらの官位を持っている。というよりも、官職の寡占こそが貴族の本質だ。私にも三等地方政務官という官位があり、これは父様の地方政務長官としての任命権によって十五歳のとき拝命したものだ。そこからつい先月まで続いた四年間の学生生活は、進んだ知識を身に着けることでヒンチリフの行政に役立てるためという形式をとっていたのだから、帰郷してからは公務に従事することになる。最初にやる公務といえば、領地のちょっとした困りごとを解決することと相場が決まっているので、畢竟ひっきょうそうした課題が私にも割り振られた。新水車というのは、私が政務官としての実務を行った一月あまりの日々でなした唯一の実績ということになる。

 いくつかの集落の間で近年頻発している紛争を解決するようにというのがもともと与えられた父さまからの命令だった。これらの集落はヒンチリフから少し北、邂逅平原までいかない辺りにある。私は早速仕事に取りかかった。

 まず記録に当たってみると、確かにここ一年ほどの紛争の量は尋常でない。口論や睨み合いで済むものが大半ではあるけれど、時折怪我人も出ているようだ。このまま放置していたら死者も出かねないのではと私は恐れた。

 さて、次にやったのは原因の調査だ。これは手こずった。何故かと言えば、聞き取り調査が難航したからだ。これは集落の人々が協力的でなかったというより、私の聞き方がまずかったのだと思う。後から思うと、罪人を捕らえるために尋問しているような言い方になっていた気がする。

 口を閉ざしてしまった人々から情報を引き出すのを諦めた私は、現地の視察や手元の資料をもとにして原因を推測するほかなかった。そうしてみると、一つの水車小屋が目に留まったのだ。これはもともと粉挽きに使うために半世紀ほど前から各集落共用で使われていたもののようだが、揉め事はおおむねこの場所へ向かう途中の道沿いで起こっている。もしやと思って記録を遡ってみると、紛争が激増する直前、水車小屋そのもので大規模な紛争が起こっていた。

 あとは仮説と検証というやつで、各集落の帳簿上の人口や農業生産といった数字を組み合わせれば、大まかな事情はわかった。結論だけを言うと、地域の経済規模に対して水車小屋の規模があまりにも小さくなってしまったのだ。現状では丸一日稼働し続けても粉挽きの需要を満たせるかどうか。実際には手入れの時間や夜間もあるわけだから、これは絶望的な試算と言える。

 念のためここまで調べ上げた状態で地元の代表者たちを呼んで確かめてみると、一転饒舌になっていかに彼らが古くてちっぽけな水車小屋に苦労しているかを語る。

 当家はさいわい、お金はある。だから、父さまとも相談して新しい水車を建てようということになった。半額を当家が負担して、残りは低利の融資という形で製粉を主としつつも汎用的に使える大規模な水車小屋を二つ増設する計画だ。稼働時間を増やすため、水車に簡単な発電機と万年電灯をつけてみた。これで今までより遅くまで使えるようになったはずだ。見積もり上の生産能力はこれで五倍。集落の規模がさらに拡大しても問題ないだろう。

 こんな気前の良いことをしていたら家計が保たないのではないかという慎重論もあった。でも彼らの生産が増えれば村外への輸出も増えて、通行料の支払いが発生することを見逃してはいけない。しかも輸出が増えれば現金収入が増える。他の集落の傾向からすると、こうした余裕は貿易によって得られる珍しい品などに少なからず振り向けられるようだ。荷揚げ品には関税が掛かるし港湾利用料も発生するから、総合的に見れば割の良い投資だ。領民が富めば領主も富み、領主が富めば領民も富む。これほど恵まれた状況はなかなか望めないだろう。

「皆喜んでくれるかなあ」

 後に残す水車のことを思う。人の手配や納期の管理は全然駄目だったけど、蓄えていた知識を使って工夫たっぷりの水車小屋を作るのは楽しかった。羽根の形をいろいろ変えた模型を沢山作って効率の良い形を調べたりもした。そこにこだわりすぎて完成は私が出発した後になってしまうけれど、あとは設計通りに作るだけの段階だ。あとは形式的にはロラン兄さまに引き継ぎ、実務的にはリミーに任せればいい。

「もちろんですよ。あとは私がクロエさまの思いを形にするだけです。お任せください」

 リミーの人なつこい笑顔を見ていると元気が湧いてくる。

 もう少しだけ。そう思いながら、自室からの眺めをもう一度目に焼き付ける。穏やかな海を抱く大きな入り江。それを取り巻くように建つとりどりの家々。行き交う人々も、ここからはごま粒よりも小さく見える。

「ありがとう。じゃあ、行こうか」

 ずっとこうしていたい。そんな気持ちを振り切って、私は窓に背を向けた。

 扉を開けて待っていたリミーの脇を通り抜けて階段を下る。時折すれ違う使用人たちは私の姿を認めると廊下の隅に寄って恭しく頭を下げる。彼ら彼女らはどんな思いで私を見送っているのだろうか。普段は気にもしなかった些細なことがむしょうに気になる。開かれた玄関を通り抜けると、眩い日光で世界は白く満ちた。

 


 ヒンチリフの街は、大きく分けると四つの区域に分けられる。一つは行政区庁舎お屋敷のある日和見丘。そこからつづら折りに降り、市壁の門を通った場所にある旧市街。この地域にある商店にはどういうわけか赤屋根が多い。このことから赤まだらの街などと呼ばれることもある。貴族の家もあれば商人の家もあり、その雑然とした感じが私は好きだ。そこから海へ向かって進み、市壁を抜けると新市街がある。これは急成長のために城壁に入りきらなくなった地域で、整然と区画整理がなされている。練岩コンクリート造りで贅沢な造りの建物が目立つので、白街などとも呼ばれる。そして最後に行き当たるのが、この急成長の原動力である港湾部だ。ここも中々表情豊かで、見る角度によって全く雰囲気が違う。ある角度から見ると昔からある漁港が視界に入り、漁民たちが浜に上げた船のまわりで網の手入れや釣果の分配などをしているのが見える。別の角度から見ると、北辺帝国への備えとして作られた軍港で、寄港した連邦海軍の軍艦の上で水兵たちが忙しなく立ち働いているのが見える。さらにある角度から見ると、練岩で固めた豪華な埠頭で荷物が船と陸との間をひっきりなしに行き来しているのが見える。これが新港と呼ばれる場所で、まさにヒンチリフ経済の心臓部だ。

「いい眺め!」

 日和見丘を下る蜥車からの眺めを見て、私は思わず声を上げた。赤まだらの街の向こうで新市街と新港の白が映え、その向こうには広大な海の青。灰と緑色とに塗り分けられた星の浮島の影からは、何艘かの漁船が姿を見せている。夜明け前に船を出した漁師たちが帰ってきたのだろう。

 崩壊戦争の難を逃れたヒンチリフ家の家祖クレオエルトさまが仲間を連れ一艘の船でこの入り江に身を隠して三百年あまり。星の浮島や、その他多くの場所から流れてきた人々をまとめたクレオルトさまから、現当主の父さままでの十一代にわたって営々と築いてきた街だ。その街が今日はいつもより眩しく見えた。

 やがて市壁を抜けて旧市街へと差し掛かる。小刻みに車体を揺さぶるこの石畳とも当分お別れだ。いつもは最悪の乗り心地に閉口しているだけだというのに、今日に限っては愛おしい。このあたりの歴史は古く、ヒンチリフの街が作られた最初の頃から市街として整備されていた。当時の状況を反映するように建物には統一感の欠片もない。ある建物は木石混合の当世風だし、別の建物は当時作られていた樹脂製の船を改造して家にしている。もっとも樹脂船の家は住み心地の点でよくないらしく、街が新陳代謝をするにつれて大分数は減ってしまったようだ。。統一感のある新市街と比べると野暮ったい印象もあるけれど、私はこれも好きだ。その街並みを眺めていると、通行人がこちらを見ていることに気がついた。蜥車に描かれたヒンチリフ家の紋章はもちろん領民にとって馴染みのものだから、注目の理由は明らかだ。窓を開け手を振ると人々の表情が明るくなる。その単純な相関がくすぐったい。しばらくしてくたびれるまでの間、ずっと私はそうしていた。

「どうして私を置いていかれるのですか」

 私が窓に背を向けた頃、彼女は突然訊ねてきた。不思議に思うのも無理はないと思う。十歳の誕生日からずっと私は彼女と一緒だったのだから。

「それは……だって、これは私とアトミールの問題じゃない。あなたを巻き込むのは、違うかなって」

 私の答えを聞いた彼女は、微笑みを浮かべたまま後ろ髪を弄ぶ。何かいけないことを言ってしまっただろうか。

「ふふ、変わりませんね、クロエさまは。ずっと」

「どういう意味?」

「……とてもお優しいということです。でも――。諫言を許してください。お優しさも、振るい方では切っ先が誰かを傷つけることを、どうかご注意ください。特に――」

 何を失敗したのかはわからないけれど、何かを失敗してしまったということはわかった。彼女の言葉は次第に力を失い、最後の方は殆ど聞き取れない。

 蜥車の後部窓から今日の道のりが見える。丘の上のお屋敷、つづら折りの道。市壁に旧市街の街並み。何を謝れば良いかもわからずに、私はただ沈黙した。


 †


 最後のひとときは風のように過ぎ去っていく。一番心配していた調印式も和やかそのものに終わった。先日までこの件を巡りつかみ合わんばかりに対立していたはずの村長たちが肩を組みながら談笑する様子を思い出した私の胸には一片の疑問が湧いて出た。

「どうかされましたか」

 視界を横切る彼女の顔。その後ろには白く輝く岸壁が見える。幾隻もの大型船が横付けするその岸壁こそが、ヒンチリフ家が一手に担う大陸間貿易のまさにその最前線だ。

「水車の件、みんな仲良さそうだったでしょ? 結局誰も損しない展開になったし、紛争自体お芝居だったのかもしれないなって」

「確かに一朝一夕で築かれた関係には見えませんでした。……ご不満ですか?」

「ううん、そうじゃないんだけど……。おかしな話だよなって思って。貴族の目に留まるために一芝居打って喧嘩しないといけないなんてさ」

 そのことが合理的なのはわかる。不便だから改善して欲しいという請願を受けても、問題が顕在化していなければ検討は後回しになりがちだ。だから、ことで私たちに対応を迫るのは上手なやり方だ。でも、それでは貴族が余計な手間を作っているだけじゃあないだろうか。

「政治課題の優先順位を設定することは、古代においても非常に困難なことでした。現代とは比べものにならない古代の工業力をもってすら、ある程度利害が対立することは避けられません。自分達の利害に関わる政治課題の優先度を上げさせようとする活動が存在することは、貴族制の責任ではないと思います」

「そうなのかな」

「クロエさんは古代について過剰な期待を抱いていませんか」

 私を気遣うような調子で彼女は言った。

 心当たりはあるけれど、私にも言い分はある。

「それは、そうかも。でも、まだ私は控えめな方だと思うよ。極端な人は、もっと極端だから」

 この国の国是が文明復興であるためか、古代信仰とでも言うべきものは中央に行くほど強くなる。古代の姿があるべき姿、それを取り戻すためならどんな手段も許されると真面目な顔で語る人もいるほどだ。実のところ、新港の開発に中央からの投資が得られたのは、国際経済の発展という文明復興に通じる大義名分のお陰でもある。あまり悪し様に言うこともできないけれど、狂信的とも言えるくらいの人を相手とすると、正直近寄りがたい。

「この社会の一般的な価値観を論じるには私の持つサンプル数が少なすぎます。ですが、現代と古代の差分を単純に最適解と見なすことの危険性については警告します。……古代の社会が失敗したからこそ、今の現代があるのですから」

 岸壁と船の間を屈強な男たちが行き来し、荷役作業に勤しんでいる。積み下ろししている。行き先は言わずもがな。中央官界をしてヒンチリフを大陸で最も勢いのある街と言わしめるまでに成長させた原動力、大陸間貿易だ。広大な穣海を渡るかつての大冒険も、古術学の成果となる航海術が商人の眼鏡に適う割の良い投資に変えた。古術学は、過去の文明を再現しようとする試みだ。それは、彼女の言うとおり、危うさをも孕んだ道なのかもしれない。

「大変な活気ですね」

 彼女が話題を転じた。

「この街だけだもの。海を渡って、大陸の向こうまで船を向けられるのは。連邦のなかでここだけ」

 胸を張って答えると、アトミールは首を傾げた。

「それはなぜですか? 地形の問題でしょうか。それとも設備の問題ですか」

 私は目的地である月見桟橋に目を向けた。中小型船を停泊させるための場所で、私たちが乗る船もそこにある。まだだいぶ距離がある。話す時間は十分そうだ。

「ここは星の浮島が波よけになって良い港だし、こんな規模の港が他にないのも本当。だけどそれだけじゃないんだ。この港が特別なのは」

 彼女の反応を確かめてから話を続ける。

「七代目の当主のキシュトルさまが始めたんだ。当時のヒンチリフはちっちゃな港町でね。畑を耕したり魚を獲ったりするのが精一杯。北辺帝国への防備も固めなきゃいけないしで、今みたいに豊かじゃなかったんだって。今日のヒンチリフで一番貧しい人でさえ、当時のヒンチリフに行けば真ん中くらいの暮らしぶり。お屋敷だって今みたいに立派じゃなくて、いつもどこかが雨漏りしてるくらい」

 機会があるたび聞かされた昔話だ。当時のお屋敷は来客を迎える場所ばかり立派で、家の人々は大変な苦労をしていたらしい。けれど自分たちの暮らしぶりを良くするために税金を上げることは一度としてせず、人々の暮らし向きをよくするために限って臨時に税を上げるばかりだったとか。当時のご先祖さまの気高さには感服するばかりだが、同時に思ってしまう。その時代に生まれなくてよかった、と。

「それじゃいけないときっとキシュトルさまは考えてらっしゃったんだと思う。で、そんな頃にヴィレイシノンという一人の古術学者がやってきたんだって。船と天文台、それに古代時計を求めて」

 ヴィレイシノンは様々な街で投資を求めては断られ、時に詐欺師扱いされることもあったらしい。そんな彼の求めにどうしてキシュトルさまが応じられたのか。その本当のところは家の記録にも残っていない。

「ヴィレイシノンの主張は、象限儀と狂わない時計、そして母港の正確な座標があれば、緯度だけじゃなくて経度も知ることができるっていうものだったの。象限儀って言うのは――」

 口だけでは難しそうなので、手振りで姿を説明しようとしたところ、彼女は口を挟んできた。

「わかります。南中高度を測って出発地との時差から経度を、北極星の高度から緯度を求めるんですね……どうかしましたか」

「説明しがいがなーい」

 不思議でたまらないという風に彼女が見てくる。なんだよ。人の気持ちがわかるんじゃないのか。やがて、ああ、と小さく呟いて。

「すみません。クロエさんが知識を表現する機会を奪ったことは謝罪します」

 謝ってるのか。これ。

「ですから、続きを聞かせてください」

 彼女のへの字に曲げられた眉を見つめながら、どうやって答えたものか、考えを巡らせた。

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