第7話「邂逅平原の模擬戦」

 ヒンチリフの街を出て半日ほどの場所に邂逅かいこう平原はある。ヒンチリフの街が開かれた頃、初めて他の街からやってきた人々と出会った場所だという。南北に邂逅川が流れ、名前の通り二つの流れが合流して海へと流れていく。川の両脇には階段状の丘があり、最上段には石灰質の砂礫質が堆積している。古代からの街道筋だ。昔はこれが遙か大陸の彼方まで続いていたと言われているが、今は途中の隧道トンネルが潰れてしまっている。もし大陸の方へ行こうとするなら山を越えなくてはならない。船を使った方がよほど速くて確実で楽なので。今は周辺の農村との行き来に使うくらいしか用途がない。

 まさにその邂逅平原の北端、旧街道上を私たちは南へ向けて進んでいる。半エミア(約八〇〇メートル)前方には前衛銃兵隊二十が展開し、その後ろ、私たちの目前には重装歩兵隊四十が続く。そして二門の大砲と砲員十名、後衛銃兵二十名が続く。私の周りには護衛兼機動戦力であるちょう騎兵、つまりワタトカゲに騎乗した重騎兵十騎。都合百名と臨時雇いの段列後方要員による縦隊。これが私のだ。

 もともと今日はこの平原の中央部にある銛の台周辺で青軍ととう軍とに別れて実際に兵を動かす月例演習の日だ。もともと両軍の指揮官は決まっていたのだが、無理を言って私に変えてもらった。父さま率いるを打ち破れたなら、父さまといえどあの要求を満たしていないとは言えないのではないか。そのとき父さまがどんな顔をするのか、考えるだけで愉快になる。

「クロエさま。斥候からの報告です」

 私付の侍女であるリミーがやってきて書き付けを差し出す。青軍は広範に騎兵を散開し警戒せしめる。接近困難につき本隊所在不明。

「ありがと。リミー。ごめんね付き合わせちゃって」

 彼女は黙って手を横に振る。茶色の髪を短くまとめた彼女は本名をリミエラ・ミルボールという。ミューンと同じくらいに古い付き合いだ。私が十歳を迎えた日にやってきて、いろいろ肩書きを変えながらいつもそばにいてくれた。公務の補佐から女中たちの差配までなんでもこなしてくれる。

 ううん。これはどう動くべきか。今回互いの兵力は同数。青軍がヒンチリフに突入を試みる橙軍を迎撃するというのが演習の筋書きだ。軽騎兵を斥候への対処のため分散させているならば、それを遊兵にさせてしまえばこちらの方が有利、なのかな。周囲の騎兵たちに目をやる。ワタトカゲに跨がり、黒絹と曇銀チタニウムで作られた強靱な胸甲と兜、騎槍に短剣、拳銃で身を固めている。胸甲には家々の紋章が誇らしげに描かれ、その下のコートには皆工夫を凝らしている。その華やかさたるや、着飾ることにさほど関心のない私ですらため息が出てしまうほどだ。戦力は同数。ならば、この必殺の戦力を青軍は分散させていることになる。

 続いて前方の重装歩兵へ目を向ける。彼らは鳥騎兵を務める者たちの家に属する兵だ。兵を手元に置きたい軍務官諸家を説得するのには随分苦労したと父さまから聞かされたことがある。黒絹を張った大盾を持つ兵が二割ほど、残りは長槍を持っている。前列の大盾で銃弾を防ぎつつ密集陣形を組んで前進し、長槍によって敵陣形を粉砕するのが彼らの役目だ。

「質問があります」

 隣を進むアトミールはすっかりワタトカゲを乗りこなしている。私なんか何度も怖い思いをしたのに。ずるい。そんな子供じみた嫉妬を振り払って、彼女の質問に耳を傾ける。彼女は私の身につけた胸甲と、重装歩兵の盾とに視線を向けてから、切り出した。

「あの盾やその鎧で銃弾を止められるというのがまだ納得できていません。いったいどんな素材を使っているんですか」

「いい質問だね。あれもまた、現代古術学の成果の一つだよ」

 私は何一つ関わってないけれど、思わず鼻が高くなる。

「黒絹病っていう病気があってね。これに罹った蚕は黒い糸を吐くようになる。思うように繭がほぐれないし色も悪いっていうことで嫌われていたんだけど、これがなんと! 薬液を工夫すれば綺麗にほぐれる上に、生地にするととんでもなく強いっていうことを発見した先生がいたんだよね。確か三十年くらい前。黒絹病自体が蚕に強い糸を吐かせるためにものかもっていう話もあるみたい。それを使ってるんだよ。物凄い高級品だけどね」

 ヒンチリフ家は財政的に豊かではあっても人口的には田舎の小領主に過ぎない。精一杯兵を集めても三百人か四百人程度だ。残りは傭兵で補う手もあるけれど、そうはしないで一人一人にありったけの投資をしている。兵の装備だけならケイレアの代統領親衛隊にだって引けを取らないだろう。その一例が黒絹の盾を持つ重装歩兵だし、あるいは同じく胸甲を身につけた騎兵だ。でも、それは最大の象徴というわけではない。縦隊の前後を散開して進む銃兵たちこそが、最も惜しみない投資を受けた兵たちなのだ。

 彼らは大きな盾も、身の丈に倍する槍も持たず、胸甲すらない。けれど、その手に握られているベレクトン速射旋条ライフル銃は画期的新兵器だ。旋条銃は高い威力と射程、命中精度を持ち、黒絹の防具を纏った兵を相手にしても、弱点を狙い撃つことで正面から銃撃によって倒すことができるし、黒絹以外の防具を事実上無意味なものにする。しかし装填に長い時間が掛かるから、今まで敵の指揮官を狙い撃つような役割以外では使いづらかった。一方、昔からある滑腔銃は、安価で数が作れる上装填も簡単な代わりに黒絹の盾を相手にすると分が悪い。側面や背後に接近することができれば絶大な威力を発揮するけれど、そんな機会というのはなかなかないものだ。連邦造兵廠で古代銃を研究していたベレクトンは、あえて古代銃の構造を真似しないという逆転の発想によってこの銃を発明したという。連邦政府の認めた家以外は製造も所持も認められず、認められたとしても普通の旋条銃より一桁高価なこの銃を全ての銃兵に持たせている家は、もしかしたら我が家くらいかもしれない。

 こうして見てみると恐るべき布陣だ。これを苦戦させる海賊なんてやっぱりどう考えてもおかしい。思わずあの日の恐怖が蘇りそうになるのを振り払う。今向き合うべきは過去ではない。平原のちょうど反対側出口に展開しているであろう青軍だ。あちらも編成は殆ど同じだ。

 青軍がどこに布陣しているかがわかれば作戦も立てやすいが、先の斥候はそれを探知することに失敗してしまった。だから、この平原のどこかで遭遇戦になるというくらいの漠然とした前提から作戦を考えたほうがいいだろう。ううん。難しいぞ。

「アトミールが突っ込んで終わり、ってなれば簡単なのになあ」

 ため息まじりで誰とも無しに言うと、彼女は困った笑顔を浮かべる。

「それでは私の単独戦闘能力を示すだけではありませんか。今回実証したい要件とは異なります」

 そう。今回私たちが示したいのは、軍隊を動かすだけの差配をして、勝利のための判断をするだけの能力があるということ。強い一人に全部を任せるようでは駄目だ。

「ミューンならどうする?」

 反対側で何やら不機嫌そうな顔をしていたミューンは、話題を振られると何やら取り乱したようだった。ばつの悪そうな笑顔を浮かべて答える。

「え、ええ。そうですね。我ら攻め手には、攻め時、攻め場所が思いのままであるという利益があります。陽動の上で別方面から攻めかかるのが定石かと」

 何か考え事でもしていたのだろうか。それはさておき、彼の意見は理に適っているように思った。さすがだ。アトミールにも意見を求めるが、戦術については知識が不足しているから答えられないという。

「当然ですよ。用兵というものは一朝一夕に身につくものではありません。気にされることはない」

 そう言う彼の声は弾んでいた。自分の力が発揮できて嬉しいのだろう。けれど、私は別の考えに気を取られていた。

「そもそも青軍を倒す必要ってあるのかな」

「それは……どういうことでしょう」

「ヒンチリフを占領するのが橙軍の目的でしょ。うまく青軍を引きつけて、その隙に邂逅平原を抜けちゃうんじゃ駄目なのかなって」

 私の問いかけにミューンは首をひねった。素朴な疑問を呈した素人をどうやって説得しようか。彼の表情にはそんな苦渋が窺える。

「そうですね。ヒンチリフが無防備ならそれもいいでしょう。しかし、寄せ手として守兵の有無は全くわからない。ここまではよろしいですか」

「守兵がいたら挟み撃ちなんだ」

「さすがのご理解です。城方と後詰めの両方を同時に相手取れるだけの十分な兵がおればそれも立派な戦術の一つとなりえますが、同数程度の戦いとなればそうも参りません」

 ミューンが笑顔を浮かべるのを嬉しく思いながら、私は彼の献策に従うことに決めた。

「よし。ミューンの策で行こう。前衛と後衛から銃兵を五名ずつ抽出、指揮官ミューンをあわせて十一名で陽動部隊を編成する。このまま直進して明朝から攻撃を開始、私たちは迂回して北から攻撃する」

 高く笛が吹き鳴らされ、伝令が駆け回る。

「クロエさま。段列はどのように分割されますか」

「あ、忘れてた。こっちのほうが長距離を動くから、六分の一だけ置いていこう」

 いけないいけない。兵だけじゃなくて物資をどうするかも考えないといけないのか。この調子じゃあ思わぬところで足を取られるかも。そんな心配を見ないようにしながら、私は蜥首を進めた。


 †


 あくる日、まだまだ赤い空の下を私たちは進軍する。既にミューンたちは戦闘を始めているころだろう。うまく戦えているだろうか。

 この形式の演習では、実際に剣を交えるようなことはない。各部隊には立会人が同行していて、両軍の布陣からその有利不利を判定するのだ。

 彼らには、重装歩兵や騎兵を伴う大規模な部隊の前衛を装うように命じてある。どの程度の戦力をそちらへの対処に振り向けるか、父さまは悩んでいるに違いない。その間に銛の台の高地を抑えてしまえばこちらのものだ。そうなったとき皆がどんな賛辞を言ってくれるのか、今から楽しみで仕方がない。

 正面には既に銛の台が迫りつつある。手前にある邂逅川はこの辺りでは浅く、問題なく渡ることができる。今のところ敵の姿はないし、楽な勝負になりそうだ。そんな皮算用をしていたとき、息を切らせた武官が飛び込んできた。

 顔と名前が一致しない。どうしてこんなに難しいことを父さまや兄さまたちは簡単にやってのけるのだろう。内心肝を冷やしながら、彼に語りかける。

「どうしたの、フェルグス」

「恐れながらフェルニスでございます」

 ああやってしまった。内心頭を抱えながら、誤魔化し笑いをする。

 私が言い逃れを並べる間もなく彼は跪き、大音声を発した。

「申し上げます。ミューナルト・レキシロイどの率いる陽動部隊は本日未明に青軍の襲撃を受け壊滅いたしました。私はクロエさまに変事をお伝えせよとの命を受け包囲環を突破、ここに参上した次第でございます」

 あまりにも突然だったので、何が起こったのか理解するのに随分時間が掛かった。ミューンたちが、壊滅? やがて思考が現実に追いつき始め、自分が何をしたのかがはっきりとわかってきた。私はとんでもないへまをしでかしたのだ。

 そもそも相手が攻勢に出ることを最初から考えていなかった。なるほど橙軍は攻撃側だし、青軍は守備側だ。だけど、それは目的がそうであるだけであって、過程の中で攻守が入れ替わることは当然ありうるのだ。ミューンが言ったのは戦いの常道。老練な父さまなら当然考えに入れる。先手を打ってこちらの連携を崩そうとするのは当然じゃあないか!

「ヒンチリフ方面に敵出現!」

「側面から敵大部隊! 青軍主力です!」

 遠くから叫び声が聞こえる。終わった。もう駄目だ。結局私はいつもこうなんだ。苦し紛れに何かをやって、中途半端に終わる。

 未来の私の姿が浮かぶ。ヒンチリフを追われたアトミールの寂しげな背中が遠ざかる。私は出来損ないの貴族として一生をぬるま湯に使って過ごし、腫れ物としての人生を終える。

 どん底に陥ろうとした私の思索を、皆の視線が現実へと繋ぎ止めた。フェルニスが、リミーが、私の指示を待っている。その一歩後ろでは、アトミールがもの言いたげに私を見ている。

 そうだ。私は負けたくない。出来損ないかもしれないけれど、諦め悪くかじりつきたい。

「状況は?」

「正面と右翼に敵銃兵多数、数はほぼ同数、半包囲状態のこちらが不利です」

 だいぶ前に聞いたことを思い出した。射撃戦は、白兵戦と比べて数の違いがさらに大きく影響する。白兵戦では同時に戦える数には限界があるけれど、射撃戦ではその限界がはるかに大きいからだ。

 背中を流れる汗をつとめて意識しないようにしながら、私は打開策を求めた。まずは状況をつぶさに見ることだ。それが研究であれ、戦いであれ。

 燈軍は邂逅川を正面に見て進軍中だった。その辺りは浅瀬になっていて、渉ることができる。そこに青軍の銃兵隊が陣取って私たちを迎え撃とうとしている。そして右翼には同じく銃兵隊を先頭にした敵。行政区長旗を掲げているから、こちらが主力なのだろう。そのことに、小さな違和感を覚えた。

「どうして銛の台のほうじゃないんだろう」

 青軍支隊は川の手前に陣取って私たちを待ち受けていた。青軍主力は、こちらへ向け真っ直ぐに向かってきているように見える。――じゃあ、今まで何をしていたんだ?

 アトミールなら何かわかるだろうか。横目で見た彼女の表情は明るくない。そうだ。作戦には明るくないと言っていたじゃないか。彼女も歯がゆいに違いない。小さなひらめきが浮かんだのはそのときだった。戦い自体には明るくなくても、もっと状況を限定してあげればどうだろう?

「フェルニス。支隊が攻撃された時間帯はわかる?」

「はっきりとは。しかし払暁ふつぎょう直前であったかと」

 素早く返ってきた返事。続けてアトミールに訊ねる。

「青軍主力がミューンの支隊を撃破した後ここに戻ってきたとは考えられない?」

「可能です。移動速度を我々と同程度であり経路を直線と仮定すれば、会合地点は現在地を中心としてサブエミア(およそ二キロメートル未満)程度の圏内に収まります」

 ミューンたちを攻撃したのは青軍の主力だった。このことは驚きでもあったが、納得もした。父さまからすれば、私たちが全戦力を真っ直ぐ進めている可能性だって考えなくてはいけない。半端な戦力を差し向けるわけにはいかなかったのだ。で、あるなら。

「前衛銃兵隊は急進して正面の敵を拘束せよ。重装歩兵隊は右翼の敵を正面として戦闘展開、後衛銃兵隊は右翼に進出して重装歩兵隊の展開を援護せよ。砲兵は重装歩兵の右側面に布陣して敵重装歩兵の接近に備えよ。騎兵は――」

 本当は人任せにしたい。けど、今この瞬間一番大事な場所で、私は判断しなければいけない。

「私に続け。急いで!」

 手綱を緩める。乗蜥が速度を上げて前へと進み始める。振り返ると、九騎の騎兵とアトミールが私に続いている。

 右翼の主力部隊に戦力が集中しているなら、正面は手薄なはずだ。これを先に撃破できれば、支隊を失った分の負けを取り戻すことができる。銃兵の数ではやや劣勢かもしれないが、騎兵が合わされば、あるいは。

 私たちがちょうど前衛銃兵隊を抜き去ったとき、ちょうど射撃戦が始まった。まだ前方の青軍兵は小指の爪ほどにしか見えないというのに、兵が装填動作と射撃動作を繰り返すたび、立会人の旗が振られて双方の兵が脱落していく。もしここで本当に弾と火薬が込められていたなら、ここで脱落した兵は本当に命を奪われていたのだ。それも、私の命令で。心の中がざわめく。

 そのとき、立会人の旗がこちらへ向けて振られた。三名脱落。ただちに三人が手綱を引いて止まる。おそまきながら、こちらへの射撃が開始されたようだ。だが、遅い。敵は既に半ばを失っているらしい。散開した軽歩兵が十名かそこら。対して射撃支援を受けた騎兵が六騎。いける。もう敵は目の前だ。剣を掲げ、高らかに叫ぶ。

「突撃! 前へ!」

 演習としてはここまでだ。手綱を引き、速度を落とす。立会人は、どう判断するか。固唾を呑んで見守るなか、橙の旗が大きく振られた。突撃成功! この瞬間、突撃を受けた銃兵隊は敗走したと見なされ、もはや戦力には数えられない。

 意気揚々と振り返ったとき、私は信じられないものを見た。青軍が橙軍主力へ向けて突撃している。まずい。思ったより時間を取られた。乗蜥に鞭をくれ、本隊との合流を急いだ。


 †


 演習を終えた私たちは、屋敷へと戻り大広間での終結式を迎えた。立会役長を務めたレイノルト・レキシロイ――ミューンのお父さま――が父さまの前にかしずいて演習の結果を報告している。この日ばかりは私も一軍の将として遇されるから、父さまの隣という一等地に座っている。こう大勢がひしめくと、大広間も全く広く見えない。いかつい男の人たちが肩を寄せ合って窮屈そうにこちらを見ている。

「恐れながら申し上げます。昨日より実施の月例演習は、青軍の勝利にございます。青軍は内線の利を生かし寄せ手の橙軍を各個に撃破、撃滅を急ぐ余りの損耗もございましたが、その後は橙軍の隙を見せず刻限まで持久、目的であるヒンチリフの防衛に成功いたしました」

 沸き起こった拍手に私も加わる。私が打った窮余の一手は確かに橙軍を敗走から救ったけれど、それ以上のことはできなかった。がっちり睨み合いとなるともう迂闊に動くこともできず、そのまま時は流れ、演習終了を報せる大砲の音が響くまで小競り合いを続けることしかできなかった。結局、私は敗れたのだ。

「青軍橙軍の将兵みなよく戦った。おのおのの働きぶりについては追って吟味するが、まず今夜は晩餐会だ。よく飲み、よく食い、明日からの鍛錬の糧とせよ。以上、解散」

 ぞろぞろと参加した将兵が去って行き、最後に私と父さま、そして僅かな使用人だけが残された。がらんとした部屋の中、使用人たちが片付けをする音だけが聞こえる。私は気持ちが落ち着かなくて、何気なく天井に描かれた絵を見上げる。入口の方は暗い雲。私たちのいるあたりには抜けるような青空と移り変わるような空の絵が描かれている。崩壊戦争はあまりに壮烈な戦争で、その余波は天空にさえ及んだらしい。何ヶ月も空は厚い雲に閉ざされ、木々は枯れ、川は凍てついた。そんな苦難も、人々は寄り集まって耐え忍んだ。この絵はその伝説を表現しているのだという。

「クロエ。聞きたいことがある」

 来た。何かあるような気がしていた。

「お前の砲が私の騎兵を薙ぎ払ったあのときのことだ。私が丘を迂回させるとは思わなかったか」

 それはずっと心に引っかかっていたことだ。結果として成功した策だったかもしれないけれど、これが本当に正しい一手だったのか。父さまのこの問いかけは詰問なのだろうか。

「常道としてそのような方法があり得るとは存じていました。しかし、父さまはそうなさらないと確信していましたので」

 この答えに父さまは興味を覚えたようだった。ほう、とため息をつき、口ひげを撫でる。

「それは、なぜか」

 もうこうなってしまえば正直に答えるしかない。それを父さまがどう判断されるかは、気にしないことにする。

「あそこで時間を掛けるということは、橙軍を完全にやっつけることを諦めるということです。そうなったら対陣は確実に長期化します。ちょうど、私が反撃に転じたことで現実にそうなったように。そのとき、双方の兵の糧はどうなりましょう。橙軍は侵略者ですから、食うに困れば見境なく民の糧に手をつけるに違いありません。父さまはそれを好まれない。だから、危険を冒してでもあの瞬間に後顧の憂いを絶とうとされる。私はそう考えました」

「……結果として敗れれば元も子もない。それよりならば多少の苦難を民に強いてでも確実な勝利を得るという考えもあるのではないか?」

「もちろん、そうです。ですが、父さまは以前仰っておられたでしょう。目先の苦難を強いて先の幸いを説くのは容易いことだ。その苦難を負うのが我が身でなければ尚のこと。それが必要なときもある。だが本当に今がそのときなのかと常に問い続けよ、と」

 父さまは天を仰いだ。ちょうどさっきの私のように。その目線は最初分厚い曇天へ向けられ、ゆっくりと、直上に差す眩い陽光へと向けられる。それをしばらく見つめた後、大きな声を上げて笑い始めた。

「なるほど! そうか! お前がそれを考えたのか! そうだろうな。アトミール殿はそんな昔のことなど聞いているまい。わかった。悪かった。私はお前をいささか低く見積もりすぎていたようだ」

「それでは――」

「うむ。合格だ。アトミール殿も兵站に参謀にと活躍されていたと聞いている。行ってくるがいい。どこの誰か知らんが、このの一角たるヒンチリフを甘く見ていると痛い目を見ることを思い知らせてやれ」

 私は椅子から跳び上がりそうになったが、品がないと思って慌ててこらえた。

「ただし、一つだけ条件がある」

 急に真剣な顔になった父さまが、私を強い眼差しで見つめる。その色に微かな不安を感じて、私は息を呑んだ。

「生きて帰れ。無茶をするな。……お前は手の掛かる子供だが、私たちの娘なのだ。お前なら大丈夫と信じた私の期待に応えてくれ」

「はい! 必ず!」

 よくわからない衝動がこみ上げてきてあふれ出す涙を、私は慌てて拭った。

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