第12話 どんな紫が好き?

 藤を女性に例えたのは、誰だったっけ。

 目の前の幹を前にして雪彦ゆきひこは首を傾げた。幾重にも絡まるようにして太くなったその幹は、しなやかな丸みを帯びていて、それこそ女性の身体を連想させた。

 梅よりも甘く、桃よりも気高く、桜よりも切ない。そんな香りが鼻腔を抜けて、脳に直接語りかけてくる。紫式部が光の君の最愛を藤の花にした気持ちが、少しわかったような気がした。

 腕のようにも見える枝の一部に、手を掛ける。誘われるように幹の中心へと、扇情的に繋がっている。

 皐の風がそっと降りてきて、無数の花房がゆったりと揺れ、ほろほろと藤の花びらが舞い散っている。まるで滝みたいに雪彦の頭上から髪に、首筋に、しとやかにたおやかに、こぼれ落ちてくる。

 日差しの中で、こぼれる藤の花びらが優しくきらめく。

 淡紫の花びらが頬にこぼれるたび、雪彦の肩が震えた。やわらかく触れる花びらは、誰かの指先に似ていて、遠い記憶を思い起こさせる。


 ――こんなふうに、触れて欲しかった。

 ――誰に?


 触れて欲しかった手のひらは、痛いものへと変わってしまった。傷つけられた記憶は、簡単に塗り替えられることはない。一時は独りになろうとしたこともあった。でも、それは許されなかった。アイツがいたから。不覚にも、その手に縋りついてしまった。その手は藤のようにやわらかくもなかったけれど、あたたかかった。

 藤の一房を手に取り、そっと口づける。春の光をたっぷりと含んだその花房の柔らかさに、胸がきゅっと音を立てて締め付けられ、思わず瞼を閉じた。

「雪彦」

 藤の花房を、まるでカーテンを開けるように避けながら大樹だいきが立っていた。藤の花がまるで似合わないその体躯にも、花びらが降り注ぐ。

「なに?」

「探した」

「そう」

 藤のカーテンが彼を遮る。その間にもほろほろと滝のようにこぼれ落ちてくる。そっと、地面に散らばった藤の花を踏みながら、大樹は音も立てずに近づいてくる。

「雪彦は、藤が似合うな」

「それ、君の父親にも言われた」

「あれ、そうだっけ」

「そうだよ」

 君たちは親子揃って、無邪気に子どもみたいにそんなことを言うんだ。目を伏せると、雪彦の睫毛に花びらが一つ引っかかった。

「似合わないよ。こんな綺麗な花、俺に似合うわけがない」

 雪彦の髪に散らばった淡紫の花びらを、大樹の手のひらがそっと払った。花びらのように柔らかくはないが、枝のようにしっかりした手のひらだ。

 卑怯なのは自分だ。その先の言葉を期待している。

「雪彦は綺麗だよ」

 そっと指先が首筋に触れる。ビクッと肩を強張らせた。母親に首を締め付けられたあの感覚が、まだ消えていないのか。

 藤の淡い紫色の香りが、ふわりと大樹の指先から漂ってくる。その香りが雪彦を落ち着かせる。甘いのに、切ない。強い香りが過去を流していく。

「過去の傷に囚われないって言ったのは誰だったっけ?」

 大樹のテノールに似た声が耳をくすぐる。挑発するようなその物言いに、なぜかしら胸がざわついた。 

「たまに思い出すくらいいいだろう」

「傷痕がそんなに大事な思い出か?」

「大事さ」

 頬に触れた大樹の手の甲に触れる。

「だって、過去の虐待がなかったら、俺は君に会えていない」

 傷もまた自分の一部だ。だから絶対に消し去ることなんてできない。男を好きになるこの性質は変えることはできないし、過ぎてしまった選択は、正しいものとは言えないが、きっと今の雪彦の糧になっている。

 大樹の肩に顔を埋める。藤の香りの中、大樹の薫りをぬくもりと共に感じる。幹の中を水が流れるように、血液が流れている音が聞こえてくるような気がした。

「大樹、触れても?」

「ここでか」

「藤が隠してくれる」

 一瞬だけ、唇を重ねる。

 大切でたまらない宝物に触れるような口づけ。

 唇を触れているうちに、喉の奥が甘くなってくる。藤の甘やかさだけではない。

たぶん、きっと……




 影崎かげさき 雪彦ゆきひこ

 皐美空のウィスティリア・カーテン

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