第8話 どんな赤が好き?
言葉は果実だ。日が経つごとに熟れて、腐りかけて、それを聞いた者の心をだんだんと蝕んでいく。
忘れられない言葉がある。とても甘い声だった。だけど悲痛さを含んでいて、そのとき零れた涙を糧に、蜜を滴らせていた。その蜜の一滴に、どれほどの毒が含まれているのかも、それを作り出した本人はすっかり忘れているのだろう。
幼い頃の約束なんて所詮、そんなものだ。
でも、それを中学三年生になった今でも律儀に守っている自分は、そう思い切れていないのだろうか。
読書をするだけの図書室には不釣り合いな喧噪が耳に入ってくる。
部長の
そんな光景を見ていると、どうして自分は同じように騒げないのだろうとか思ってしまうが、そんなのとうの昔に割り切ってしまった。自分はこうなのだ。
思えば、騒ぐは音の集合体で、その音の根源は言葉なのだ。それなら一体なんの為に、僕らは言葉を持ったのだろう。
きっとみんな、伝えるためと答えるだろう。けれどなにを? 伝える内容にもよりけりだ。それが世間の意図しない者であると、途端に多くの刃を向けられる。
【ハゲワシと少女】という題名の写真がある。アフリカの道ばたに、骨と皮だけの少女が蹲っている。その近くでハゲワシがじっと少女を見つめているのだ。少女がいつ、餓死するのかを、待っているのだ。
その写真を撮ったカメラマンは、確かピュリッツァー賞を受賞した。しかしその後、自殺した。なぜ少女を助けなかったのかと、その道徳性を批判されたからだった。
その一連の出来事を悠馬が知ったのは、中学一年生の国語の教科書だった。報道写真を通して、メディアとは何かを学んだような気がする。でも、そんなことはちっとも頭に入ってこなかった。伝えるために写真を撮った。それが本来とは異なった意味を持って、広まって、ついには人の命を終わらせてしまった。その事実だけが、頭の中を占めていた。
毒の果実だ、と思った。賞賛は甘美だ。けれど後から来る批判は、毒だ。人を簡単に死に至らしめる。
今、文字を書く自分たちにも、それは当てはまるのではないか。自分だって少なからず内なるものを昇華し、作品に反映する。けれどそれが世間の目に触れたとき、どうなるのだろうとか考えてしまう。肯定となれば評価され、持ち上げられる。批判となれば、否応なしに先は見える。最悪の場合あのカメラマンのように、自分の書いたものに、殺されるかもしれないのだ。自分が作り出した、毒林檎に。目の前が、真っ赤に染まった。
とてつもなく恐ろしかった。だってそれまでは考えもしなかったことだから。
だからこそ、言葉は慎重に選ばなければいけない。感情に任せて吐き出してしまったらいけない。きっと、知らずの内に相手を縛ってしまうから。彼女のように。
そんなことを頭の片隅で考えていると、否応なしに時間は過ぎていってしまう。騒ぐ間もなく、部活の時間は終わっている。
思いを口から出そうと、あのときのことを思い出してしまう。
『
感情のままに吐き出された言葉は、濡れた蜜をたっぷり含んでいた。それが毒だとは知らず、悠馬は食べてしまった。
体内に入った毒は、やがて溶け込んでしまって、簡単に取り出せなくなってしまった。そしてそれが毒と気づいたとき、悠馬は既に侵されていた。変わらずに彼女の隣にいる。恋心は、紅く染まった果実になっていた。
御伽噺のブラッド・フルーツ
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