第6話 どんな雪が好き?

 しらしらと夜が明けていくのを、縁側でぼんやり眺める。十二月まっただ中。昨夜から降り続いた雪は、まっさらな砂漠のように庭を埋め尽くしてしまった。

永時えいじ様ッ!」

 和服をアレンジしたワンピースの上に、エプロンと上着を羽織った少女が、永時を見つけてやってきた。

 …………誰だっけ、この人。

 着物の懐から一冊のメモ帳を出して、ぱらぱら捲る。彼女の顔写真が載っている頁で、手を止めた。

 彼女の名前は、岩戸いわとみやこ

 好きなものは、猫と木登り。

 嫌いなものは、冬と読書。

 この広い青海おうみ家の屋敷中で、唯一歳が近しい少女であり、一昨年から永時付きの侍女になった。

 …………そうだったっけ?

 そんなことを反芻している内に、都という少女はずかずかと永時の前にやってきて口を開いた。

「またこんなところにいらっしゃったのですね? 今朝は晴れて良かったですけど、こないだみたいに雪が降ってる中に出られては、またお父様にお叱りを受けますよ!?」

 耳を塞ぎながら再びメモ帳に目を落とす。自分の文字で、ちいさく「よく喋って五月蝿うるさい」と書かれていた。

 このメモ帳が、永時の記憶の全てだ。どうしてか一日で記憶がリセットされる永時が、かろうじて保っている最小限の記憶。一時期、日記を付けようとしたが、それすらも忘れてしまって続かなかった。

「…………まだ外に出ていない」

「まだ!? 外に出ようとしてたんですね!? 認めましたね!? みやこ、確と聞きましたよ!?」

 凍えて赤くなった指先をすりあわせながら、都は大きな目をさらに見開いた。朝から元気なものだ。

「それにしても、永時様はほんとに雪がお好きなんですね」

 ふわりと雪の香りが漂う。すっきりした水の香りだ。ソーダともまた違う。こういう感覚的なことは、断片的に覚えているのになぁ。そういえば、こんな文をどこかで読んだような気がする。

「都」

「はいっ?」

「あめゆじゅとてちてけじゃ」

 呪文を掛けられた猫みたいに、都はかちんと固まってしまった。永時はもう一度「あめゆじゅとてちてけじゃ」と言ってみる。

 雪のせいで音が反響しない。本当にここには永時と都しかいないような気もしてきた。都がようやく口を開いた。

「あ、あめ……ゆ? 永時様? 日本語で言って頂けると助かるのですが」

 あぁ、と永時は首を傾げた。聞こえなかったのではなくて、意味が伝わらなかっただけなのか。

「…………なんでもない」

「なら、初めから言わないでください」

 ごめん、と呟いてから庭を改めて見渡す。池も凍り、花壇にも灯籠にも雪が積もっている。でも、雲の切れ目から指してきた朝陽に、少しずつ溶かされている。永時は何かを思い出そうとして瞬きをした。

 ずっと、忘れられない言葉があった。どうして覚えているのか、どうしてそれだけが記憶に残っているのかは、わからない。メモ帳にも書いてない。でも、覚えているのならば、この言葉を大事にしたい。だって、僕が唯一覚えているのだから。意味なんて無くても、大事にしたい。

 瞼を閉じる。唇が勝手に開いて、すらりと言葉が流れ出てくる。

「おまへがたべるこの二椀の雪に わたくしはいま こころから祈る どうか これが天上のアイスクリームになって おまへとみんなとに きよ資糧かてをもたらすやうに わたくしのすべての さいはひをかけて ねがふ」

 残念なことに、現代語訳は覚えていない。

「それ、たまに唱えますよね、永時様」

「そう?」

 都はまったくもって見当がつかないという眉を寄せていた。はっきり「わかりません」と顔に書いてある。当たり前だ。永時にもわからないことが、彼女にわかるわけがない。

「都」

「はい?」

「アイスクリームが食べたい」

 僕は一体、誰の幸せを願っているんだろう。



 青海おうみ 永時えいじ

 僥倖ぎょうこう白雪しらゆきのアイスクリーム

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