第5話 どんな雨が好き?
「アトリ?」
グランドピアノの前に座るクロエが不安そうな顔をして、
「どうかしたの?」
「ううん、なんでもないよ」
ヴァイオリンの弦を調節する。楽器は繊細だ。少しの湿気でも音を狂わせる。それに花鶏は、元から雨は嫌いだった。
「ちょっと休憩しましょ。紅茶淹れてくるわね」
ピアノ椅子から立ち上がり、花鶏の額に軽くキスをしてからクロエは部屋を出て行った。香水だろうか、少し切ない花の香りが額から薫った。
「…………いきなりキスしてくんなバカ」
熱を持った頬をひんやりした手の甲で冷やす。外国人はどうしてこうもスキンシップが多いのだろう。事あるごとにボディタッチをするし、抱きついてくるし、キスをしてくる。男女問わず彼らは愛情表現だと言うけれど、日本人の花鶏には刺激が強い。
黒檀の窓辺に寄りかかる。窓越しに、微かにさぁっと雨音が聞こえてきた。囁くように、静かに泣くように、静かに降り続いている。
しっとりした窓辺に手をやると氷のように冷たかった。
「あの日も、こんな雨が降っていたっけ」
思い出さないようにしていたが、無理だった。スクリーンのような雨のカーテンに、あの日の光景が映り込む。
葬儀の日だった。
彼女の兄が亡くなった夜から、ずっと降り続いていた雨は、その時になっても止むことは無かった。
彼女は泣かなかった。ただ呆然と、懐いていた兄の遺影を見つめていた。どうして死んじゃったの? そう目が言っていた。彼女の心情を表したような雨の中に連れ出して、花鶏はただ「泣けよ」と告げた。
「雨が隠してくれる」
でも彼女は泣かなかった。ただ、雨に兄の記憶が流されるのを恐れていた。あれ以来、彼女は雨が降る日を嫌い、傘の中に縮こまって震えるようになった。
持っていたヴァイオリンの弦に弓を滑らせる。流れるはフレデリック・ショパン【別れの曲】。
彼女の兄は、ショパンが好きだった。その中でもよく弾いてもらったのは【別れの曲】だった。彼がどうしてこの曲を好んで弾いていたのか、結局聞けずじまいになっていた。
「【別れの曲】ね」
目の前にソーサーに乗ったカップが差し出される。ほわっと立ち上る紅茶の香りが花鶏の顔を殴った。
「寒くない? アトリ」
「平気だ」
カップを受け取る。冷えていた指先が温まっていく。
「なにを考えていたの? あ、待って当てるわ……フウカのことでしょ」
「誰があいつのことなんか考えるか」
風夏の名前が出た途端、声を荒らげる。今、クロエの口から一番聞きたくない名前だ。クロエはくすくすと笑いながら、花鶏の隣に座ってカップに口を付けた。
「だって、こんな日だったんでしょ。フウカのお兄さんが亡くなったの」
そうだけどさ。首から胸に掛けてもやもやしていた。クロエと付き合っているからだろうか、彼女から他の名前が出てくると、錘みたいな変な雲が胸にかかるのだ。
「だから、弾いていたのね」
「え?」
「【別れの曲】」
「…………なんで考えてることがすぐにわかるんだよ」
口紅のついたカップをソーサーに置きながら、クロエはまたくすくすとそよ風のように笑った。その頬が林檎のように紅く染まっていて、林檎の香りが香ってきそうだった。
「アトリの恋人ですからね」
そう言って今度は頬にキスをした。緑色の瞳が、妖しく揺れている。顔が離れる前に、クロエの頬を両手で包み込んで、その唇を封じた。すぐに離れると、クロエが「もうちょっと」とねだってくる。
「もうちょっとだけな」
隠してくれる雨に感謝して、濡れた林檎の香りがする唇に、そっと触れた。
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