第1話 どんな夕方が好き?
図書館を出ると、一気に蝉の声と熱気を含んだ風が
「…………あっつい」
ほぅ、と息を吐くと、頬に雫が流れた。
小さなクリスタルビーズが連なった腕時計に視線を落とす。十八時まであと二十分。すっかり夕ご飯の時間に近づいているが、愛衣はくるりと回れ右をして、もう一度館内に入っていった。
図書館の売店で買ったソーダ味のアイスを囓る。すきっとしたソーダの香りが、鼻から抜けて火照った頬を冷ましていく。いつもだったらアイスレモンティーに限るが、今日はアイスの気分だったのだ。
お行儀が悪いが、アイスをくわえながら外に出る。相変わらず蒸し暑くて、でも微かに金色がかっていた。太陽が本格的に傾きはじめたらしい。風の中で鳴いていた蝉たちの声が小さくなって、微かにヒグラシの切ない声が聞こえていた。中に入っているラムネが、歯に当たってしゅわっと溶けて、口の中で弾けた。
「夏休みの宿題も、こんなふうに溶けちゃったらいいのに」
帆布バッグに入れた夏休みの宿題。その重さが恨めしい。
中学三年の夏。高校受験を来年に控えた愛衣は「全員進学」を合い言葉にしながらも牽制し合うクラスに、やっと慣れたところだった。普段の宿題に加えて、受験用と題された問題集の分厚さは、物理的にも精神的にも愛衣に打撃を与えた。
参考書の間に挟まっていた冊子を取り出す。今年の春に学校で配られた高等学校の案内雑誌には、私立と公立の有名どころが掲載されている。
「……高校か」
正直、今の段階で何処に行こうかなど決めていない。行けるところに進学しようとしか考えていない。ぱらぱらと冊子を捲るが、やはり気にも止まらなかった。来週の夏休みの投稿日には、進路面談もあるというのに。
文芸部の愛衣は、どうしてもあの居心地のいい図書室を出ることを考えられないのだ。留まっていてはいけない。でも進むのは怖い。それを許したのが図書室であり、文芸部だった。
八月の半ば。もうそろそろ18時になろうとしているのに、まだ太陽は煌々と照っていた。日差しが当たっている背中に熱がこもっている。季節ごとに気温が変わる。太陽自体、どのくらいの温度なんだろう、と愛衣は不思議に思った。
夏の夕暮れは、どこか寂しい気配が漂う。それは秋や冬によく言われるが、愛衣は夏が一番寂しいように感じる。名残惜しそうに沈む太陽も、いつまで経っても変わらない空の青色も、なんだか、夏に未練があるみたいにずっと残っている。夜が来るのが怖いみたいだった。
首筋に雫が流れる。被っていた麦わら帽子を外し、汗を拭おうと手を伸ばした際、目の端に夕陽がきらりと輝いた。涼風が、愛衣を追い越していった。
黄金色の光が愛衣を射貫いた。さっきまで透明な夏色だったはずなのに、いつの間に変化したのだろう。その光源を見定め、愛衣ははっと息を飲んだ。民家と民家の間から、赤い目のような太陽が覗いていた。
その瞬間、サンダルを履いた足が愛衣の意志とは関係なく勝手に走り出した。少しヒールがあるサンダルが、から、から、から、と音を立てながら坂を駆け上がっていく。高台にある公園までたどり着いても、そのまま町を一望できる場所まで足を止めない。白いサンダルが、赤い靴になっていないか思わず確認してしまった。
展望台の柵に手をついて、大きく息を吸う。肺が酸素を求めていた。ばくん、ばくん、と心臓が脈を打ち、さっきアイスで潤した喉咽が夏の空気のせいで激しく乾いていた。
その瞬間、光が色を変えた。
黄金色が、濃度を上げて濃い蜂蜜色に変化していく。空気だけじゃない、涼風がとろりとした蜂蜜色に染まる。風も微かに粘度を上げたようで、肌がふわりと撫でられる。そんな中、空の色が変化していく。淡い水色だったのが一瞬だけ空を虹色に塗り替える。
「
雲の辞典で見たことがある。確か、日光が雲に含まれる水滴で反射を繰り返して、その度合いが光の波長のズレを起こしてできるものだ。知ってはいるものの、愛衣が実際に見たのはこれが初めてだった。
赤や緑、黄色に青色が艶やかに折り重なっていた。その彩雲が、蜂蜜色の光と合わさって荘厳な景色を生み出していた。
でもそれは一瞬で、すぐに藍色の夜のベールが掛けられていく。あれだけとろりとしていた風は、夜の気配を含んで涼やかにさらりとしたものに変わっていった。頬に触れる風は、もう熱気を含んでいない。
「こんなに……早く変わっていくものなんだ……」
暗くなり始める空を見上げながら「怖い」と愛衣は一つ、身震いした。
午後18時のサンセット・レインボー
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