第2話 どんな夜が好き?

 出ておいでよ、そら。今日は、いい夜だよ。

 誰かの声に呼ばれたように、砂浜に張ったテントから出る。その声の主は、穹のことを待っていたように夜の闇へ誘っていた。

 靴を履かずにふらふらと波打ち際へ向かう。裸足の下で、細かい砂がさらさらとまといつく。首に提げた一眼レフの重さだけを感じながら、穹は視界いっぱいに広がる天空を見上げた。

「あぁ……今日はいい夜だ」

 街の光もない。写真を撮るためのフラッシュもない。あるのはそう、空に広がる星屑の光だけ。視線を変えるだけで、その輝きの色を変える。愛くるしい夜の煌めきたち。

 入り江に出る。ここは特に、人目に付かない上に誰も来ない。岩陰に隠してあった簡素なボートを引っ張り出して、波に載せてから乗り込む。ぎしっ、と軋んだ音を立てるが、ちゃんと穹を支えてくれた。

 オールで水底を突いて、沖へと漕ぎ出す。その瞬間、静かに広がっていた宇宙に、波紋が広がった。

 風が静かになって、海が凪いだ夜。そんな日は空と海が一つになる。星影が水面に映り込み、波紋が空に広がるのだ。

 その瞬間を穹は逃さない。

 沖に近いとことで碇を下ろす。波紋が静まるまでじっとしていた。その間に考えることと言ったら、写真の構図だったり、その風景に見出す意図だったり。けれど、その思考の合間に、必ずと言っていいほどに浮かぶ顔があった。


『穹』


 呼ばれたような気がして、閉じていた瞼を開いた。穹の視界に、声の主である彼の陰はない。

 気を取り直して一眼レフを構える。風がないおかげでシーイングは良好だった。星の瞬きを気にしないで撮影ができる。その一瞬を切り取る。永遠のように見える銀河の、一度だけの煌めきをレンズに収める。

 天の川の境目がわからない。銀河の中心が白く鮮やかに浮かび、南十字が顔を覗かせている。


『あぁ、穹の写真は好きだなぁ』


 シャッターの音と同時に、また、彼の声が聞こえた気がした。構えていたカメラを下ろす。

「…………うるさいなぁ」

 そっと、指先を水面に浸す。波紋が広がり、星の瞬きが大きくその身をくねらせた。海と空は鏡合わせのようで、実はそう出ない。海に空が映る。その境界は単なる界面に過ぎない。この境界を越えて、海の中に消えてしまったら。或いは宇宙に落っこちてしまったら。あお、おまえは黙ってくれるのか?

 するり、と穹は身体を海に滑り込ませた。潮の香りが身体全体を包み込み、指先が、爪先が、髪が、頬が、急激に冷やされる。顔を水面上へ出すと、唇がなまめかしくしょっぱい。浮力に逆らわず、そのまま身体を浮かせる。

 淡い星屑の銀河が海月のように空に漂う。上も、下も、銀に煌めく星影の海。空と海の境界線を儚く、ゆらゆらと漂う。


『俺たちには引力があるんだ! アルビレオみたいに、お互いに引き合う力が! なんてんたって、俺たち双子だもんな!』


 彼……双子の兄である碧の言葉が蘇る。

 穹は、碧と離れたかった。碧と双子に生まれたのが運の尽き。何かと強制されるお揃いや半分こが、大嫌いだった。それは、自分が一人で生きていけないと決めつけられているみたいに思えた。

 一方、碧は穹から離れたがらなかった。何処へ行くにもついてきて、食べ物は基本半分こして、部屋を分けることも駄々をこねて嫌がった。

 だから、碧がいない世界に出たのに。

 空と海の狭間に浮かび、穹はふふっ、と声を漏らす。そうか、おまえがまだ俺のことを引っ張っているのか。おまえから離れて、こんな地球の裏側に来ても、おまえは俺を引きつけ続けるのか。

「あぁ……どうしたら、碧は、いなくなってくれる?」

 揺らめく銀河に手を伸ばす。流星が、一つ流れた。願いを唱える暇なんて、無かった。

 星に願いを? うるさい、黙ってろ。




 七瀬ななせ そら

 午前0時のギャラクシー・オーシャン

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