第二十章「頭痛」(日尾木一郎の記録)
翌日。
「二人とも、命に別条がなくて良かったです」
「おかげさまで、命拾いしました」
と型通りに返してから、正直に続ける。
「
安心して気が緩んだのか、血を流しすぎたのか、あるいは、その相乗効果だったのか。彼女は一時的に気を失ったが、それだけだった。今日は一日静養するように言われているらしい。ついさっき見舞いに行ってきたが、顔色も良いようだった。
私も無事ではなかったが、切られたのは、ほんの
木田巡査に続いて、
「おいおい。またもや死者が出た以上『良かったですね』なんて言うべきではないぞ」
花上医師は、木田巡査をたしなめるように言う。
これを聞いて、木田巡査よりも、むしろ私の方が暗い気持ちになってしまった。
「規輝さんが死んだのは、まあ事故のようなものです。自業自得とも言えるから、きいちろうさんが気にすることはないですよ」
さらに、こう加える。
「それに、蒼川の御当主の方は、どう急いでも
そう。
昨日の夜に死んだのは、規輝一人ではなかった。珠美さんが襲われる前に、私が最初に聞いた物音や悲鳴は、
信子は、
一方、珠美さんは、信子の叫び声で、目が覚めていたのだろう。だから刃物を振りかざしながら規輝が部屋に入ってきても、冷静に対処できた。布団くらいしか身を守るものはなかったし、それすら切り破られた後は、両腕で防御するしかなかったため、腕には傷を負ってしまった。それでも、致命傷を受けることだけは免れたのだった。
「まだ痛むか?」
昨日の事件を私が回想する間にも、花上医師は、私の後頭部を診察してくれている。正直、診察のために
「はい。ズキズキします。酒も飲んでないのに、酷い二日酔いみたいで……」
「ふむ。二日酔いを引き合いに出せるくらいなら、たいしたことないかもしれん。まあ、それでも、頭だから心配じゃな」
花上医師は、何か痛み止めっぽい薬を塗ってくれたが、治療はそれだけだった。私自身の感覚としては、本当に痛いのは表面ではなく頭の中であり、少しくらい薬を塗られても気休め程度にしかならないのだが。
「それにしても……」
診察道具を鞄にしまいながら、花上医師は、
「
そう言い残して、帰っていった。
「どうなんでしょうねえ……」
しばらくして、木田巡査が重そうに口を開く。花上医師の言葉に、色々と考えさせられたらしい。
「緋山家の一連の事件が終わった時、私には、
まあ、それはそうだろう。木田巡査は、昨夜の事件よりも前から、規輝犯人説を提唱していたのだから。
それでも木田巡査は、苦笑しながら、こんなことを言い出した。
「でも、納得できる気がするものの、腑に落ちない点は、まだ残っているのですよねえ……」
特に、
また、緋山家の事件でも、
「確かに、緋山家の事件にしても、蒼川家の事件にしても、不可解な点は残っています。ただ、もうこれで事件が終わったのだとしたら、これ以上は詮索しない方がいいのではないでしょうか」
私は事態を穏便に収めようと思って、敢えて言ってみたのだが、これを木田巡査は笑い飛ばした。
「きいちろうさん、それは駄目です。あなたが、この事件を解決するべき探偵なのですから。朝子さんに指名されたのを、もう忘れたのですか?」
「いや、覚えていますが……。朝子さん以外にも、私に探偵役を頼んだ人たちはいましたが、もうみんな死んでしまいました。これ以上の調査を続けても、もしかすると、死者を鞭打つような事実をほじくり返すだけかもしれません。そう考えてしまうと、探偵役を続けるべきかどうか、少し悩んでしまいます」
「でも、きいちろうさん。あなただって、もうしばらく村に
蒼川信子が生きている間は、私は彼女に頼まれて、蒼川家の客人として、緋蒼屋敷に泊まっていた。では信子が死んだ今、これまで通りに私が屋敷で過ごすのは、どうなのだろうか?
ふと疑問に思って、木田巡査に尋ねてみると、
「もちろん、いいに決まっています。きいちろうさん、あなたは、新しい『御当主』の命の恩人なのですから」
新しい『御当主』。
薄々予想していたことではあったが、はっきりと聞かされると、少し不思議な感じもする。
珠美さんは『蒼川珠美』ではなく『
緋山家が死に絶えただけでなく、もはや蒼川の血を継ぐ者も、珠美さん一人になってしまった。そのため、一度は蒼川の姓を捨てた身ではあるものの、結局は珠美さんが新たな御当主になったのだという。
「きいちろうさん。もしも、いくつかの不可解な問題が解決されたら、緋山家の事件の真犯人が浮かび上がってくるのではないか。朝子さんの汚名も、そそがれるのではないか。……私は、そう期待しているのです」
木田巡査は立ち上がり、部屋から出ていこうとするが、机の上の書類を見て、その足を止めた。
「これは……。もしかして、この事件の記録ですか?」
「ええ。探偵としては素人だとしても、これでも私は、小説家の端くれですからね。せめて書き残すくらいは……」
木田巡査が目にしたのは、この私が長々と記してきた、まさにこの手記だった。彼は手に取って、パラパラと読み始める。
一応、私としては、他人に読まれても困らないように記してきたつもりだ。一部、珠美さんに対する想いを吐露した箇所もあった気がするが、それだって曖昧な書き方にしておいたし、この手記のかなり最後の部分だ。今この場で、木田巡査がそこまで目を通すことはないだろう。
実際、彼は半分くらいで読むのを
「素晴らしい。かなり細かく書いてありますねえ。きいちろうさん、これ、しばらく借りることは出来ますか?」
「いや、それは困ります。現在進行形で書いているものですから、今日も続きを記すでしょうし……。それに私自身、これを何度も読み返すことで、事件について推理しているわけですからね」
「そうですか……。では後日、またここに来た時にでも、読ませてもらいましょう」
そう言って、今度こそ木田巡査は部屋から去っていった。
そのまま特筆すべき事態も起こらないまま、夕方になった。
後頭部の痛みは、さらに酷くなってきた気がする。具合が悪い時は、しっかり休むのが一番だろう。
もう、この屋敷に残っているのは、私と珠美さんだけだ。この状況ならば、昨日のような事件もないはずだから、今晩は早く寝よう……。
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