第十九章「深夜の格闘」(日尾木一郎の記録)
その夜。
横になっても私は、なかなか眠ることが出来なかった。いったん目を開けて、時計を確認してみると、時刻は午前二時を過ぎている。ちょうど日付が変わる頃に布団へ入ったはずだから、もう二時間もの間、目を閉じたまま眠れずに過ごしたことになる。
どちらかといえば、私は寝付きの良い人間だと思う。だから、今晩のような状態は珍しい。目を閉じてすぐ、一連の事件のことなどを考え始めたのだが、それがいけなかったのかもしれない。
……いや正確には、事件そのものを考えていた時間は短くて、その後は
どうやら私は、彼女に対して、特別な感情を
ならば……。このままで、いいのだろうか。もっと私は、彼女に私自身のことを話すべきではないだろうか。たとえそれが悪い結果に繋がろうと、告白すべきことは告白するのが、筋というものではないだろうか。
そうやって、うだうだと考えていたのが、不眠を招いたようだ。しかし、所詮いくら一人で考えたところで、私には自分で結論を出す勇気もなく……。
ちょうど、そこまで思いを巡らせた時だった。突然、それまでの静けさを打ち破って、何かが聞こえてきた。人が争うような物音と、叫び声や悲鳴らしき声だ。しかし、それらはまるで夢か幻であったかのように、すぐに消えてしまった。再び、夜の静寂が訪れる。
ガバッと起き上がり、私は耳をすませた。もう音はしないが、しかし何か異常な気配を感じる。いや気配というより、嫌な予感とでも呼ぶべきものだろうか。
その自分の感覚を信じて、部屋を飛び出した。先ほどの音が聞こえてきた方へ、つまり屋敷の西棟へと向かう。
廊下を歩く途中で、再び悲鳴が耳に届く。今度は先ほどとは違って、はっきりとした声だった。
珠美さんだ!
色々と考えていたのが嘘のように、頭の中が真っ白になり、胸は不安でいっぱいになった。
珠美さんの身に、何かが起こったに違いない。私は全速力で彼女の部屋へ駆けつけて、パッと障子戸を開いた。
「珠美さん!」
叫びながら、部屋の中を一瞥する。
まず目に入ってきたのは、寝間着姿の珠美さんだった。無残に切り刻まれた布団と共に、部屋の隅にうずくまっている。震えながら、左腕を押さえていた。刃物で切りつけられたらしく、腕からは血が流れ出している。しかし大丈夫、一見したところ傷は浅いようだし、他には外傷も見当たらない。珠美さんは、無事に生きている。私は
「きいちろうさん……」
珠美さんは私を見て、か細い声を上げた。「助けて」と続けたかったのに言葉が出てこない、といった感じだ。
彼女を傷つけた犯人は、数歩くらい離れた距離に立っていた。
彼の右手には包丁が握られており、その切っ先は、珠美さんの血で赤く濡れていた。私に気づくと、規輝は口の端を少し上げてみせる。ニヤリと笑ったつもりだったのかもしれないが、規輝の姿は、悪鬼としか思えなかった。手にしていた包丁のせいだろうか。
怯えた様子を見せないように、彼を睨みつけながら言う。
「やめろ! 珠美さんには、手を出すな!」
この言葉で、規輝の表情が変わった。
「へっ。まさか、助けに来たつもりかい? それなら……」
規輝は包丁を両手で握り締めて、それを突き出しながら、こちらに向かってきた。
不思議と、怖くは感じなかった。目の前で珠美さんが殺されるかもしれないという恐怖、それに比べれば、包丁など物の数でもなかった。珠美さんを襲うのではなく、私に矛先を向けるのであれば、どうとでも対処できる……。そんな根拠のない自信まで、湧いてきていた。
向かってくる規輝を受け止めるかのように、私はその場から、一歩も動かなかった。もちろん、刺されるつもりもなかった。規輝の突進に合わせて、体を捻って、かわす。
「くっ……!」
包丁そのものはギリギリで回避できたのだが、私の身体能力では、それが精一杯だった。包丁が通り過ぎた直後、規輝の肘が、私の胸を強打する。体重をかけた突進の勢い、そのままの衝突だ。私は派手に吹っ飛ばされて、背後の壁に叩きつけられて、後頭部に激痛を感じた。思わず、その場に崩れ落ちてしまう。
「よく
再度、規輝は刃物を構えて、襲いかかってきた。
急いで私は立ち上がり、同じように回避を試みる。今度は、規輝の包丁が左胸を掠めた。それでも体をよじりながら、もう肘打ちは食らいたくないので、彼の腕を両腕で捉える。
その勢いのまま、規輝を投げ飛ばした。
考えて『投げ飛ばした』わけではない。無我夢中だった。偶然だった。
包丁をかわすために私が体を捻った勢いと、規輝の突進の勢いと、その両者が重なったのだろう。その上、私は体を回転させている途中で、つい手を離してしまっていた。その結果、規輝は投げ飛ばされる形となったのだ。
しかも、信じられないほど強い勢いで。
規輝は宙を舞った。ちょうど壁際だったため、そのまま強く、頭から壁に叩きつけられた。
「うっ!」
くもぐったような呻き声と共に、鈍い音がする。人間の
その音の正体は、すぐに判明した。ピクリとも動かなくなった規輝は、その首を、ありえない角度に曲げていたのだから。
脈を確かめるまでもなく、彼が息絶えていることは確実だった。
この場の脅威は去ったと認識して、私は、珠美さんのもとへ駆け寄った。
「珠美さん! 大丈夫ですか?」
「助かりましたのね……」
私の腕の中で、彼女は、ホッと安心したような口調で呟く。そして意識を失い、目を閉じた。
「珠美さん……? しっかりしてください、珠美さん!」
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