第十八章「写真の日」(日尾木一郎の記録)

   

 そこまで木田きだ巡査が話したところで、足音が聞こえてきた。誰かが、この部屋に近づいてくるのだ。

 もはや、緋蒼屋敷で暮らす者も残り少ない。何となく女性の足音のように感じるが、蒼川そうかわ信子のぶこは昨晩から寝込んでいるという話を聞いているので、消去法で考えると……。

「長話をすると、喉が渇きますでしょう?」

 障子戸を開けて入ってきたのは、私の予想通り、珠美たまみだった。

 お茶を運んできてくれたらしい。気がきく女性だ。

「すみません、わざわざ……」

 木田巡査は、恐縮したような表情に変わっていた。

 一瞬、私は不思議に感じたが、すぐに合点が行く。来客のために茶を運ぶなど、緋蒼村の常識で考えれば、蒼川の人間がするべき仕事ではないのだろう。そのために、村長夫妻が同じ屋敷に住み込んでいたのだから。

 しかし浜中はまなか大介だいすけ朝子あさこも亡くなった今、珠美が代わりをしていても、私は違和感を覚えない。一方、この村の人間である木田巡査の目には、これは奇異に映るらしい。もう戸籍の上では『葉村はむら珠美たまみ』だとしても、村人の意識としては依然として『蒼川珠美』である、という証だった。


 木田巡査との話の間に――特に最後の方で急かされたように感じて――、私は朝食を終わらせている。テーブルの様子を見て、珠美は当然のように、からの食器をお盆の上に重ね始めた。途端に、木田巡査が少し顔をしかめる。その意味に気づいた私は、慌てて珠美を止めた。

「いや、片付けくらい自分でやります。私が持っていきますから……」

「あら、気になさらないで。きいちろうさんは、大切なお客様です。事件を解決してくださる、探偵さんですもの」

 微笑む珠美に対して、私は何も言えず、木田巡査のように恐縮してしまう。ここまでの自分の行動の成果を考えると、とても『事件を解決してくださる探偵さん』という言葉に相応しいとは思えなかったからだ。

 急に探偵らしく活動している様子を示そうとしたわけではないが、ふと、思いついたことがあった。緋山ひやま一義かずよしの残した写真を、珠美に見せてみる気になったのだ。お盆を持って立ち去ろうとする彼女に、私は声をかける。

「ちょっと待ってください。……これを見てもらえませんか?」

 私が鞄から二枚の写真を取り出すと、珠美は、お盆を横に置いて、写真を手に取った。

「これは誰でしょう? ……あら、もう一枚は、規輝のりてるが赤ちゃんだった頃の写真ね」

 写真を見ながら呟く珠美だったが、その姿には、どこか違和感があった。私が違和感の正体に気づく前に、木田巡査が、その答えを指摘してくれた。

「おや、珠美さん。それは逆じゃないですか?」


 そうだ。

 珠美が見ていたのは、今まで「規輝の写真だ」と言われてきた方ではなく、もう一方の写真だった。耳の形が特徴的な赤ん坊の方だ。

「そうです、珠美さん。今あなたが見ているのは、規輝さんの写真ではないはずです。もう一枚の方が、規輝さんでしょう?」

 しかし珠美は、私たちの言葉を笑い飛ばす。

「あら、やだ……。きいちろうさんも駐在さんも、おかしなこと言うのね。二人とも大間違い。規輝は、こっち」

 彼女は、耳が妙に尖った赤ん坊を指し示しながら、

「あの子の耳、確かに今は平凡な形をしているけど、生まれたばかりの頃は、こう、ちょっと鋭かったんですよ。まるでSF映画に出てくる宇宙人みたい、と思ったのを、はっきり今でも覚えていますわ」

 珠美は、昔を懐かしむかのように目を閉じる。この発言に対して、木田巡査が再び会話に割り込んできた。

「いや、それはおかしい。珠美さんは広島へ行っていたから、赤ん坊の頃の規輝さんなんて知らないはずでしょう。何か別の記憶と、混ざっているのでは……」

 珠美は、小首を傾げて、軽く微笑んだ。

「あら、私が広島へ向かったのは、規輝が生まれた日ですわ」

「ええ、そうでしたね。でも、規輝さんの御披露目おひろめ式は、珠美さんが出発した後でした。あの日は、珠美さんの見送りは盛大にしなきゃならないし、それが終わって息つく暇もなく、今度は規輝さんの御披露目おひろめ式。忙しい一日でしたから、それこそ今でも覚えています」

 この木田巡査の言葉に対して、珠美はクスッと笑った。まるで十代の少女のような、可愛らしい笑い方だった。

「そうね。本当は、御披露目おひろめ式の前には、顔を見てはいけないという決まりでしたね。でも私、こっそり見ちゃったの」

 珠美は、いったん言葉を切ってから、また話し始めた。かなり砕けた口調になってきたのは、当時の様子を思い出して、若い頃の自分に今の自分を重ねているからだろうか。

「あの日。広島へ行く荷物をまとめて、最後にもう一度と思って点検している時。産声が聞こえてきたの。今にして思えば私の見送りのためだったのだろうけど、みんな忙しそうにしてたから……。私は誰にも気づかれることなく、お母様の部屋まで行けたわ。そうっと障子戸を開けて中を覗くと、お母様は眠っているかのように、目を閉じていらして……。その横で、隣村から来ていた産婆さんが、規輝を産湯に浸けているところだった……」

 ここで木田巡査が、また口を挟んだ。

「そうすると、この村の人間で最初に規輝さんの顔を見たのは、珠美さん、あなただったということになりますね」

「あら、そうなるのかしら。確かに、お母様は、あの通り慣例に従う人ですから……。そうね、御披露目おひろめ式までは、自分が産んだ息子の顔も見ていなかったでしょうね」

 会話に取り残されそうで、私も無理して話に加わった。

「産んだ信子さん自身も、見てはいけない規則なのですか?」

「そうです」

「そういう決まりなのです」

 木田巡査と珠美さんが、ほぼ同時に答えを返す。それを受けて私は、

「それで理解できました。だから珠美さんは、規輝さんのことを可愛がっているのですね」


 ああ、少し頓珍漢な発言をしてしまった。生まれてすぐの生き物が、初めて見たものを親だと思って慕う、という現象は有名だ。しかし、この場合は当てはまらないだろう。生まれたばかりの規輝は、珠美を見た側ではなく、彼女に見られた側だ。まだ規輝は、目も見えていなかったはずなのだから。それに、もしも珠美を視界に捉えたとしても、規輝が彼女を慕う理由になるだけで、彼女が規輝を可愛がる説明にはならない。

 しかし、この私の素っ頓狂な発言が、新たな情報に繋がる会話を引き出す形となった。規輝が村の外で暮らしていた時期に関する話だ。

「そうですね。珠美さん、あなたは規輝さんのことを、たいそう可愛がっていた。何しろ、あなたから生活資金をもらうために、ちょくちょく規輝さんは東京まで足を運んだくらいで……」

「あら、それは違いますわ」

 珠美が、木田巡査の言葉を否定する。

「お金をくれと言って私のところに来たことはありましたが、私はビタ一文いちもん渡していません。だって、お金のことはケジメをつけないと」

 彼女の言葉に、木田巡査は酷く驚いたようだった。

「そうだったんですか……! 今の今まで、誤解していましたよ。いや、きっと村の皆も、私と同じように考えていたでしょう。いやはや、規輝さんが外の世界で、自分で稼げる人だったとは、思ってもみませんでした」

 随分と失礼なことを言う。しかし、これが緋蒼村の人々から見た『蒼川規輝』の人物像なのかもしれない。

 珠美の表情が曇り始めたが、それは別に、木田巡査を失礼と感じたからではなく、

「私にも、規輝に生活能力があったとは思えません。そもそも、私の知る限り、働いている素振りもありませんでした。あれだけ遊んで暮らしているのだから、お母様から、よほどたくさんもらって来たのだと思いましたが……」

「それこそ、ありえないでしょう。蒼川の御当主こそ、一銭も出していませんよ。『自分に養ってもらいたければ、村へ戻ってこい』と言い渡す場面を、村の者が何度も目撃しています」

「では、誰から……」

 そう言ったきり、言葉が続かない珠美。木田巡査も、答えは持ち合わせていないようだった。


 静寂が訪れる。長く感じたが、実際には、一瞬のことだったのかもしれない。沈黙を破ったのは、珠美だった。

「もしかしたら……」

 彼女は、いっそう表情を暗くして、言い淀む。ここで私も口を開き、続きを促した。

「珠美さん、何か心当たりでもあるのですか?」

「ええ、たぶん。私の主人を通じて……」

 彼女の『私の主人』という言葉で、私の脳裏に浮かんだのは、緋山ひやまの――直樹なおき一義かずよしの――合同葬儀の夜の出来事だった。月の光の下、縁側で『主人』について語っていた珠美の姿……。

 叙情的な光景を私が思い浮かべている間も、会話は進んでいた。今度は、木田巡査が珠美に尋ねる。

「珠美さんの御主人は、義弟である規輝さんを養うほど、気前が良かったのですか?」

「あら、そういう意味ではないの」

 眉間に皺を寄せながら、珠美は続きを語る。

「大きな声では言えませんが……。主人は少々、性質たちの悪い金融業者に勤めておりました。おそらく規輝は、主人が仲介する形で、そこから……。田舎の旧家の、資産家の息子ともなれば、いくらでも借りられたはず。でも、もし本当に、そこから無尽蔵に借金していたのだとしたら……。今では利子が膨れ上がって、大変なことになっているかもしれません。それこそ、蒼川家の財産でも返せないほどに……」

   

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