第十八章「写真の日」(日尾木一郎の記録)
そこまで
もはや、緋蒼屋敷で暮らす者も残り少ない。何となく女性の足音のように感じるが、
「長話をすると、喉が渇きますでしょう?」
障子戸を開けて入ってきたのは、私の予想通り、
お茶を運んできてくれたらしい。気がきく女性だ。
「すみません、わざわざ……」
木田巡査は、恐縮したような表情に変わっていた。
一瞬、私は不思議に感じたが、すぐに合点が行く。来客のために茶を運ぶなど、緋蒼村の常識で考えれば、蒼川の人間がするべき仕事ではないのだろう。そのために、村長夫妻が同じ屋敷に住み込んでいたのだから。
しかし
木田巡査との話の間に――特に最後の方で急かされたように感じて――、私は朝食を終わらせている。テーブルの様子を見て、珠美は当然のように、
「いや、片付けくらい自分でやります。私が持っていきますから……」
「あら、気になさらないで。きいちろうさんは、大切なお客様です。事件を解決してくださる、探偵さんですもの」
微笑む珠美に対して、私は何も言えず、木田巡査のように恐縮してしまう。ここまでの自分の行動の成果を考えると、とても『事件を解決してくださる探偵さん』という言葉に相応しいとは思えなかったからだ。
急に探偵らしく活動している様子を示そうとしたわけではないが、ふと、思いついたことがあった。
「ちょっと待ってください。……これを見てもらえませんか?」
私が鞄から二枚の写真を取り出すと、珠美は、お盆を横に置いて、写真を手に取った。
「これは誰でしょう? ……あら、もう一枚は、
写真を見ながら呟く珠美だったが、その姿には、どこか違和感があった。私が違和感の正体に気づく前に、木田巡査が、その答えを指摘してくれた。
「おや、珠美さん。それは逆じゃないですか?」
そうだ。
珠美が見ていたのは、今まで「規輝の写真だ」と言われてきた方ではなく、もう一方の写真だった。耳の形が特徴的な赤ん坊の方だ。
「そうです、珠美さん。今あなたが見ているのは、規輝さんの写真ではないはずです。もう一枚の方が、規輝さんでしょう?」
しかし珠美は、私たちの言葉を笑い飛ばす。
「あら、やだ……。きいちろうさんも駐在さんも、おかしなこと言うのね。二人とも大間違い。規輝は、こっち」
彼女は、耳が妙に尖った赤ん坊を指し示しながら、
「あの子の耳、確かに今は平凡な形をしているけど、生まれたばかりの頃は、こう、ちょっと鋭かったんですよ。まるでSF映画に出てくる宇宙人みたい、と思ったのを、はっきり今でも覚えていますわ」
珠美は、昔を懐かしむかのように目を閉じる。この発言に対して、木田巡査が再び会話に割り込んできた。
「いや、それはおかしい。珠美さんは広島へ行っていたから、赤ん坊の頃の規輝さんなんて知らないはずでしょう。何か別の記憶と、混ざっているのでは……」
珠美は、小首を傾げて、軽く微笑んだ。
「あら、私が広島へ向かったのは、規輝が生まれた日ですわ」
「ええ、そうでしたね。でも、規輝さんの
この木田巡査の言葉に対して、珠美はクスッと笑った。まるで十代の少女のような、可愛らしい笑い方だった。
「そうね。本当は、
珠美は、いったん言葉を切ってから、また話し始めた。かなり砕けた口調になってきたのは、当時の様子を思い出して、若い頃の自分に今の自分を重ねているからだろうか。
「あの日。広島へ行く荷物をまとめて、最後にもう一度と思って点検している時。産声が聞こえてきたの。今にして思えば私の見送りのためだったのだろうけど、みんな忙しそうにしてたから……。私は誰にも気づかれることなく、お母様の部屋まで行けたわ。そうっと障子戸を開けて中を覗くと、お母様は眠っているかのように、目を閉じていらして……。その横で、隣村から来ていた産婆さんが、規輝を産湯に浸けているところだった……」
ここで木田巡査が、また口を挟んだ。
「そうすると、この村の人間で最初に規輝さんの顔を見たのは、珠美さん、あなただったということになりますね」
「あら、そうなるのかしら。確かに、お母様は、あの通り慣例に従う人ですから……。そうね、
会話に取り残されそうで、私も無理して話に加わった。
「産んだ信子さん自身も、見てはいけない規則なのですか?」
「そうです」
「そういう決まりなのです」
木田巡査と珠美さんが、ほぼ同時に答えを返す。それを受けて私は、
「それで理解できました。だから珠美さんは、規輝さんのことを可愛がっているのですね」
ああ、少し頓珍漢な発言をしてしまった。生まれてすぐの生き物が、初めて見たものを親だと思って慕う、という現象は有名だ。しかし、この場合は当てはまらないだろう。生まれたばかりの規輝は、珠美を見た側ではなく、彼女に見られた側だ。まだ規輝は、目も見えていなかったはずなのだから。それに、もしも珠美を視界に捉えたとしても、規輝が彼女を慕う理由になるだけで、彼女が規輝を可愛がる説明にはならない。
しかし、この私の素っ頓狂な発言が、新たな情報に繋がる会話を引き出す形となった。規輝が村の外で暮らしていた時期に関する話だ。
「そうですね。珠美さん、あなたは規輝さんのことを、たいそう可愛がっていた。何しろ、あなたから生活資金をもらうために、ちょくちょく規輝さんは東京まで足を運んだくらいで……」
「あら、それは違いますわ」
珠美が、木田巡査の言葉を否定する。
「お金をくれと言って私のところに来たことはありましたが、私はビタ
彼女の言葉に、木田巡査は酷く驚いたようだった。
「そうだったんですか……! 今の今まで、誤解していましたよ。いや、きっと村の皆も、私と同じように考えていたでしょう。いやはや、規輝さんが外の世界で、自分で稼げる人だったとは、思ってもみませんでした」
随分と失礼なことを言う。しかし、これが緋蒼村の人々から見た『蒼川規輝』の人物像なのかもしれない。
珠美の表情が曇り始めたが、それは別に、木田巡査を失礼と感じたからではなく、
「私にも、規輝に生活能力があったとは思えません。そもそも、私の知る限り、働いている素振りもありませんでした。あれだけ遊んで暮らしているのだから、お母様から、よほどたくさんもらって来たのだと思いましたが……」
「それこそ、ありえないでしょう。蒼川の御当主こそ、一銭も出していませんよ。『自分に養ってもらいたければ、村へ戻ってこい』と言い渡す場面を、村の者が何度も目撃しています」
「では、誰から……」
そう言ったきり、言葉が続かない珠美。木田巡査も、答えは持ち合わせていないようだった。
静寂が訪れる。長く感じたが、実際には、一瞬のことだったのかもしれない。沈黙を破ったのは、珠美だった。
「もしかしたら……」
彼女は、いっそう表情を暗くして、言い淀む。ここで私も口を開き、続きを促した。
「珠美さん、何か心当たりでもあるのですか?」
「ええ、たぶん。私の主人を通じて……」
彼女の『私の主人』という言葉で、私の脳裏に浮かんだのは、
叙情的な光景を私が思い浮かべている間も、会話は進んでいた。今度は、木田巡査が珠美に尋ねる。
「珠美さんの御主人は、義弟である規輝さんを養うほど、気前が良かったのですか?」
「あら、そういう意味ではないの」
眉間に皺を寄せながら、珠美は続きを語る。
「大きな声では言えませんが……。主人は少々、
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