第六章「蒼川の姉妹」(日尾木一郎の記録)

   

 膝頭まで泥に浸かりそうになったところで、クスクスという笑い声が聞こえてきた。体を捻って後ろを見ると、二人の女性が並んで立っているのが目に入る。かなり背が高い女性と、やや低めの女性だった。

「助けて! 助けてくれ!」

 恐怖のせいで、私の声は上ずっていた。その声を聞いて、二人はゲラゲラ笑い出す。死にそうな私を笑う態度には怒りすら覚えたが、怒っていられる場合でもない。とにかく、この二人に助けてもらわなければ!

 そう思って、私は繰り返した。

「助けてくれ! 助けてくれ!」

 かなりの時間、叫び続けていた気がするが、実際には、それほど長くはなかったのだろう。ただ状況が状況なだけに、感覚的には無限にも思える時間だったのだ。そしてようやく、二人のうち背の低い方が笑いをおさめて、私に応じてくれた。

「あなた、きいちろうさんでしょう? 笑ってしまって、ごめんなさい。でも、そんな半狂乱にならなくても大丈夫だから……。そこは底なし沼じゃないの。これくらいの深さで終わり」

 彼女は、自分の腰の下あたりを手で示した。


 それでも、ぬかるみからの脱出には、二人がかりで引き上げてもらう必要があった。

「ありがとう」

 先ほどの怒りは忘れて、一応の礼を告げる。ホッと一安心したところで、私は、二人を冷静に観察できるようになった。

 二人とも、十人並みの顔立ちと言って構わないだろう。細かいパーツは違うが、輪郭は少し似ている。似ているといえば、先ほどの女性――葉村はむら珠美たまみ――も同様だ。

 そこで、私は気づいた。珠美も含めて、三姉妹に違いない。つまり、この二人が珠美の妹、華江はなえ陽子ようこなのだ。よく見れば、二人はギュッと手を握り合っていた。これが、妹に対する華江の異常な愛情とやらの一例なのかもしれない。

 直感的に、背の高い方が華江で、低い方が陽子だと思った。前者は、化粧っ気も全くなく、服装も地味だ。この特徴だけならば、むしろ私の好みのタイプなのだが、なぜか逆に、都会のケバケバしい女たちを連想させる雰囲気があった。一方、後者は、丸い目と長めの髪が、ややふっくらとした顔に良く似合っていた。素朴な感じで、愛嬌のありそうな女性だった。

 私は、もう一度きちんと礼を述べる。

「助けてくれて、ありがとうございました。華江さん、陽子さん」

 名前を呼びかける際には、それぞれの目を見ながら言った。

 陽子は驚いたように目を丸くしたが、華江は対照的な態度を示した。

朝子あさこさんが言ったでしょう、陽子。このきいちろうさんは、探偵なのよ。探偵さんは、何もかもお見通し」

 だから名前くらい知っていて当然、という口ぶりだった。

 駐在所で聞いた話では、華江は極度の男嫌いだったはずだが、私に対する態度を見る限り、その様子はなかった。男嫌い云々は、昔の話だったのだろうか。あるいは、今この瞬間は陽子が一緒なので、緩和されているのだろうか。


 私は、もう釣りなど終わりにして、この二人と一緒に、緋蒼屋敷に戻ることにした。

「きいちろうさん、良美よしみさんの事件について調べに来たんじゃないの?」

「だったら、ここじゃないわ。何でもお見通しのはずの探偵さんが、とんだ見当違いね」

 良美の死体が見つかった場所について、二人は教えてくれた。対岸というほどではないが、私が釣りをしていた場所からは、かなり離れている。

「あそこよ」

 華江が指差したのは、沼の際の、崖になった部分だった。一本の太い木が生えている場所であり、良美は、その枝にぶら下がっていたのだという。

「あの場所はね。この永瀬沼ながせぬまの中でも特殊で……」

 崖の上の大木ではなく、その下の湖面に視線を向けながら、陽子が説明する。

「……あの部分だけは、本当の底なし沼になっているの。あそこに落ちたら、助からない。死体すら上がってこないでしょうね」

 暗い中でも、その部分だけは、他と違う色をしているように感じられた。見ているだけで、不吉な思いにとらわれる色だ。その泥の色から、私は「探偵小説で描写される乾いた骨の色は、こんな感じだったかもしれない」と連想していた。


 私たち三人が緋蒼屋敷に戻った頃には、すっかり暗くなっていた。闇の中では、緋蒼屋敷も、どことなく不気味に思えた。屋敷を出た時とは色々と違って見えるので、もしも一人だったら、私は迷子になっていたかもしれない。だが華江と陽子が一緒だったので、二人が、私の部屋の近くの入り口まで案内してくれた。

 建物の入り口では、村長の浜中はまなか大介だいすけが、座って女性と話をしていた。相手は後ろ姿だったが、それが誰なのか、私にはわかる気がした。私たち三人が近づいた気配を察して、彼女が振り向く。

「戻ってきたようね。あら、華江と陽子も一緒だわ。いつのまに仲良くなったのかしら」

 私の予想は間違っていなかった。

 その女性は、珠美だった。

 彼女の顔を見ただけで、なぜか私は、心が温かくなる。

 最初に見かけた時より、珠実は、口調も態度もしっかりしているようだった。そうなると、やはり先ほどは、本人の言う通り気が動転していたのだろう。

「きいちろうさんって、一人じゃ心配なの。私たち、命の恩人なのよ!」

 クスクス笑いながら、華江が沼でのエピソードを語る。珠美もつられて笑うが、同じ笑い声のはずなのに、どうして、こうも違って聞こえるのだろうか。珠美の笑い声は軽やかで、耳に心地よい。鈴を転がすような声、という表現があるが、彼女にこそ相応しいのかもしれない、と思った。

「あらあら。それは災難でしたね、きいちろうさん。それより、あなたの部屋で、一義さんが待っているそうですよ」

「一義さんが?」

 私が口を開くより早く、陽子が反応する。嬉しそうな口調で、まるで「ならば私も行く!」と言い出しそうな様子だった。

 そう感じたのは、私だけではなかったらしい。村長が、ゆっくりと口を開く。

「それなんですが……」

 村長の説明によると、どうやら一義は、私と二人きりで話したいようだ。だから部屋に誰も入らせないために、村長をここに座らせていた。

 この入り口からならば、まっすぐ進んで突き当たりを右に曲がると私の部屋があるだけなので、その突き当たりに目を向け続けていれば、誰も邪魔しないように見張っておくことが出来る。そうして村長が一人で過ごしていたところに、ふらふらと珠美が歩いてきたのだという。

「珠美さんも……。何か私に用事ですか?」

 願望を込めて私は尋ねたのだが、珠美は、これを笑い飛ばした。

「ハハハ、まさか……。私、あなたに用があるほど、まだ親しくありませんから。ごめんなさい、この近くがあなたの部屋だとも知らずに、こちらへ来てしまって……」

 どうやら、先ほどの『一人で歩くのが一番』の続きで、ただ単に通りかかっただけらしい。ただし、そろそろ、その『一人で歩く』のも終わりにしようというタイミングだったのだろう。そのまま、この場所で村長と話し込んでいたわけだから。

「そういえば……」

 ここで、村長が再び口を開く。『私に用事』という話で、思い出したようだ。

 村長と一義が来た時、ちょうど蒼川そうかわ規輝のりてるが、私の部屋を訪れていたのだという。一義が来たのを見て、規輝は帰っていったそうだ。

「あら、変ね。規輝が、きいちろうさんの部屋へ向かったのは、私も知っているけど……。それ、かなり前だったはずよ。幽霊騒ぎの前だったから」

 珠美の言葉を聞いて、少し考える。

 その騒動の前だというなら、まだ私が駐在所にいた頃だろう。部屋には、私の荷物しかなかったはずだ。

「ああ、一義さんが誰か連れてきた、って噂になっていたわね。規輝も好奇心で、わざわざ見に来たのね」

「しかも留守だったからって、もう一度来るなんて……。どれだけ興味あるのかしら」

 珠美の言葉に、華江と陽子が勝手な憶測を返していた。

 そんな姉妹の会話を背にして、私は一人、部屋へ向かう。


 私は私で、規輝ではなく一義の行動に関して、勝手に推測していた。

 やはり一義は、一人で色々と調べているのだ。おそらく、その調査結果に関して、私と話し合いたいのだろう。だから事件の関係者――緋蒼屋敷の住民――は交えずに、二人きりで話そう、ということなのだ。

 そうやって考えながら、私は部屋に入ろうとして、障子戸を開いた。

 その瞬間、私の目に飛び込んできたのは、驚くべき光景だった……!

   

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