第二章「緋蒼村の決まり」(日尾木一郎の記録)

   

 彼の言葉が脳内に浸透するまで、数秒の時間を要した。それから私は、少し態度を改めて、口を開く。

「詳しく聞かせてもらえませんか」

「そうだな。『詳しく』というのであれば……」

 緋山ひやま一義かずよしは、少しの間、目を閉じて黙ってしまった。どこから話すべきか、頭を整理しているに違いない。

 そして目を開いた彼は、続いて口も開いたのだが……。その内容は、殺人事件とは一見無関係に思えるものだった。

「だいたい、緋蒼村ひそうむらという名前自体が、緋山ひやま蒼川そうかわの両家の、村における地位を示していると思う。一人の平家の落ち武者が連れてきた三人の子供が、それぞれ緋山、蒼川、黄海おうみの姓を名乗り、その祖となったと言われている。そう、最初は御三家だったらしい。ただ、ほどなく黄海の家は流行病はやりやまいで死に絶えたという話だから、とりあえず黄海の事は忘れてくれ」

 彼は、いったん言葉を区切った。話している間、その目は遠くに向けられていたが、別に何かを見ていたわけでもない。ただ、焦点が定まらず、といった感じだった。

 その状態のまま、彼は再び話し始めた。

「彼らは京では高い地位にあったらしく、持参してきた金銀財宝にものを言わせて、村でも京時代と同じ派手な暮らしを始めたそうだ」

 ここで彼は、クスッと笑って、

「平氏とは名乗れず、新しい姓を名乗ったこと。村一番の地位を得た経緯……。いくつかの点では辻褄が合う気もするが、しょせん言い伝えなんて、後世の誰かによる創造だろうな。おはなしを作るのが本職の、小説家の目から見たら、今の話をどう思う?」

 問いかけの形ではあったが、私の答えは待たずに、一義は話を続ける。

「こんな眉唾な話もある。三人のうち、長兄が犬を飼っていて、末妹が猫を飼っていたのだが、二人が年老いた頃の逸話だ。妹の猫が長生きするうちに化け猫となり、妹を殺して、成り代わってしまった。しばらくは誰も気が付かなかったが、兄の犬だけが真相に気づいた。埋められていた死体を犬が掘り当てたことで、真実が明るみになった」

 まあ、ここまでは、よくある昔話に聞こえる。ただ私は「化け猫はともかく、兄が飼っていた犬も長生きだな」と感じてしまったが……。もしかすると、話が少し省略されているだけで、犬の方は代変わりを重ねていたのかもしれない。

「さあ、大変だ。化け猫退治だ。兄が化け猫と対決し、刀で見事その首を斬り飛ばした。兄の刀は、化け猫の血で緋色に染まり、いくら洗っても落ちなかったという。その後、しばらく兄は、その刀を持って山にこもり、掘り出された妹の死体は『埋葬し直すのは縁起が悪い』とのことで、川に流された。兄がこもる山を源とする川であり、いつも青々とした美しい川だったという……」

 一義は、再び少しの間、目を閉じた。目を開けた後、今度は私をじっと見つめながら、

「緋色の刀と、山ごもり。常に蒼い川。……この最後の部分なんて、こじつけとしか思えないだろう? こんな嘘八百としか思えない話をわざわざ持ち出したのは、僕の村が『普通ではない』と言いたかったからなんだ。弁護士はいないし、警察官だって駐在の木田きだ巡査一人だけ。あの村では、外の世界の法律は通用しない。村長なんて、緋山と蒼川の両家の召使いみたいなものだ。そうした背景をまず頭に叩き込んでおかないと、この事件は理解できないだろう」

 異常な世界における、殺人事件……。確かに、小説家がネタにするには、相応しい素材かもしれない。


「そうそう。普通ではない、という意味では、これも言っておかないと……」

 どうやら、まだ前置きがあるらしい。

「両家の遺産相続には、古くからの決まりがあってね。誰が死んだ場合であっても、その死んだほうの家の最年長者が――御当主と呼ばれるのだが――、全財産を相続することになっている。ただし『緋蒼屋敷』に住む者にのみ相続の権利があるので、例えば屋敷を出て外の会社で働いていた僕などは、たとえ最年長となっても、相続権はなく御当主とも呼ばれない。もちろん今回の帰郷のように、また村に戻って屋敷で暮らすようになれば、権利は復活する」

 ならば、一義が村に戻ることには、重大な意味が出てくるわけだ。

「そして、万一、どちらかの家が死に絶えた場合……。残った家の最年少者が、死に絶えた側の財産をすべて受け取る、という決まりだ」

「最年少者が、ですか? 最年長者が、ではなくて?」

 大事な点だと思って私が確認すると、彼は、深々と首を縦に振って肯定する。

「そうだ。御当主ではなく、最年少者だ。何故そのような規則になっているのかわからないが……。そもそも今まで、両家とも途絶えたことはないからね。黄海が死に絶えた頃には、まだこの習慣もなかったようだし。まあ、ともかく……」

 彼は、再び私に問いかける形で、

「今まで殺し合いが起きなかったのが、不思議なくらいだ。そう思わないかい? 仲の悪い両家が、この決まりのために、一つの屋敷に住んでいるのだから。同じ『緋蒼屋敷』に縛られているのだから」

 しかし、その『緋蒼屋敷』こそが、彼の家なのだから……。彼が私を泊めようとしているのも、問題の『緋蒼屋敷』ということになる。

「ああ、心配することはない」

 彼は、私の表情の変化に気づいたらしく、軽く笑いながら説明を加えた。

「同じ屋敷といっても、もちろん、問題ないくらいの広さがあるし、両家の居住区域は別々になっているから大丈夫だ。緋山が使っているのは東側、蒼川は西側だ。全体としては使われていない部屋も多く、屋敷の中央には、村長夫婦が住んでいる」

 大まかな配置に続いて、彼は、両家の住民について話す。

「もっとも、弟の直次なおつぐと妹の良美よしみが殺された今では、緋山家は、僕と父の二人だけ。西の蒼川は、御当主の信子のぶこと、その子供たちである珠美たまみ華江はなえ陽子ようこ規輝のりてる。これらが、事件の関係者だ」

 いったん言葉を区切る一義。まだ肝心の殺人事件に関しては何も語っていないが、ここで背景説明は終わりということか。

 そして彼は、二人しかいないのに、わざわざ名指しで私に呼びかける。

一郎いちろう君。小説家である君は、探偵の真似事をして、事件を解決して、それを小説にして出版すればいい。一方、僕は……」

 ここで一義は、大きく目を見開いた。彼の瞳には、強い意志の輝きがあった。

「そう、僕には、使命がある。両家を統合して、古い慣習から脱却させるという大仕事が待っているのだ。過去これに挑戦した者は必ず、不慮の死を遂げてきたという。化け猫の祟りだという声もあるが、そんな迷信に負けてたまるか。僕は、最愛の陽子と一緒に……」


 その時、列車が急に停止した。いや実際には、急停止ではなく、徐々に減速していたはずだ。それに気づかず急停止と感じてしまうのは、一義の語る話に私が、それだけ深く聞き入っていた、という証なのだろう。

 無意識のうちに、私は手帳を取り出して、彼の話をメモしていたらしい。ちょうど『化け猫の祟り』という記述が、最後になっている。その手帳から顔を上げて窓の外を眺めれば、先ほどまで緩やかに流れていた景色も止まっており、駅のプラットホームが見えていた。

 のどかな田舎の風景に心が洗われる、と思ったのも束の間だった。突然、ガラッとドアの開かれた音が、後ろから聞こえてきた。この駅から乗ってきた客が、私たちの車両に入ってきたのだろう。

 私が振り向くより早く、目の前の一義の表情が曇った。その顔のまま、彼は口を開く。

「御当主が自ら、ともも連れずに、一人で外の世界まで買い物ですか。それこそ、誰かに頼めばいいのに……」

 先ほどの話にも出てきた『御当主』だ。緋山の御当主ならば一義の父親だから、こんな言い方にはならないはず。よって、もう一人の御当主、つまり蒼川の方なのだろう。

 興味を持って振り返ると、でっぷりと太った、五十歳くらいに見える女だった。これが蒼川の御当主、蒼川信子ということになる。彼女は一人で、大きな買い物袋を抱えて、こちらへ歩いてくるところだった。

「一義君、久しぶり。ええ、本当に『久しぶり』だわ。村を離れていたから忘れているようだけど、昔から私は、村の者をなるべく外へ出したくなかっただろう?」

「覚えていますよ。ただ、少しは丸くなっているかと思っただけです」

 私には、信子の体は十分に丸く見えるのだが、一義の言っているのは、性格の話に違いない。彼の言葉を無視して、信子は続ける。

「もちろん、村の者を外へ出すだけでなく、よそ者が村に来るのも、歓迎できないね」

 言いながらギロリと私を睨んでから、彼女は再び一義に向かって告げた。

「でも、それよりも、もっと嬉しくない話がある。娘の陽子があなたと結婚する、ってことだわ」

 そう言い捨てた信子を見ているうちに、私の頭に、一つのイメージが浮かんできた。青々とした川のほとりで、丸くなっていた猫が、ゆっくりと動き出す光景……。ただし、何故それを思い浮かべたのか、自分でもわからなかった。

 そして。

 列車が、また動き出した。

   

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