彼の名は


 突然のどしゃ降りの雨に、傘を持っていなかった私はバス停まで全力で走った。そして目があってしまった彼の瞳を反らした。


 私は市内の公立学校に通っていたが、彼の制服から市内トップの高校の子だとすぐ分かって気まずさを感じた。それに加え、髪はびしょびしょで乱れ、制服もぐしょぐしょでだらしない今の自分の姿に羞恥心を感じ、とてもじゃないがその場にいる事すら躊躇われた。

 彼もすぐにそれを理解してくれたのだろう、すぐに読みかけの本を再び読み始めてくれた。


 数分してバスが来た。私は歩いて十分の所に家があるので、その場で雨が落ち着くのを見ている事にした。すると、突然彼が近づいて来て、私に折り畳み傘とタオルを渡すとすぐバスに乗って去っていってしまった。

 あまりに突然の事に思わず受け取ってしまったが、数秒遅れて言葉にならぬ声が漏れた。


 それから一週間、彼に傘とタオルを返そうと彼の高校の前で待ったが、単純に運が悪いのか、見逃してしまっているのか、会う事もチラッと見る事も叶わなかった。

 そして現在、思わずあのバス停のベンチに座って私は一人、項垂れてしていた。


「はぁ…私何やっているんだろう?そもそも彼の歳も名前も分からないのに、見つかるわけないよね…!」


ふと横目で見た向かい側の交差点に、彼に似た人物を発見した。私はこれを逃すまいとオレンジ色に染まった街の中、彼の背を全力で追いかけた。だが、


(も~、何であとちょっとってところで逃げられるの!)


 彼はあと数メートルと言うところで人影に紛れて姿をくらましてしまったと思えば、ちょっと先の建物の影から出てきたり、歩道橋の上に見つけたと思えば、逆方向の歩道を歩いていたりと、まるで魔法使いかと思うほど私の追手を軽々と逃れていってしまう。

 そんなこんなで発狂しそうになりかけた頃には、丘の上の母園の保育園に辿り着いてしまっていた。


「あぁ…懐かしい、引っ越して以来だな…」


 私には保育園時代最大の思い出であり、最大の過ちが一つある。それは初恋に気づかなかったと言う事だ。

 それは後に私と友達の間で「一夜の恋」と命名された。

 

 当時、引っ込み思案で、人付き合いの悪かった私は、異性に全く興味がなかった。だからその相手の名前すら今では記憶にないし、本当にあった事なのかすらはっきりしないのだが、はっきりと憶えているのは、保育園で一番モテていた男子で、大人しくて優しい子だった言う事だ。


 その日、保育園では夏祭りが行われていた。園のグランドでは先生達が屋台を開き、着物を着た園児や保護者、地域の人で賑わって楽しかったのを憶えている。

 私は一緒に来た母に「屋台で焼きそばを買ってくるからいい子で待っていてね」と遊具のプラスチックの家の上に座って、一人、空を見上げていた。すると、どういう気だったのか分かんないが、その子が私の隣に一人で来て、一緒に空を眺め始めたのだ。

 私は普段喋った事もない上に、いきなりの事にびっくりして彼の顔をまじまじと見てしまった。すると、タイミング良く打ち上げられた花火で彼の顔が照らされ、私の心は雷に撃たれた。だがすぐに母に呼ばれて半ば逃げるように去ってしまい、それに気づいた中学2年生の部活の夏だった。


「はぁ…苦い思い出。あっ!そうだ今はあの…」

「何?」

「あっ」


その優しい声に振り向けば、あの時の彼に瓜二つな彼がいた。

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Rainy day ビターラビット @bitterrabbit

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