Welt der Gerechtigkeit 

天崎 瀬奈

Prologue


正義とは何か。


そんな答えの出ることのなさそうな言葉でさえも定義とされているものは存在している。誰がその定義を決めたのかはわからないけれど確かに答えというものは。

仮の定義というものは確かにこの世界のどこかには存在している。


正しい道理。

人間としての行為の正しさ。

すなわち生きている人間として、存在している物としての

一般的に正しいとされる行動が正義という風にこの世界は定義している。


だがその定義は本当に当たっているのであろうか。

例えばここに1人の極悪人がいたとしよう。

その人間は百人いれば百人が極悪人だと定義するであろう人間であったとしよう。

その人間がもし一つの正しいことをしたとしよう。

それでその人物が周りの人間から正義の人間だと言われることがあるだろうか。

残念なことにこの世の中にそんなことはあり得ない。

たとえ1人の人間が正しいことをしても99人がそれは正義ではないと仮定してしまえば誰もそれを正義だと認めることはないのである。

結局のところ人間というのは、そもそも生物というものは

誰もが自分の中に自分の中の確固たる自信を持った正義というものを持って生きているものだから、それが重なり合い、一致し

この世界に生まれ落ちた全ての人間が生物が、

平等に自分の中での主張したい正義が貫かれることはないだろう。


そもそもの話、正義とは何かというものを深く突き止めていくこと自体は、

深い深い人間の心理から確執された手引書のような哲学というものに辿り着く。

真面目な話だが正義とはないかについて語るというのは哲学の基本的入門編あたりの話になってくるのである。

なぜかというと哲学の手引書の一般的に一番知られている有名な哲学書であるプラトンの「国家」という本があるのだがそれがすでに正義とはなんなのかについてを語っている本だからである。そして哲学を学ぶものは九割がこれを読んでいると言っても過言ではないところからするとこう言った哲学的思想でものを考える人間というものは大体が一度は正義とは一体なんなのだろうかという壁にぶつかっているということである。

ではその中では正義とは一体何であると言っているのだろうか。

その国家の中に出てくるある人物はこう言っている。

「強いことが正義である」と。

なるほど、大勢の賛同者を得るであろう。

正義とは強いことだと。勝てば正義なのだと。

強者こそ正義。力を持つものこそが権力を持つものこそが、一般的に強いとされるものたちこそが正義だと。

あながち間違ってもいないのではないだろうか。なぜかといえば哲学というものが古代ギリシャで発達してから二千年以上たつ現在でも、こう考えるものというのは大勢いるであろう上記に告げた一般的に正しいとされる行動が正義という定義と同じレベルで浸透している正義の一般論である。


そんな正義の定義をするというのは難しいものである。


やはりそれぞれがそれぞれ人間というものは正義というものを心の中に持っているものだ。


ならその思想が、正義が、もしも対立したり徒党を組んだりして複雑に絡み合ったとしたら、どうなるだろうか、、、。

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