煙草と少女

長谷川昏

ろくでなしと性悪と煙草の煙

「先生」


 呼ばれた声に倉科くらしなは顔を上げた。

 教え子の山下やましたれいがこちらに歩み寄るが、表情に笑みがないのを見取れば、かける言葉は浮かばなかった。


「先生、この場所好きだね」

「別に好きってわけじゃない。いつも誰もいないからいるだけだ」

「ふーん、そりゃそうだよ。だってここ、立ち入り禁止だからね。昔、失恋した女子生徒が飛び下りて自殺したんだっけ」


 錆びたフェンスに山下は寄りかかる。

 倉科が咥える煙草の煙が、校舎の屋上に吹く晩秋の風に流されていった。

 彼女の横顔に、未だ表情はない。

 自分が感じているものが怖れなのか諦めなのか、倉科はよく分からなかった。


「先生とはもう会わない」

「そうか」

「もう飽きた。先生に会いに美術準備室に行くのも、遅くまで二人で話すのも、たまに夜のドライブに連れて行ってもらうのもまぁまぁ楽しかったけど、もう飽きた。もうどうでもいい」

「そうか」

「セックスもしたし、もういいかなって。それにしてみたらなんか思ってたのと違ってたし」

「そうか」


 相手からは予測していたとも思える言葉が出る。

 倉科は煙草の煙を深く吐き出した。

 衝撃はあまりなかった。彼女と同じ年頃の少年だったら耐えられない言葉だろうが、三十二年も生きてしまった自分にはいち二日ふつか堪えるぐらいで済むはずだった。


 山下は言葉を言い終えるとこちらを見るでもなく、フェンスに寄りかかったままでいる。

 苛立ちにも似たものが表情を横切るが、新たな言葉を発することはなかった。

 夕刻の屋上は冷え始めていた。

 燃え尽きようとする煙草の火を消して、倉科は新しい煙草を取り出した。


「不良教師、煙草臭い、その長髪も変、その汚い白衣も変」

「そうだな」

「外見もいい加減、中身もいい加減、言ってることも適当」

「そうだな」

「あのさ、なんでもそうやってそうかとそうだなで、やり過ごせばいいと思ってんの? 私のことだって、厄介払いができたぐらいにしか思ってないんでしょ?」

「お前が飽きたって言ったんだ」

「私が言ったことなんてどうでもいいよ! ねぇ、どうしてさっきから私だけが喋ってんの? なんで私だけに喋らせてんの? 倉科には私に言いたいこと何もないの?」

「別にない」


 返事を受け取った相手の顔には怒りが掠め、それはじきに落胆になり変わる。

 倉科は煙草に火を点けた。

 結果としてこうなったのは、全て自分に責任がある。

 ただの美術講師だとしても教師に変わりない。そんな自分が、教師と生徒の枠を越えた関係性を作り上げたのは確かだ。その関係性を尚も越え、それ以上の域に辿り着いたのは昨夜のことだった。


「嫌い。本当に嫌い」

「そうか」

「本当に大嫌い」


 不意に足音が近づいた。

 歩み寄った山下の唇が重なった。

 煙草の煙が、自分から彼女へと流れる。

 倉科は動くことができなかった。

 昨夜触れた華奢な背に手を回すことも、その唇に応えることもできなかった。

 それら全てがこれ以上彼女を受け入れられない自分には許されないことだった。


「先生、なんで結婚してんの」


 唇を離した山下が呟く。

 彼女にそれが知れたのは偶然だった。

 昨夜まで告げることをしなかったのは、自分の中に言い訳できない狡さがあったからだ。


「悪い。俺が悪い」

「いいよ、もう。こんなのもうどうしようもない。ねぇ先生」

「……なんだ」

「私、先生のこと嫌い。変な長髪も汚い白衣も、煙草の匂いも全部嫌い。本当に大嫌いだった」


 間近の瞳が体温をなくしていた。

 煙草の灰が、黒ずんだコンクリートの上に落ちる。それは吹き抜けた強風がすぐに攫っていった。


「さよなら、先生」

 去る彼女の背を無言で見送る。

 彼女の言葉のどれが本当で何が嘘なのか、考える権利はなかった。

 煙草が燃え尽きて指を焦がしたが、倉科は日暮れが来てもその場に立っていた。


〈了〉

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煙草と少女 長谷川昏 @sino4no69

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