第2話
目覚めて初めに見たものは、黒く厚い雲だった。朝日がない、どんよりとした外。まるで今の自分の心境を表しているかのようだ、と由之は思った。おもむろにカレンダーに目をやる。
(金曜日……か)
心の整理がつかないままきてしまった約束の日。
畳んだ敷布団を押入れに入れるのにも、力が入らず、部屋の隅によけておいた。にも関わらず、いつもなら眠い眼は、変に冴えている。
居間に行くと、鼻歌を歌いながら食器を片付ける母の姿があった。
「え、もうご飯食べたの?」
この時間なら、いつもは朝食が並ぶ前なのに。
「今日は半日お休みをもらう代わりに早めに出勤することになったの。あ、由之のご飯もできてるわよ」
母は食器を洗いなが振り返り、顎でクイっとテーブルを指す。そこにはいつもとか変わらない朝食があった。それに一度目をやってから、母の背中に話しかける。
「半日も休むの?」
「行くまでに家のこと片付けないといけないからねー」
ふーんと納得したように言って、由之は用意された朝食の前に座った。まだ寒い朝に、暖かい味噌汁をすする。ほかほかの白米に、目玉焼き。どれもいつもなら喜んで食べるが、今日は食欲が出ない。
(どうしよう、これじゃ食事に行っても何も食べられないかもしれない。バイトが入ったって言おうかな)
そんなことを考えていると、母が由之を呼んだ。
「由之、部屋から携帯の音がするんだけど、誰かから電話じゃない?」
その言葉で由之は確かに着信音が聞こえた。慌てて立ち上がり自室に向かう。携帯のディスプレイには望月琴子と出ていた。望月琴子は、由之が二週間前に始めたバイトの先輩である。
由之は一息吸って、通話ボタンを押した。
「もしもし」
「あ、おはよう」
女性にしては少し低い声で、そのせいか言葉一つ一つが淡々と聞こえる。だが、本人曰く怒っているわけではないらしい。まだあって二週間と言うこともあるが、由之はまだ望月の口調に慣れていなかった。電話がかかってきたのも初めてで、なんだか変に緊張してしまう。
「あの、何かありましたか?」
「昨日山口くんシフト入ってたでしょ?休憩室に数学のプリントがあったらしいんだけど、それって山口くんのプリント?」
由之はハッとした。確か昨日バイトの休み時間に今日提出の課題をやっていないことに気がついて慌ててやっていた。ファイルの中を確認したが、確かにプリントがない。
「すみません!それ、俺のです!」
慌てる由之にも、望月はだろうねといった感じで冷静に話す。
「なら、私が預かってるから。山口くん、駅前のコンビニって登校する時通る?」
「あ、はい通ります!」
「じゃあ、そこで渡すから。七時三十分に来て」
「わかりました、ありがとうございます」
通話を切って、安堵する。
(良かったー気がついて。数学の先生提出物にうるさいからなぁ。今度からはバイト先で課題はしないでおこう)
部屋を出て、今に戻ると母は化粧も終わり、玄関に向かう途中だった。
「誰からだったの?」
「バイト先の先輩。俺の忘れ物預かってくれてるみたいで。それを取り行くっていう話」
「まぁ、忘れ物には気をつけなきゃダメよ」
母はそう言って靴を履く。
「じゃあ、お母さん行ってくるね。七時に智樹さんが迎えに来るから。由之もそれまでには帰ってくるのよ」
「……うん、わかった」
「じゃあ、行ってきまーす」
母は上機嫌で出て行った。残された由之は冷めてしまったご飯を一人で食べた。先ほどまで無かった食欲は、一人になることで少し出てきた。今が六時五十分。駅前のコンビニまで自転車で約十分かかる。まだ着替えもしていない由之は慌ててご飯をかき込んだ。
コンビニが見えてきた頃には、もう望月はそこにいた。バイト先で見るときも由之は思っていたが、望月の通う学校の制服は目立つ。珍しい白いブレザーに行き交う人はチラチラと見ている。だが、望月は一年で慣れてしまったのか、はたまた鈍いだけなのか、周りの目など一切気にしていようだ。
自転車に乗ってきた由之を見つけると、望月は鞄の中からファイルを出し始めた。
「おはようございます」
「おはよう、はいこれ」
スッと差し出されたプリントには名前が書かれていない。
「これからは先に名前書いた方がいいよ。バイト先、高校生多いし。シフト一緒だったら片っ端から連絡しないといけなくなるから」
小学生のような指摘をされて、恥ずかしくなった。
「はい、以後気をつけます」
用は済んだと言わんばかりに、望月はすぐさま踵を返した。
「じゃ、またバイトで」
「あ、はい」
そそくさと駅のホームに入って行く望月を後ろからボーっと見ていた。特別美人というわけではないが、スッと筋が通ったような綺麗な歩き方は誰もがついつい見てしまう。一つ年上の望月だが、その年の差以上に大人っぽさを感じる。
「山口~」
その声で我に返った由之は、声のする後方に振り返った。
「あ、花巻」
同じクラスの花巻奏多が、黄色いリュックを揺らしながら元気よく走ってくる。由之のそばまでそのままの勢いで走ってくるのかと思ったら、駅のホームを見ながら減速し、最後の二メートルほどは歩いてきた。その間、花巻の目線はずっと駅のホームに向けられていた。
出会って開口一番に質問してきた。
「山口、さっきまで一緒にいた他校の女子とどういう関係?」
どうやら先程までのやり取りをどこかで見ていたらしい。ホームを見ていたのは、望月が入っていったからか。
由之は誤解を招かぬように、丁寧に説明した。
「あの人はバイト先の先輩だよ。今日提出のプリントを俺がバイト先に忘れてたから、それを届けてくれただけ」
「ふーん。え!?今日って何か提出物あったっけ!?」
「数学のプリントがあったじゃん」
花巻はわざとらしく頭を抱えた。
「うわー忘れてた。学校行ったら見せてくんね?」
「別にいいけど、俺花巻より学校着くの遅いよ。花巻、バス通だって言ってたよね?」
そう言いながら、由之は数メートル先にあるバス停を見る。すでに次のバスを待つ列ができている。
「ヘーキヘーキ。俺ここに乗ってくから」
そう言ってポンポンと叩いたのは、由之が乗ってきた自転車の荷台だった。そして花巻は由之が何かいう前に、その荷台にヒョイっとまたがってしまった。
「ほれほれ、早く出発せんかい」
「いや本気で言ってんの?無理でしょ。交番の人に止められるよ」
「残念だがここの近くには交番はないんだよな」
「んーでもー」
悩む由之を花巻は荷台に乗ったまま引っ張った。
「ほら早くしろよ!俺のプリント写す時間がなくなるだろー」
悩みに悩んだ由之だが、二人乗りが楽しそうという好奇心に負けて、サドルに乗った。
「あー、もう!」
そのまま勢いよく地面を蹴った。男二人を乗せた自転車は歩いた方が早いのでは、と思うほどノロノロと進んでいった。
「山口はほんと力無いなー。もっと思いっきり漕げよー」
「じゃあ、歩いて行けよ!」
学校に着いたのはチャイムがなる十分前だった。
「二人とも遅かったな」
そういって読んでいた本から顔を上げたのは、由之の中学からの友人明石健太郎だ。明石はその見た目からよく野球部員と間違えられるが、文芸部に所属する文化部部員だ。
由之は息を整えながら明石の隣の席に座る。
「朝から、花巻が自転車に乗せろっていってきて」
「それで素直に乗せてきたのか」
二人から離れた席である花巻はリュックを自分の机に置くなりすぐさまこちらに飛んできた。
「山口!プリント見せて!」
「あーはいはい。あ、ついでに俺の名前書いといて」
「はいよー」
プリントを受け取った花巻は揚々と席に座り、筆箱を出し始めていた。
明石はそれを見ながら、由之に話しかけた。
「花巻は、面白いやつだなー」
「面白い?まぁ、面白いけどプリント見せてって言っておいて、人に自転車漕がせるなんて、もっと謙虚になるべきだと思う」
それを聞いて明石は苦笑いをする。
「由之は厳しいな」
でもさ、と続ける。
「花巻はバス通だったよな。定期忘れたのか?」
「いや、俺の方が学校に着くのが遅くなるから、なら一緒に行くって感じで」
「ん?なら二人乗りなんてしなくても、そこでプリント渡せばよかったんじゃ無いのか?先に花巻が学校に着いて写せばちょうど由之が来た時に返せるだろ?」
「あ」
由之は明石のその言葉を聞いて、思わず口が開いた。
「今回は花巻が一枚上手だったてことだな」
由之は、それを聞いて机の上に突っ伏した。上で明石がクスクスと笑っているのがわかる。なんだかそれにちょっとムッとした。突っ伏したまま首を明石の方に向ける。
「なんでそんなに笑うんだよ」
明石はそれでも笑いながら言う。
「いや、なんともなさそうでよかったと思って」
その言葉を由之は不思議に思った。
「いや、なんともなく無いんだけど。すごく疲れたんだけど」
由之はそう言って反対側を向いてしまった。視線の先に花巻が写って、ブツブツと文句を言っている。そんな由之を見て、明石は苦笑しながら小さく言った。
「そういう意味じゃないんだけどなぁ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます