第1話

 春先の冷たい風が、窓を揺らす夜。

 一年前に移り住んだ小さな団地は、街の隅に追いやられたようにひっそりと建っている。階段下の蛍光灯はチカチカとオボつきながら入口を照らそうとしている。その周りに、我先にと虫たちが集まってくる。

 由之と母はその下をスーパーの袋を下げてくぐる。荷物を持っていると、人とすれ違うことも憚られるほど狭い階段を上がり二階の自宅に向かう。

 壁にごつっと当たったスーパーの袋を見て、母はうーんと唸った。

「由之と久しぶりの買い物だったけど……ちょっと買いすぎたかしら?」

「冷凍できるものは冷凍しておけば大丈夫だよ」

 その後もごつっと壁に当てながら母は階段を上る。重いものは基本、由之の持つ袋に入っているがそれでも母は少しよろけている。そんな母を、先に上り終えた由之はじっと見ていた。その視線に気がついた母はニコリと笑いかえす。

「どうしたの」

 由之は首を横に振った。

「なんでもないよ」

 階段が狭いということは、踊り場も狭い。ただでさえ狭い階段の踊り場は自宅の扉を開けるとさらに狭くなる。また、この扉も軋んで重く、建物の古さを物語っている。

 由之の両手はスーパーの袋で塞がれていたが、右手の袋を手首にかけ直し、ドアノブに手を伸ばした。

「荷物持とうか?」

 母が後ろから声をかける。

「大丈夫、開けられる」

 由之は右手でつま先が差し込める隙間分を開けたら、そこに器用につま先を差し込み手前に引っ張った。それを見て母は「まあ」と言いたげに口を開けた。

「由之は器用ね」

「――別に普通だよ」

 部屋の中は真っ暗で何も見えない。すぐに左の壁にあるスイッチを入れた。すると玄関のみが照らされる。床に袋を置き、これまた狭い玄関で順に靴を脱いで上がる。

「ただいまー」

「ただいまー」

 誰もいない部屋に、二人で挨拶をする。これがここに移り住む前からの決まりごと。家に帰ったらただいま。出かけるときはいってきます。当たり前のことだが、由之と母にとっては特別なことだった。

 父がいなくなったとき、約束したのだ。

 絶対に挨拶はすること。父さんがいつでも返事できるように。


 

 再び袋を持って居間の小さなテーブルの上に置いた。

「ありがとね。さ、今からお母さんはご飯作るわね。何が食べたい?」

 そう言いながら母は、ハンガーにかけられたエプロンを着る。

「母さんの作ったものなら、なんでもいいよ」

「それ、嬉しいようで複雑だわ。もっと遠慮しないで食べたいもの言っていいのよ。ハンバーグとか、焼肉とか、唐揚げとか」

 由之は少し笑って答えた。

「じゃあ、また今度してよ。どっちも早く帰ってこられる日に」

 その言葉に母はぱぁと明るくなった。

「そうね。よし、お母さん張り切っちゃうわ!」

 母の姿を見て由之は微笑んだ。

「で、今日のご飯何?」

「今日はお母さん特製もやし炒めひき肉入りよ!」

 そう言って、腕まくりまでしながら準備を始めた。由之は制服を着替えるために、自分の部屋に向かった。



 襖を閉めてすぐ、重力が強くなったかのように、由之はその場に座り込んでしまった。

 そこからはあの光景がフラッシュバックされる。

 母の横に父ではない男が立っていて、二人で笑っていて、なおかつ2人は愛し合っているという。春井に会ったのはあれっきりだが、あの鈍器で殴られたような感覚は、今も鮮明に蘇る。幻覚として目の前に春井が現れそうだ。

(母さんの歳で付き合ってる、てことは……そういうことだよな)

 由之は頭を抱えた。

 こんな日が来るなんて思ってもいなかった。母の幸せが、自分を苦しめるなんて。父を裏切ることになるなんて。この先の未来はだいたいわかっている。でも、それは自分の父を裏切ることになるのではないのか。じゃあ自分は母の幸せに反対することができるのか。

 母の幸せと自分の苦しさに板挟みになっていることは自分でよくわかっていた。でも、それを誰かに相談できる訳でもない。


 考えても自分では答えが出せない。


 もどかしい。


 辛い。


 苦しい。


 悲しい。


 しんどい。






「―――父さんに会いたい」






 トントン。

 その音に、びくりと肩が跳ねた。母が襖を叩いた音だった。

「由之、ご飯できたわよ」

「う、うん。今いく」

 由之は慌てて制服を脱いで部屋着に着替えた。ついでにスマホの画面で目が赤くなっていないか確かめて、部屋を出た。



 テーブルの真ん中で、もやし炒めがほかほかの湯気をあげていた。ここ数年山口家ではお馴染みの母特製もやし炒め。ひき肉が安く手に入ったときは、ひき肉入りになる。

 母はよっぽどお腹が空いていたのか、手を洗う由之を急かした。

「はい、やっと揃った。じゃ、いただきます」

「いただきます」

 もやし炒めの他に、大家さんからもらった沢庵と、一階に住む物腰の良いおばあさんからもらったイチゴが置いてあった。

「そう言えば、今日職場の人がオススメのレストラン教えてくれたのよ」

 それを聞いた由之は目を丸くした。れすとらん?いや、聞いたことは流石にある。だが、母がレストランの話などなぜするのか。節約第一のこの家には無縁のワードだ。

 由之は聞き返した。

「なんで急にレストランの話?」

 母はニコニコしながら、箸を置いく。そして、屈託ない笑顔とともに、発した言葉で由之の心を貫いた。


「智樹さんと三人でそのレストランに行きましょうよ」

 思わぬ言葉に、口の中を思いっきり噛んでしまった。由之は顔が歪んだ。口の中を噛んで痛いというのもあるが、それ以上に母の提案が悲しかった。由之はそれを悟られないように、噛んでしまった方の頬を手で押さえた。

 そんな由之を見て、母は慌てた。

「どうしたの!?」

「―――口の中噛んだ」

「大変!早く口の中濯いできなさい!」

 由之は立ち上がり、台所の蛇口をひねった。後ろで母が話しかけてくる。

「びっくりしたじゃない。いきなりあんな顔するんだもの」

 由之はギクリとした。母に不快な思いをさせてしまったかもしれない、という考えが頭をよぎった。

 濯ぎ終えて、食卓に戻る。でも、平常心ではない。座ればまた、さっきの話の続きが始まることが怖い。

「でね、さっきの話の続き。由之はいつが空いてる?」

「……三人でじゃなくて、二人で行ってこれば。ほら、俺が水を差すのも悪いし」

 その言葉に母は笑う。

「どうしてそこで遠慮するのよ。二人では何回か出かけてるから、気を遣わなくていいわ。今度の食事は由之に智樹さんを知ってもらうためなんだから」

 母の言葉全てが痛い。母のその心から楽しそうな笑顔ですら見てられない。

 由之は顔が隠れるように、茶碗を高く持ち上げ、米を口の中にかき込んだ。

「まあ、いい食べっぷり」

 母は呑気にそんなことを言う。

「で、どの日が空いてる?」

 母に悪気はない。愛する人に、息子を会わせたいだけ。ただ純粋に、3人で幸せになりたいと思っているだけ。自分にそう言い聞かせる。

 由之は小さな声で答えた。

「今週の金曜日なら……」

 すると母のテンションがさらに上がったのがわかった。

「金曜日ね!次の日が土曜日だし、いいわね!智樹さんに連絡しておくわ!」

 もう、どうすればいいのかわからなくなり、由之は小さく頷いた。

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