捨てる彼あれば、拾う彼あり

ぺこくま

〜小さな出会いに救われる〜

 結婚おめでとう。で、誰と結婚するの?


 私は受話器の向こうの、自分の彼氏だと信じている町田 わたるにそう言った。


「俺、結婚するんだ。」


 確かにそう聞こえた、だから反射的に言った、おめでとう。

 でも相手は私じゃない、だから聞いた、誰と?

 どんな返答でも納得がいかないのに、会話は続く。


「桃子、これまで2年間ありがとう、楽しかった。」


 そっか、楽しかったか。よかったよかった。


 今のこの状況を理解できないまま、それでも前向きな考え方で自分の気持ちに折り合いをつけようとしている。


 私は電話を切って、しばらく部屋の壁を見つめていた。


 別れた?ってこと?


 声を出して言ってみた。

 認めたくないのか、確認なのか。

 そっか、泣かないために感情を止めたいのかもしれない。



「桃子!桃子ってば!」

 そう呼ばれて私は今いる場所が会社であることに気が付いた。泣き腫らした目が痛い。

「桃子、ヤバイよ、早退したほうがいいよ。」

 同僚の並木春菜が心配そうに顔を覗き込む。確かに会社でパソコンを叩きながら無表情で泣いているのは、誰の目からも奇異に映る。持ち前のポジティブ思考で昨夜の渉のことを消化した、と思い込んで出社したものの、どうやら勘違いだったようだ。

「うん?春菜?私、ヤバイ?」

「ヤバイ、かなりヤバイ。帰りなさい。課長には私から言っておくから。」

 春菜は私を席から追い立てて、背中を押した。


 わたくし、足立桃子と春菜は同期入社で31歳 。気付けば2人とも女性社員でなかなかのベテランになっていた。明るくてパーッとしている私に対して、春菜は地道で堅実。一見すると正反対だが、だからなのか、ウマが合っている。ここぞという時の察し方が絶妙である、そう、今日みたいに。春菜、いつもありがとう。

 

 平日の午前11時。名古屋の中心地となれば、思いのほか行き交う人がいる。仕事をしていると、世の中の人々がみんな朝の8時半から17時15分までどこか拘束されていると思いがちだが、そんなこともないんだな、と私は公園のベンチに座りながら、ボンヤリ鳩を眺めた。


 昨日の電話ってなんだったんだ?


 渉とは半年前から名古屋と札幌の遠距離恋愛だ。

 名古屋で同棲してて、渉が札幌へ転勤になった。その話を聞いた時、渉が私に「ついてきてくれ」と言ってくれるのではないか、と思った。しかし、渉から出た言葉は、「俺も桃子の住むところ、一緒に探してやるから。」だった。若干察してはいたものの、落胆は隠しきれず、彼の申し出を断って一人で自分だけの新居を探しに行った。

 思い出せば、どちらからも「付き合おう」と言ってない。好きになった私が渉のアパートに転がり込んで、確たる言葉のないまま、1年半一緒に住んでたってわけだ。


 もしかして、遠距離恋愛だと思ってたのも私だけ、同棲も単なる同居だったかもしれない。でもそれを確認する必要はもうない。


 もしかして、渉は断れずに一緒にいてくれたのかもしれない。それでもよかった、それでも私は渉が好きだった。もちろん、今の今だって。


 連絡してきただけ、よしとするか。


 遠距離になってから、月に1回連絡あればいいほうだった。

 そんな渉が電話してきたんだから、一応のケジメをつけてきたのかもしれない。きっと私は渉の彼女だった。


 人は心の均衡を保つために、おかしい理屈でも納得しようとするものだ。


 そりゃあ、連絡無しで結婚されちゃうよりはいいかもしれないけど、連絡すれば結婚してもいいのか?といえば、違うような気がする。

 私ね、30歳過ぎたからって結婚するとかしないとかこだわってないんだけどね。でも結婚するかもなあ、なんて思ってたりもしたんだけど。だいたいさ、私が一体何をしたって言うんだよ、真面目に生きてたかって聞かれたら、大手振ってうん!とは言えないが、でも人様に迷惑かけないで生きてきたと思うぞ。もう、どうしろってんだよ。


 自分の結婚観や人生すら疑問に思い、鳩に視線を戻す。

 首が変な動きしてるよな、鳩。涙が溢れる。


 うん?何か視界に入った?


 自分の隣に気配を感じて顔を右側に向けると、そこには50歳前後の男性が座っていて、こっちを見ていた。


「わ!」


 涙がピタっと止まる。思わず声を出したのは、その男性がいたからだけではなく、警戒するほどの怪しい笑顔だったからだ。


「お嬢さん、こんにちは。」

 男性はハスキーな、いわゆるイケボで挨拶をした。


 この男性、きっと若い頃はかっこよかったに違いない。しかし、お嬢さんって。そんな歳でもない。なーんか馴れ馴れしいんだけど。


 と、訝しがっていたのに。


「こんにちは。」


 私も挨拶してしまった。人にはちゃんと挨拶しなさいという母の教えがこの時ほど恨めしいと思ったことはない。さらに人見知りしない性格も災いしてる。


「お嬢さん、いいよね〜、わたくし、こういう者です。」

 と、男性は全身を舐め回すように見た後、名刺を出した。そこには


『ファッションヘルス チューリップ 代表 武藤 浩介』


 と記されていた。


 ファッションヘルス?って?へっ?


 あまりにも縁のない世界で、すぐさま理解ができない。


「こういうの、興味ないかな、って思ってね。」

 武藤と名乗った男性は胡散臭い笑顔を向ける。私はやっぱり理解できないでとりあえず武藤を見る。


「名前はなんていうの?」


「桃子」


 しまった、答えてしまった。どうもこの人のペースに乗せられる。


「今は何してるの?」

 武藤は笑顔で畳み掛けてきた。


 今、何って・・・


「うーんと。鳩見てる。」


 一瞬の沈黙の後。


 わっはっはっはっは!

 腹を抱えて笑う武藤を私は呆然と眺めていた。そして、ひとしきり笑い終えた武藤はこう言った。


「俺、職業を聞いたつもりだったんだけどね〜、日本語って難しいね〜。」

 と言ってまた笑った。そこには数分前の企んだ笑顔ではなく、無邪気な表情があった。案外悪い人ではないのかもしれない。


「あ、職業ですか、しがない会社員です。」


 クスッ。つられて笑ってしまった。それを見た武藤は真顔になった。


「よかった、やっと笑った。」


「えっ?」


「鳩見ながらボロボロ泣いているの見たら、気になっちゃって。」


 え?まじか?そんなにヤバイ人か、私。


 武藤は言葉を続けた。


「いや、いい子だなって思ったのもホントだけど。おじさんの好み。一応スカウトだし。」


 スカウト。業種はともかくスカウトされるって悪くない。こんな最悪の時じゃなかったら嬉しかったかも。


「あんまり悔しそうに泣いてるからさ、励ましたいって思って。」


 意外な言葉だった。


 は?悔しそうってなに?!

 悔しくて泣いてたんか?私。自分でもわかんない。

 なんだよ、励ましたいって。

 私のこと、知らないくせに。

 励ましたいってなんだよ・・・。


 不意に温かいものが胸に広がる。また涙がこぼれる。


「ご、ごめん、なんか変なこと言った?ごめんね、ごめん。」

 武藤が初な男子学生みたいにうろたえた。ちょっと意外だ。

 ただ、彼の左手が私の頬を包んで親指で涙をぬぐっているあたりは女性慣れしている。きっと若い頃もてただろう。いや、多分今でも、もてる。


「大丈夫、変なことは言ってない。たいしたことないよ、彼と別れただけ。結婚するんだってさ、彼、私じゃない人と。」


 私はそっと武藤の左手を自分の手で離して、涙を拭いながら顔を左に背けた。今更だが泣いている顔を見られたくなかった。そして言葉を続けた。


「なんとなくわかってたんだよね、こんな日がくるってこと。この人とは結婚しないんだろうな、って。彼の考えてることはまったくわからなかったのに、それでも彼が好きだった。彼が『嫌いだ』とか『好きな人ができた』とか言ってくれないと私からは別れられなかった。」


 今、武藤はどんな表情をしているのだろうか?


「でも、残酷だよね、この日が来るって予告とかあればいいのに、突然だもん。それにただ別れるんじゃないもんね、結婚するんだもんね、『結婚』の破壊力、半端ないよ。こんなに訳がわかんなくなるくらい悲しくなるなんて思いもよらなかった。これからどうしたらいいんだろう。」


 私は言葉を切って、顔を武藤に戻した。


 今日2回目、涙がピタっと止まる。武藤は怒っていた。この人の怒った顔なんて知らないけど、明らかに怒っていた。


「え?なにそれ?よく意味がわかんないけど、二股かけられてたってこと?その彼氏、ムカつく!おじさんが彼氏と話つけてやるっ!どこに行けばそいつと会えるんだ?!」


 あまりの剣幕に私はあっけにとられつつ、質問に答える。


「札幌」


「さっ・・・ぽろ?」


 ぶんぶんと回していた拳の行き場を失くして武藤はゆっくりと腕を下ろした。

 その仕草がしゅんと肩を落としたみたいになって、かわいらしかった。


「ありがとう、武藤さん。私は大丈夫。」


 自分のことのように怒ってくれる彼が愛おしく思えた。

 うつむきかけてた武藤がはっと私を見つめ返す。


「桃子ちゃん、俺は何も・・・。」

 武藤は切ない視線を向けてくる。私は首を振った。


「ううん、私は武藤さんから元気をもらったよ。」


 私は両腕で力こぶを作りながら、笑った。


 本当にそう思った。

 武藤さんには違う目的があるかもしれない。

 でも、今、彼からもらった力は本物だ。


 武藤はぐっと私を見つめた。


「桃子ちゃんの笑顔は宝だね。こちらこそありがとう。」


 彼の右手がガッツポーズの私の頭に伸びてきて、ふわっと撫でる。

 彼の左手がもう一度私の頬を包み込む。


 こんなに優しい感触は生まれて初めてだ。

 こんなに柔らかい空気を私は知らない。


 ありがとう。ほんとにありがとう。


 自分の頬を包む温かい手を握り締めながら、昨夜から幾度か流したかわからない、涙が溢れる。

 でもその涙はもう、悔しい涙でも悲しい涙でもない。

 澄み切った優しい涙だった。

 


 この日以来、武藤さんに会ってない。

 もちろん、スカウトの話は丁重にお断りした。

 時が経てば武藤さんの名前を忘れてしまうかもしれない。

 でも、あなたと出会ったことは忘れない。

 この出来事は私の一生の宝だから。

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