第3話

 その後一体成がどのようにして助かったのかを俺は知らないが、成は自分に怪我を負わせたのが俺だということは医者や親には言わなかったのだろう。成は事故の後しばらく、眼帯を外せずに過ごしていたが、俺は自分の親からも成の親からも、何も言われることはなかったからだ。馬鹿な奴だ。俺は、お前のことを裏切ったっていうのに。

 やがて成の眼帯は外れたが、右目の横、眼帯の下に隠れていた大きな傷が露わになり、かえって痛々しいくらいだった。あの大事故から、成の命は助かったが、その傷だけはどうしたってこの先消えることはないらしいということを知った。あの日以前の一切の記憶を、その傷が成の美しい顔に刻み込んでいるように、俺たちの時間はそこで止まったのだ。

 それから今まで、俺と成は一言も会話を交わしていない。事故の少し後に、俺たちは小学校の卒業を迎え、同じ中学に入学したが、そのまま中学の3年間も、ついに会話は一度もなかった。

 初めのうちこそ成は俺の姿を認めると、よっ、というふうに片手を挙げて何か言いかけて口を開いたが、俺はあからさまに目を逸らした。視界の端に、挙げた手を力なく下ろし、寂しげに俯く成が見えた。そんなことを何度か繰り返すうちに、成の方も俺に話しかけようとすることはやめたらしい。

 話さなかった、話せなかった、いや、今更、成に言葉をかけることなど、許されることではない気がしたのだ。心のどこかで、成のことを疎ましいと、そんな、思ってはいけないことを思い、そうこうしているうちに、こんな取り返しのつかない事態を引き起こしてしまった俺に、今更偉そうに言える言葉など、何もなかった。

 ――それに。俺には何となく、分かっていたからだ。この空白の3年ちょっとの間に、もし俺たちがそれまでと変わらぬ距離でいたら、どこかの時点で成は、俺を——求めてきただろうって。精神的にだけじゃ、なくて――。それは成が寧ろあまりに純真ゆえのことだ。男だからとか、友達とか、それ以上とか、そういう境界の概念が成にはないんだろう。どこまでも悪気がなくて、無垢な奴だ。

 だから、嫌いになれない。

 ――嫌いじゃないのに、話せなくて、触れてあげられなくて、ごめん。


 中学時代の俺は、かなり荒れていた、と思う。不良グループの奴らとつるんで、ケンカに明け暮れていた。子供の頃と同じ、やっぱり俺は滅多なことでは誰にも負けなかった。数え切れないほど人を傷付けた。力は成のためにしか使わないと、そう決めていたのに。

 いちばん傷付けてはいけない人を、ああもあっさり傷付けてしまってからは、それまで必死に必死に抑え込んできた俺の残虐性が、頭をもたげて、もう歯止めがきかなかった。――幼い日に自ら予見した、まさにその通りに。

 学校では成のことは、最初から他人だったかのように振る舞った。逆ベクトルで、ではあるが、そもそもが人と話すことが苦手な俺と成では、状況は全く動かなかった。


 そのまま時は流れ、俺たちは現在高校1年生。

 驚いたことには、入学してみたら、なんと同じ高校に成がいたのだ。

 成は、俺がこの高校に行こうとしていたことを知っていたのだろうか。たしかに俺たちは、世の平和的な幼馴染どうしと違って、「お前高校どこ行くんだよー?」みたいなやり取りは当然していないわけだが、風の噂程度にでも誰からも何も聞かなかったのだろうか。もし、一言でもそういう話を知っていたのだとしたら、――俺を避けるという選択肢はなかったのだろうかと、素直に疑問に思う。

 まあ、そこそこの規模の高校だったから、同じクラスでもないし、一言も話さなくても中学の時ほどの違和感はなかった。それでも、他中出身の奴らの間でも不良で有名な俺と、病弱で大人しい成とが、結び付く者は誰もいなかっただろう。

 ――やっぱ俺って、まだまだ不良のイメージなのかあ。

 さすがに高校生になってからは、ケンカしたり悪い仲間と付き合うのはやめていた。元々、成り行きであんな中学時代を過ごしていただけで、ケンカで勝ち続けて手に入れたい地位とか、大した理念とかがあったわけではないから、こんなことで親を悲しませるまでもないなと思ったら、そういう世界とはすっぱり縁を切ることができた。

 それからというもの、毒にも薬にもならない、まあ真人間になろうとしていたし、実際俺はかなり「普通の」人間に近付いていたと思う。

 入学直後こそ、同級生たちは俺に寄りつかなかったが、かつての地元一の不良中学生・姫木桐も、今となっては尖ることに疲れてただフラフラしているだけの男だと分かると、話してくれもするようになった。中学の時のように、教師に目を付けられることもない。

 だからちゃんと青春を送れていた。当たり前で、高校生なりの青春。

 詳しいことは分からないが、成も成で、俺の知らない新しい友達ができていたようだし、なんてことはない、普通の高校生活を送っていたんだろう。たまに校内で成を偶然見かけると、だいたいちゃんと誰かと笑い合っていたし。

 俺の、俺たちの過去は薄れつつあった。不良中学生をやっていた過去も、そのきっかけとなった、俺の許されざる罪も、それよりもっと前、成との二人だけの時間も。

 これでいいんだ。そう言い聞かせた。やり直して、お互いに新しい人生を歩めているなら、それで。これでいい、と思いたがる一方で、本当にこれでいいのだろうかという自問は消えなかった。

 俺の心はいつだって中途半端で、言ってみれば宙ぶらりんだった。それが例えケンカであっても、熱中して打ち込めるものがあった中学時代と違って、今の俺には何もなかった。俺は何者でもなかった。生きてる理由が思いつかなかった。ただ一秒ごと時間だけは流れて、あいつとの空白の時間も一秒一秒、どんどん長くなっていく。

 視界の片隅で見る成は笑っているけれど、その笑顔には他でもない俺が作った傷が深く、深く刻まれている。そういう瞬間に、忘れてしまっていいのか、忘れてはならぬと、戒める声がどこからか聞こえるのだ。


 たぶん人って、一度そう決めてしまったら、そうなってしまったら、何がきっかけだったのかなど最早忘れてしまっても、簡単には習慣を崩せないのだろう。自分の頭には実は毛ほどの柔軟さもなくて、人間なんて本来的にどうでもいいことに拘り続けるつまらん生き物なのだなということに気付いて、心底がっかりする。歯医者で取られる歯型。そう、あれ。まるであの歯型みたいだ。自分の心を塗り固めて、いつしかガチガチに固まっていく。しかも、死ぬほど息苦しい。あの歯型を取っている間って呼吸もままならないではないか。自分でしたことが、結局自分の首を絞めて。息苦しい、生きづらい。最初の理由はもう失くしかているのに、行動という型だけに、ずっととらわれていなくちゃならない。

 たぶん、成と話さないという状態も、そういうことだ。3年も経っているのだから、普通に考えればもう時効だ。今、なんでもないふうに成に話しかければ、わだかまりなく、幼い頃のように、話せる可能性だってある。それでも俺がそうしないのは、成とは話をしない、という思いに石膏が流し込まれて、すっかり固まってしまったからだ。半分意地みたいなものだろう。この日々が始まる時は、心のどこかではいつか元に戻れると信じ切っていたけれど、気づけば俺たちは、もう後戻りができないところまでやってきたのである。

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